Twitterのフォロワーさんからの情報で、横浜歴史博物館で幕末関連の企画展がある
ことを知りました。題して
「戊辰の横浜」。
この中で横浜の農兵隊についての展示もあると知り、多摩の農兵隊を調べていく上で
何か参考になることもあるのではないかと思い、先日の休みに行ってまいりました。


サブタイトルの「名もなき民の慶応四年」とあるように、民衆の側から見た戊辰戦争や
明治維新前後の様子を知ることができるワケです。この中に農兵隊も含まれるワケ
ですね。
いつもは空いている平日に美術館や博物館に行くワタクシが、わざわざ休日に行った
のは、学芸員さんのガイドがあるからでした。
展示は3部に分かれておりまして、
①新政府軍が横浜にやってきた
②幕府代官編成の農兵 綱島農兵と川崎農兵
③治安と支配 上野戦争前後という編成になっております。
ガイド解説の始まる1時間前に着きましたので、ぐるっと一回りして先ずは展示品や解説
を一通り見学。展示品のほとんどは古文書の類なので、一見すると地味な印象ですが、
書かれてあることは今まで知らなかったことばかり。
非常に興味あることばかりです。
14時になり、学芸員さんのガイドがはじまりました。
見学者は40人ほどもいたでしょうか。最初に展示品を見ておいてよかったです^^;
先ずは①のコーナー。
鳥羽・伏見の戦いのあと、新政府軍は江戸へ向けて進軍してきますが、横浜へは東海道軍
と東征大総督有栖川宮熾仁親王の一行が通行していきます。
その様子を戸塚宿の記録で知ることができます。
戸塚宿の定助郷を務める鍛冶ヶ谷村(栄区)の小岩井家の記録によれば、同宿には計12
藩、5500人の新政府軍が三日間に渡って通行し、それに対応するために2000人余りの
人足が継立に従事したということです。
学芸員さんが仰るには、近隣だけではなく離れた村々からも人足を求めたそうです。この辺り
は東大和市域の村々も蕨への助郷を命じられた経緯と似ています。
この東征軍御一行の行列を、なんと当時15歳の郁之助くんという少年がオールカラーの
絵巻物に描いて残しています。これが非常に細かく描かれていてビックリします。資料として
もかなりの価値があるのではないでしょうか。
これはぜひ、ご覧になっていただきたい!
また、東征軍の進軍に先立って、鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津兵が敗走する様子を書いた
古文書も展示されています。それによると、会津兵らは草履、下駄を履き、鎗や刀は鞘もなく、
紙を刀身に巻いていた状態だったそうで、生々しい様子が感じられます。
東征軍通行を円滑に行うために働いたのが、武州金沢藩米倉氏(藩主・米倉昌言)と韮山代官
江川氏(当主・江川英武)で、戸塚~神奈川宿を米倉氏、神奈川~品川宿を江川氏が賄い方
を担当したとのことです。
「里正日誌」によれば、江川英武は新政府に恭順するため上京していますが、残された代官所
ではこんな仕事をさせられていたんですね。この担当地域は江川氏の代官支配地域ではない
ので、元々の支配地域である多摩の村々はこの状況をどう思ったのか、興味のある所です。
さらに興味深く思ったのは、川崎宿の賄い方下役を務めた市場村名主の添田七郎右衛門が
その功績を認められて、江川氏から苗字を名乗ることを許されているんですね。川崎は江川氏
の支配地域ではないけれど、賄い方を江川氏が務めていたため江川氏が許したとのこと。
こういう例は初めて知りました。
②はいよいよ農兵の話。ワタクシにとってはメインディッシュ。
横浜市域には
綱島農兵隊、川崎農兵隊(呼称は便宜上)という2つの農兵隊がありました。
これは綱島村寄場組合、川崎村寄場組合という文政の改革組合村を基に編成されたようで、
多摩の蔵敷村組合や田無村組合のように、農兵のために新たに編成され直したものではない
ようです。
農兵隊結成の契機となったのは慶応2年(1866)6月の武州世直し一揆で、多摩農兵隊が
一揆鎮圧に活躍したのを見て、当地の代官今川要作が取り立ての意向を示します。組合村
でも取立願いを提出し慶応3年(1867)1月に結成されました。
ただ、綱島村では世直し一揆の際、日野宿農兵隊と連絡を取り合い、多摩川の渡船場警衛
についているので、元々の自衛意識は高かったものと思われます。
今回の展示では、日野宿名主・佐藤彦五郎の日記の一部も展示してあります。
慶応4年(1868)1月、彦五郎の日野宿農兵隊は横浜で20挺の元込め小銃を買いつけ
ますが、それは長尾村の人物(具体的には不明)の伝手によるものだったそうです。
時期的には鳥羽・伏見の戦いの直後であり、日野農兵隊は独自の行動をとりますが、
そこに川崎周辺も何らかの関係を持っていたことを窺わせます。
綱島・川崎両農兵隊とも、小銃は代官からの支給ですが、かかる経費は村負担という所は
江川農兵隊と変わりません。目的が地域自衛という所も一緒です。
しかし、彼らは代官以外に神奈川奉行の支配も受け、有事の際には横浜の港やその周辺
も警衛する役目を負っていました。
蔵敷村組合農兵では2回ほど臨時で観音崎台場の警衛に行かされたり、芝新銭座の代官
屋敷に詰めるように命令がありましたが、村では免除の願いを出していました。この辺りは
違いがあったようですね。
庄内藩による薩摩藩邸焼討事件の際には、逃げてきた薩摩藩邸の浪士2名を綱島農兵隊
が取り押さえるという手柄も取っています。
また興味深いのは、江戸城開城前の3月12日に横浜市域に入った新政府軍の岡山藩が
農兵隊の銃を回収していったということです。これは綱島・川崎の農兵隊だけではなく、周囲
の村々の獣害対策用の火縄銃まで回収し、さらには農兵隊の制服などまで持って行ったと
いうのですから、かなりの念の入れようです。このことによって、事実上農兵隊は解散。
蔵敷村組合でも、戊辰戦争終結後からしばらく経った明治3年(1870)4月に政府が銃の
回収を行いますが、このような早い時期に、しかも岡山藩という一藩がこのような行動を
とったというのは面白いですね。どのような理由があったのでしょうか?
③は上野に屯集した彰義隊が、ときどき横浜にもやってきて、献金を求めてきた資料などが
目を引きました。
村々では一応要求には答えるものの、要求額を一部に押さえて支払うなどしてやりすごした
ようです。これも東大和市域に振武軍がやってきたときと同じ対応ですね。
中にはニセ彰義隊もあったようで、ニセモノだとバレたときには人足たちから制裁を受けて
しまったとか。きっとボッコボコにされたんでしょうね。悪いことはしちゃダメです。
さらには正体不明の報恩隊という部隊や、仁義隊なども金銭を要求。仁義隊は「里正日誌」
に出てきた八王子に屯集して、村々から献金を要求した部隊と同じ隊でしょうか。
ざっと、こんな感じの企画展。
もっとたくさんの内容がありますし、展示品もゲベール銃やミニエー銃、上野戦争の錦絵など
もあり、充実しております。
学芸員さんも仰っていましたが、今回の企画展には一般的に有名な人物は出てきません。
(かろうじて江川英武あたり?)また、横浜は戊辰戦争の戦闘の舞台にはなっておりません。
ただ、そんな中だからこその、リアルな民衆の視線から見た幕末・維新を感じられたような
気がいたしました。
学芸員さんのお話で、多摩と横浜の農兵の比較ができて余は満足。
お近くにお住まいの方はぜひ!
(まぁ、ワタクシは車でちょい渋滞有りーので、片道2時間かかったけどね)
前回の記事でご案内した江戸楽アカデミー講座 「世間を騒がせた江戸の女性たち」 は
おかげさまで申込み数が上限いっぱい、SOLD OUTになりました。
ありがとうございました。ガンバリマス!
「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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イッセーさんなら、この企画展の面白さをわかってくださると思っていました。ひょっとして当方ツイートがお役に立ったのなら幸いです。
仁義隊は、「里正日誌」にも出てくる仁義隊と同一と考えて間違いないでしょう。貴ブログ記事2014.01.25のコメント欄をご確認いただくとよろしいかも。
なお細かいことながら、展示された古銃の1挺はゲベール、もう1挺はエンフィールド銃(アルビニー銃)です。
その通りです。歳月堂さんのツイートで企画展を知りました。この場でお礼を申し上げます^^
学芸員さんのガイドのあと、一人でたくさん質問してしまったので、申し訳なく思い名刺を置いてきましたが、後で学芸員さんからメールがあり、当方のブログを読んでいただいていることがわかりました。ありがたや節を踊る思いであります。
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