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地域発見講座より 東大和の農兵②

3 農兵の出動

1 第二次長州征伐
慶応2年(1866)2月、高杉晋作らにより藩論を討幕に定めた長州藩
に対して、幕府は2度目の長州征伐を行います。しかし、長州と薩摩の
密約(薩長同盟)や奇兵隊の活躍などがあり幕府は劣勢を強いられます。
幕府はこの状況を変えるべく、江川代官支配地の農兵を戦地に送る計画
を立てました。
6月14日、蔵敷村名主の杢左衛門は日野宿に逗留していた代官所役人に
呼び出され、幕府の要請を受け入れるように迫られました。
しかし、杢左衛門は「最初、農兵お取り立ての御趣意とは、相振れ候間、
村々へ談じ候ならでは、お請け仕りかね候旨申し上げ・・・」
(「里正日誌」)と、
その場では決められないと意見しました。

2 武州世直し一揆
幕府が江川農兵に長州出兵を要請していたまさにその時、上野国・武蔵国の
貧農層から一揆が起こりました。一揆は瞬く間に関東一円に広がり大きな騒乱
に発展します。
「武州世直し一揆」と呼ばれたこの騒動は、米価高騰などにより困窮した貧農層
が米穀商人、質屋、大地主などの豪農層に対して、米価の引き下げ、質地・質物
の返還、施米・施金の実施を要求し、叶わなければ打ちこわしを働き、これが同時
多発的に蜂起されたものでした。
6月13日に武蔵国秩父郡上名栗村から発生した一揆は、わずか7日間で東は
中山道筋、南は多摩川流域、北は上野・武蔵国境まで一気に拡大し、参加した民衆は
十数万人と云われています。
農兵を長州に派遣する話は、一揆勃発で完全に立ち消えました。

3 江川農兵の出動
江川代官所の農兵隊は正式に一揆鎮圧の出動命令が下されました。抵抗する者は
「打殺」してもよいとの許可も降ります。
6月16日早朝、粂川村から「粂川より大岱(おんた)・柳久保打ちこわしこれ有り」との
一報が入り、蔵敷村組合9ヶ村の農兵、人足合わせて300人が粂川に出動し警備に
付きました。粂川に一揆は来ませんでしたが、柳久保の打ちこわし現場では田無村
組合農兵が一揆勢と交戦し、即死8人、13人召し取りの活躍を見せます。
さらに同日、日比田村(所沢市)から打ちこわしの脅迫がきているとの救助嘆願があり、
蔵敷村・田無村両組合が日比田村に出動しますが、一揆勢は来ませんでした。

一方、多摩川流域の築地(ついじ)河原では、一揆勢を日野宿・八王子宿・駒木野村
組合農兵が迎え打ち、激しい戦闘となりました。日野宿では名主の佐藤彦五郎が
農兵隊の他、撃剣組を率いて出動。一揆勢が川を渡る前に狙撃、あるいは斬り倒し、
2000人いた暴徒は即死18人、召し取り41人を出して退散しました。その他、大久野
村でも五日市組合農兵が即死10人、召し取り26人の活躍を見せています。

※(補足)日野宿農兵隊のこの時の行動については、佐藤彦五郎の孫・仁氏の「籬蔭
史話」(その中編をまとめた「聞きがき新選組」)に詳しく記載されています。
また、五日市でも大きな戦いがあったことに注目です。
当ブログでも取り上げましたが、大久野の羽生家に近藤勇の手紙が残されている
一件(「羽生家と近藤勇書簡」)で、新政府の追手を逃れるために彦五郎が頼ったのが
羽生家だったことも、農兵隊の連携から考えれば理解ができます。

一揆勢は6月19日には壊滅し、警備や各地の見舞いに行った蔵敷村組合農兵や
杢左衛門も月末までには帰村しました。暴徒は各藩の藩兵や幕府軍によって鎮圧され
ましたが、特に江川農兵の攻撃が一揆勢の壊滅に効果的であったとされます。
この影響は各地でも広まります。
横浜では代官の今川要作が村々に農兵取立ての意向を示すと、寄場組合村でもこれ
を受け入れ、「綱島農兵隊」「川崎農兵隊」が誕生しています。

※(補足)今夏、横浜歴史博物館の企画展「戊辰の横浜」(「横浜歴史博物館『戊辰の
横浜』展」
)で横浜の農兵隊について見学してきました。「里正日誌」には、一揆
騒動の後日、今川要作が江川農兵隊を視察に訪れたことが書かれています。
「廿三日、御代官今川要作様八王子出立、砂川中飯、奈良橋継立、所沢泊まりにて
御通りにつき、警固として農兵差し出し候方然るべき旨砂川村名主源五右衛門申し
越し候間、大急ぎにて組合村農兵呼び立て奈良橋へ罷り出で候ところ、御手代衆
達しご遠慮なされ候につき、すぐさま引き取り銘々帰宅、然るところ粂川村内もつれ
の儀について、兼て頼み請け候儀これ有る間、昼九ツ半時頃罷り出で同村泊まり」


4 農兵はどう期待されていたのか
東大和市内に保存されている、当時の農兵が使った「農兵訓練の栞」には、農兵が
どのように隊列を組み、行進し、いざ戦闘の際には小隊をどう展開させるかが書かれ
ています。これはおそらく、芝新銭座で教育を受けた幹部候補生が地元での農兵訓練
のテキストとして書き留めたものだと推察できます。

DSCF0545a.jpg

上のページには「騎兵ニ向ヒ」と書かれ、農兵の対戦相手として、騎兵も想定されている
ことがわかります。

DSCF0553a.jpg

このページには「撒兵(さっぺい)」の文字が見えます。撒兵とは歩兵のこと。文久2年
(1862)の文久の改革で、幕府に設置された「陸軍」において、小普請組の御家人を
集めて作られた歩兵隊を撒兵隊といいました。農兵隊の号令は撒兵隊と同じだった
ようです。なお、「気を着け」「右向け右」などの号令は江川英龍が考案したものです。

この栞の内容は「歩兵練法」「歩兵心得」といった幕府陸軍所発行の書籍から引用した
ものである可能性が高いと思われます。
農兵の訓練にはこれらの本に書かれた訓練法を、便宜上使用しただけなのかもしれま
せんが、農兵設置の元々の目的「地域の治安維持」だけではなく、幕府は騎兵との戦いや、
幕府正規軍との合同行動が可能なように農兵を考えていた可能性も考えられます。

慶応3年(1867)3月に、蔵敷村農兵隊は観音崎警固の命令が出たので出張しましたが、
3回目の命令には断りを入れています。また、12月には芝新銭座の江川調練場の警備も
命じられますが、村ではこれも断りました。
村側は、あくまでも農兵は地域防衛のためであることに拘ったのです。

4 維新後の農兵

慶応3年(1867)12月の王政復古の大号令により、幕府は消滅します。しかし、京都の
新政府がすぐに全国を統治できるわけもなく、江戸周辺では旧幕府の支配体制はそのまま
存続しました。当然、天領の支配も代官所が継続して行っていました。
ところが戊辰戦争が始まり、東征軍が東海道を進んでくると、代官の江川英武(英敏の弟)は
いち早く新政府に恭順してしまいます。旧幕府と支配地域との繋がりは絶たれ、江川支配地
の農兵は消滅することになったのです。旧天領の村々はほとんどが新政府に恭順の姿勢を
取りましたが、中には日野宿農兵隊のように、新選組(甲陽鎮撫隊)と共に新政府に抵抗した
所もありました。
戊辰戦争が終わり明治の世の中となると、農兵制度は完全に廃止となります。しかし、政府
には予算もなく、警察組織は江戸時代と同様脆弱なままでした。そこで政府は旧幕府と同様に、
各地域では自ら治安維持を行うよう村々に委託せざるをえなかったのです。
明治3年(1870)4月に農兵が使ったゲベール銃は政府に引き取られましたが、ミニエー銃
(国産スプリングフィールド銃)はそのまま貸与されました。蔵敷村で6挺、奈良橋村、高木村、
後ヶ谷村でそれぞれ3挺ずつが明治8年(1875)まで貸し出されていたことがわかっています。

幕末の多摩・狭山丘陵一帯は治安が悪化し、民衆は命と財産を自ら武装して守るよりほか
ありませんでした。多摩一帯に天然理心流などの剣術が流行したのも、そのためです。農兵
政策はその自衛手段と意識をさらに一歩進めたことになりました。開国派の江川英龍が代官
として村々を指導したことも、多摩の農兵が西洋式の訓練に順応できた大きな要因となった
でしょう。
しかし、彼らの武力行使は、あくまでも自らの命や財産を守る自衛に限ったものでした。

西南戦争が終わると、多摩でも自由民権運動が活発化します。庶民が自らの権利を主張し
始めたとき、その中心にかつての農兵組合が置かれていた場所が多いのは、無関係では
ないでしょう。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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