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地域発見講座より 東大和市の幕末②

東大和市域に降ってきた、もうひとつの事件について見ていきます。

3 公武合体・和宮降嫁

1 公武合体
安政5年(1858)日米修好通商条約が結ばれますが、勅許を待たずに締結されたということで、
幕府は一斉に「尊王派」から批判を浴びます。そこを発端として「尊王派」と幕府の対立が激しさ
を増してきます。

●将軍継嗣問題 改革派(島津斉彬、松平春嶽ら)の推す一橋慶喜と保守派(井伊直弼ら)の
推す紀州藩主・徳川慶福(家茂)。血統を重視して家茂が14代将軍に就任。一橋派は
遠ざけられる。
●戊午の密勅 朝廷が先例を破り、安政五か国条約の抗議と幕府大名一致の攘夷政策を求め
た勅諚。これを幕府と水戸藩に出し、さらに諸藩へ開示するよう求めた。
●反幕府運動を続ける尊王攘夷派に対し、大老井伊直弼が安政の大獄を発動。
●桜田門外の変で井伊直弼が水戸・薩摩浪士に暗殺される。

さらに、諸外国との貿易が始まると、国内市場よりも開港場市場の方が高値で取引されたため
全国的に物価上昇を招き、さらに攘夷運動は活発化していきます。

これらの政治危機を乗り切るために、朝廷と幕府がより強固な協力体制を結ぶ動きが出てきま
した。幕府は将軍家茂と皇族の婚姻をもって公武合体とすることを朝廷に要請します。
一方の朝廷側では、孝明天皇の側近・岩倉具視が通商条約の破棄を建言し、天皇は攘夷実行
を条件に、異母妹の和宮を降嫁させる許可を出しました。万延元年(1860)10月18日、正式
勅許が出されます。
和宮は当時13歳。すでに婚約者・有栖川宮熾仁親王もいるのにそれを破棄して関東に下ること
に、大泣きをして反対しましたが、聞き届けられませんでした。

「惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」

文久元年(1861)10月20日、京都を出発した和宮の一行は中山道を江戸へ向かいます。
東海道ではなく中山道が選ばれましたが、東海道は大河川が多く予定が立て辛いこと、横浜
居留地の外国人遊歩地があること、尊攘派浪士による和宮強奪の危険性が高いことなどから
避けられたようです。
江戸の到着は11月15日の予定でしたが、沿道の村々の警備は徹底を極めました。一行の
通行中は前後3日間、中山道はもちろん脇往還に至るまで一般人の通行は禁止とされました。
武蔵国に入ってからは、11月11日本庄泊、12日熊谷泊、13日桶川泊、14日板橋泊、15日
江戸の行程でした。

2 助郷
各街道の宿場には問屋場があり、幕府公用の旅人の荷物はそこで人足や馬が次の宿場まで
送り届ける継立業務を行っていました。宿場には幕府が定めた一定数の人馬が用意されてい
ましたが、通行量が多くなれば人馬は不足します。そのため、宿場近くの村々から臨時の人馬
を集めて業務に使うことが決められていました。これを「助郷」といいます。
1日の助郷命令が出ると、その日は村を弁当持参で馬を引いて宿場に行き、翌日継立業務に
従事し、翌日帰村するというものでした。その間の経費は全額村持ちで、村や村民にとっては
かなりの負担でした。
さらに大量の人馬が必要になったときは臨時の助郷(加助郷)が命令されました。

文久元年9月、中山道浦和宿の問屋・星野権兵衛から狭山丘陵の村々に廻状が廻ってきま
した。

今度、和宮様御下向、当筋御通輿遊ばされ、右人馬御継立にて定助加助右助合打ち込み
候とも、とても人馬引き足らず申し候につき、その御村々差村の上、当宿へ当分増助合願い
上げ奉り候段、御奉行様へ願い上げ置き候につきお心得なされ前もってお掛け合いに及び候。
なお、追って御証文頂戴お達し申すべき間、兼てお心得その節差支えぬようお取り計らいなさ
れるべく候。この廻状御村下へ御請け印この者へ御戻しなされるべく候、以上。
(里正日誌)

差村に指定されたのは、粂川村、廻田新田(東村山市)、小川村、小川新田、大沼田新田、
鈴木新田(小平市)、中藤村、横田村(武蔵村山市)、柳久保新田、柳久保村、下里村(東久
留米市)、蔵敷村、芋久保村、芋久保新田(東大和市)。※狭山丘陵周辺のみ
さらに、大宮宿からも同様の要請がきており、東大和地域では後ヶ谷村、宅部村、高木村、
奈良橋村、清水村が差村に指定されました。「里正日誌」によれば、助郷に決められた場所と
人数の割り当ては以下の通りです。

11月11日 浦和宿 高100石につき2人
12日 浦和宿 高100石につき3人
     桶川宿 高100石につき6人
     夕酉の刻(18時)浦和宿矢来詰 100石につき5人
13日 浦和宿 高100石につき5人
     桶川宿 高100石につき10人
14日 夜板橋詰 高100石につき3人
15、16日 浦和宿 高100石につき3人  計 高100石につき40人
 (里正日誌)

浦和宿の助郷を命じられた東大和の村々の石高は、芋久保新田97石、蔵敷村215石、
芋久保村464石でした。
浦和宿では芋久保新田が17人、蔵敷村が37人、芋久保村が81人助郷に出て分宿したことが
わかっています。。この他大宮や桶川にも行っていたのですから、その負担は大変なものだった
でしょう。

20121222.jpg

漫画は2012年の再録です。
当時の記事はコチラ。
「ロイヤル・ウエディングは助郷で」(クリック!)


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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