講座の2回目は、農兵についてです。
農兵とは何か?農兵とは武士の代りに、あるいは武士の補助として農民に武器を持たせて、
兵力とするものです。江戸時代は兵農分離が原則とされていましたが、時代
が下がってくると日本近海に外国船が現れるようになりました。日本は島国で
あり、海岸線を全て武士が守ることは困難です。海に面した各藩では農民、
漁民に武器を持たせて警備をさせるなど対策を立てるところが出てきました。
早いところでは盛岡藩が文化5年(1808)に、海岸線へ猟夫の配備を制度化
したり、水戸藩でも文政8年(1825)に郷足軽という海防要員を農民から取り
立てた例があります。
農兵には、農村に住む郷士、農民が在地のまま軍事訓練を受け正規軍の補助
をしたもの、農民が土地を離れ兵営に入って常備軍となったものなど、農兵を
採用した領主によっていくつかのパターンに分かれます。
1 江川太郎左衛門と天領1 江川の海防と農兵政策幕末当時、江戸近郊の海岸線はそれぞれの大名家に防衛守備が任されていま
した。しかし、どの藩も予算や人員が不足していたため消極的でした。江川代官所
の本拠地韮山に近い下田警備も小田原藩、沼津藩の担当でしたが、出動が遅く
当てになりません。
江川は幡崎鼎(シーボルトの弟子)や渡辺崋山との交流があり、蘭学への理解が
ありました。蘭学は医学として日本に入ってきましたが、やがて軍事学とセットに
なって国内の先進的な知識人の間に広まります。彼は高島秋帆から西洋式銃の
指導を受け、自ら銃の製作を試みるなど軍隊の近代化の必要性も感じていました。
江川は頼りにならぬ藩兵よりも地域住民に海岸線の防御を任せるのが有効と考え、
「農民に近代西洋戦術を学ばせ戦力とする」農兵の設立を幕府に献策します。しかし、
「農民が武器を持てば一揆に繋がる」と考える幕府からは許可が出ませんでした。
そこで江川は、実験的に自分の領地内の金谷で農兵の訓練を行います。嘉永2年
(1849)にマリナー号事件が起こると、自ら金谷農兵を引き連れ艦長と交渉し、マリ
ナー号を退去させることに成功します。江川は農兵の有効性に自信を深めました。
2 天領の治安悪化江戸時代後半は社会の経済活動が活発になる反面、天明の大飢饉(1783~88)
などの影響により土地を手放し無宿人となる者が多く出て、関東周辺の治安は悪化
して行きました。多摩地域を含む江戸周辺は天領、私領、寺社領が複雑に入り組んで
いたため、犯罪者が逃げ込みやすい環境にあったのです。
幕府は対抗策として、文化2年(1805)関東一円区別なく捜査ができる関東取締出役
(八州廻り)を設置し、さらに文政10年(1827)に、近隣の30~50ヶ村による寄場組合
村(改革組合村)を設置させ、治安・警察機能を村々の自衛に委ねました。東大和市域の
村々は所沢組合村に組み込まれ、後ヶ谷村名主の杉本平重郎や蔵敷村名主の内野
杢左衛門が小惣代に選ばれています。

安政5年(1858)に日米修好通商条約が結ばれると、「アメリカ人の自由行動は横浜から
10里以内、ただし六郷川(多摩川)を越えない」というルールができます。これにより、多摩
川筋にあたる武州の村々が江戸防衛の最前線に置かれることになってしまいました。
さらに安政7年(1860)桜田門外の変が起きると、幕府は多摩地域などに、水戸浪士が
村に入れば捕縛するように命令を下します。これは事実上の村への武力増強要請でした。
3 農兵政策の採用このような状況の中、ついに幕府は江川代官の意見を聞き入れます。英龍は安政2年
(1855)に54歳で亡くなっていましたが、息子・英(ひで)武(たけ)が代官となっていた文久
3年(1863)ついに江川代官支配地域の天領内に限って農兵の採用が、幕府によって
認められました。その地域は多摩川を越えた狭山丘陵一帯にも広がったので、英龍が当初
想定した対外国人という目的からははずれています。しかし、治安維持として農兵が組織さ
れることは、多摩の村々にとって大きな関心事となりました。
江川代官所の支配地域では、寄場組合とは別に新たに農兵組合を設立させ、組合ごとで訓練
や行動をすることになりました。東大和の村々は上新井村組合に入り、農兵の御用筋について
は田無村の下田半兵衛から受けるようにと指示がありました。しかし、元治元年(1864)に、
上新井村ほか入間郡の10ヶ村が江川代官所の支配から離れたため、東大和、東村山地域の
村々は新たに蔵敷村組合を結成することになったのです。
蔵敷村は正徳年間に奈良橋村から分かれてできた村で、幕末期に至っても幕府の正式な
書類には「蔵敷分」と書かれているなど、正式に独立した村とは見られていなかった様子も
見られます。
しかし、組合のように東大和市域周辺がまとまる時にはリーダー的な役割を担っています。
また、現東大和市の中で芋窪だけが、蔵敷村組合に入らず西方の拝島村組合に組み込ま
れています。
2 農兵の実体1 農兵の費用農兵の設置が決まった文久3年の11月、上新井村名主・市右衛門と蔵敷村名主・杢左衛門
の両名は代官所からの呼び出しを受け、田無村へ出頭しました。そこで
「方今御用途多きの折から、御救い筋とは申しながら御貸し渡しあいなるべき小筒、附属の
品々代金その外容易にこれなし。恐れ入り奉り候義にて右は御国恩の冥加あいわきまえ、
身元のもの共より献金あい願い候者もこれ有るべきか・・・・」(「里正日誌」)
と告げられます。幕府に予算がないので、各村々の有力者からの献金によって、農兵にかかる
経費を賄いたいと幕府が申し出てきたのでした。市右衛門・杢左衛門の両人は奔走し、組合の
22ヶ村133人から520両の献金が集まりました
(表A)。武蔵・相模2国の支配地14組合では、
献金総額が7847両になっています。
(表B)

※表Bは上新井村他10ヶ村が抜けたあとなので、蔵敷村組合の金額は表Aよりも
少なくなっている。
2 農兵の身分農兵に取り立てられた農民の身分について、当初江川は「平常は農民であっても調練時
には苗字帯刀を認める」と考えていましたが、実際には幕府はこれを認めませんでした。
つまり、身分は農民のままでした。
代官所は農繁期の訓練は避けるなどの便宜を計らい、決して高圧的な態度をとらず、
農民からの自主的な農兵への参加を促しました。
農兵には小銃による西洋式の訓練が行われましたが、その小銃について、当初幕府は
各組合が負担するように考えていました。しかし代官所は、それでは幕府の御威光が
下がるとして勘定所に意見書を提出し、幕府からの貸与として農兵に渡されました。
ここでも村々の負担をできるだけ軽くしようとした代官所の意向があったのです。
3 農兵の実施と訓練農兵の訓練が実際に行われたのは元治元年(1864)9月からでした。組合全体での
訓練に先駆けて、田無、拝島、青梅、檜原、蔵敷、氷川の6組合10ヶ村から11人の
代表者が選ばれ、芝新銭座にある江川代官の調練所で西洋式軍隊の調練が48日間
にわたって施されました。指導には鉄砲方附教授があたりましたが、この訓練は農兵の
幹部候補生教育であったと考えられます。訓練後には代官所から褒美として菓子が訓練
生に振る舞われ、代官所が村々への気遣いをしていることが窺われます。
翌元治2年(1865)3月には、蔵敷組合11ヶ村で29人の農兵人が決まりました。
(下図)名主の家から6人、組頭から9人、百姓代から1人と、半数以上を村役人層が占めています。
また、村役人本人よりもその子弟が多いため平均年齢は26.9歳と比較的若くなっています。
持高の平均が13.0石ですが、畑作中心の東大和・東村山地域では富農層といえるでしょう。
以上のことから村の指導者層が積極的に農兵政策に関わっていったことがわかります。


3月11日からは下稽古が、蔵敷村名主・杢左衛門宅の庭で行われました。この下稽古は
幹部候補生たちの指導の元に行われ、杢左衛門宅のほか、高木村庄兵衛宅の庭、野口村
正福寺境内で15日間に渡って実施されました。
6月からは、実弾射撃訓練も行われましたが、このときには代官所から教授方の手代がやっ
てきて逗留し、その指導の元に行われました。元治元年(1864)には横浜駐屯イギリス軍が
幕府陸軍への伝習も始まっていましたが、農兵への訓練はオランダ式でした。これは、江川家
の西洋流砲術が高島秋帆流だったからです。
蔵敷組合では百姓銀右衛門の持畑のうち、三反歩の土地を訓練用地として使うことになりま
した。現在の市立第九小学校の南側辺りがその場所です。銀右衛門には土地使用料として
作徳1ヶ年分として金2両が支払われ、その代金は村々が負担しました。


代官所から教授方がやってこない時には実弾射撃などの特別訓練はせず、名主や組頭
から選出された農兵世話人の元で日常訓練が行われていました。
また、訓練場には厳しい規則が定められます。
●火器取り扱いは慎重に行い、銃や付属品は大切に扱うこと●修行中は浮ついた心では
ならず、雑談は禁止。訓練場に通う往復もがさつな振る舞いをしない●礼節を重んじ、人の
善悪、上達度、他組合の悪口を言ってはならない●弁当は握り飯としおかずは味噌、梅干し
とすること●稽古着は質素にすること 等
4 農兵の武器 装備
小銃と隊服

韮山笠

弾丸

胴乱

万力、三ツ又等

組合旗

表Cにある「ケヘル」とはゲベール銃という「前装式滑腔銃」のことです。蔵敷村組合では
元治2年(1865)3月1日に10挺、慶応元年(1865)11月3日に7挺、同2年(1866)
1月14日に3挺、16日に5挺の計25挺の「舶来形ケウエール御筒」が貸し与えられて
います。
幕府は安政2年(1855)から江川英敏(英龍の子)に命じて国産のゲベール銃の生産に
乗り出していました、しかし、オランダから輸入した銃の方が優秀だったので、幕府は1万
6000挺のゲベール銃を発注しています。
一方、銃身に螺旋を刻み射程距離と命中精度を上げた小銃がミニエー銃です。この銃は
1840年代にフランス人のミニエが発明したものですが、これを改良したエンフィールド銃(英)
やスプリングフィールド銃(米)が幕末期に大量に日本に輸入されました。
幕府はこのミニエー式銃の国産化にも乗り出します。慶応2年(1866)7月に代官所は
外国産のミニエー銃を農兵用に貸し渡して欲しいと幕府に願いますが、これは却下され、代り
に国産のミニエー銃が15挺配備されたとの記録があります。これは米国産のスプリング
フィールド銃をコピーしたもので、上の写真の銃がそのときの銃であると思われます。
次回は「農兵の出動」です。
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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