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世界遺産記念特集 都内の「潜伏キリシタン史跡」

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が、このほど世界遺産に登録されました。
世界遺産登録に向けて活動してきた方々、本当におめでとうございます。

ところで「潜伏キリシタン」てナニ?「隠れキリシタン」とどう違うの?という素朴な疑問を
持った方もいらっしゃるのではないでしょうか。
実はワタクシもその一人でした。
ていうか、そもそも潜伏キリシタンなんて言葉、最近になって初めて聞いたくらいです。
ということで、この二つはどう違うんだろうとネットで調べてみました。

島原の乱を経て鎖国が完成するのが1639年。以降、キリスト教が解禁される明治
6年(1873)まで、日本人キリシタンはひたすら隠れてキリスト教を守り続けました。
それはたった一人の指導者もいないまま230年間も教義を守り続けるという、世界でも
例を見ない独特の信教でした。
彼らが守り続けた教義はカトリックです。これをひたすら230年間迫害を避けながら祈り
通した信者たちを「潜伏キリシタン」と呼ぶそうです。
明治6年解禁となって、全てのキリシタンが新しくできた教会に駆け込み神父様からの
教えを乞いました・・・となれば話は早いのですが、実はそうではなかったようなのです。
一部の信者は、教会にも行かず、ひたすら江戸時代のままのように隠れながら先祖から
伝えられたキリシタンの教えを守り続けたのです。
なぜか?

先にも言いましたが、230年間正当な指導者も無いまま語り継がれた「日本キリスト教」は
在来の仏教や神道にも影響され、独自のオリジナル宗教へと変化していました。
ですから、その教えを守り通してきた人々にとっては、正当なカトリックも受け入れられず、
キリスト教が解禁となった後も、隠れて独自のキリスト教を守ったんですね。
つまり、「隠れキリシタン」とは、明治6年以降も上記のような理由で隠れて信教していた
キリシタンらも含めた呼び名だというのです。

今回、世界遺産に登録された関連遺産は、江戸時代から明治6年までの間、迫害を避け
ながら守り通したカトリック系キリスト教徒に関する遺産、ということで「潜伏キリシタン」の
名称が付けられているようです。

前置きが長くなってしまいましたが、長崎や天草だけではなく、東京都内にも探してみると
潜伏キリシタンの史跡はけっこうあります。
そこで、今回はワタクシが都内ガイドや街歩き講座などで訪れた、都内のキリシタン史跡を
ご紹介してみることにいたします。

都内のキリシタン史跡で一番有名なのは、三田の住友不動産ビル前にある「元和キリシタン
遺蹟の碑」だと思いますが、それと同様の碑が高輪にもあります。

③高輪教会
こちらカトリック高輪教会
品川駅から柘榴坂を上がりきったところにある教会ですが、写真の正面階段を上がった
ところにその碑はあります。
④江戸の殉教者顕彰碑
元和9年(1623)、徳川家光は宣教師を含む50人のキリシタンを三田の刑場で処刑
しました(江戸の大殉教)。
その殉教者の中には家康の家臣だった原主水もいました。彼は岡崎を追放されますが
それでも布教を続けたため、手足の指と足の腱を切られてしまいます。それでも江戸に
潜伏して布教していたため、ついに捕まり処刑されました。
この碑は昭和31年(1956)に三田の刑場跡に建てられましたが、後にここに移されました。
なお、原主水は2008年に福者に列せられたとのことです。

高輪教会から高輪通りをまっすぐ北へ歩くと浄土宗のお寺光福寺があります。
⑤光福寺山門
江戸時代、ここには相福寺というお寺があったのですが、明治の廃仏毀釈の中で寺の数を
減らす動きがあり、「同じ宗派ならかまわねぇだろ」という乱暴な理屈で芝の源光寺というお寺
と一緒にさせられてしまいました。いわゆる、ニコイチです。で、お寺の名前もニコイチ。
なんともかわいそう・・・。

このお寺の境内に置かれているのがコチラ。
⑥切支丹灯籠
切支丹灯籠です。
別名織部式灯籠とも云われている形式の灯籠です。
元は上に灯籠部分があって、そこに灯りをつけると十字が浮かび上がったといいます。
正面にお地蔵さまのような絵が刻まれていますが、これが切支丹灯籠の基本図形です。
八頭身の人物がガウンをまとった姿なのだそうです。八頭身というのは、宣教師が教えた
最高の美意識だそうで、ギリシャ文化あたりから来ている考えだとか。
東洋人はまったく眼中にないっスね!
写真はちょっと見え辛いですが、ガウンの下から足が出ていまして、これが外ワニ足といって
靴を履いているようにみえるんですね。
通常の灯籠は地面の上に置かれますが、切支丹灯籠は地面に直接埋め込んで立てられる
という特徴もあります。
キリスト像もマリアの絵も飾ることができなかったキリシタンにとって、切支丹灯籠は大切な
崇拝対象だったのでしょうね。
ちなみにこの灯籠は昭和37年(1962)に近所から出土したものだそうです。

ちなみにココ光福寺はゆうれい地蔵というのがあることで知られています。
⑦ゆうれい地蔵
品川沖からあがったという、このお地蔵さま。確かに不可解な形をしております。
別名子安栄地地蔵尊といい、子育ての信仰を集めています。
切支丹に関係はないモノですが、珍しいのでご紹介。

切支丹灯籠はこの近くにもう一つあります。
柘榴坂を下った、品川駅のすぐ近くの高山稲荷神社です。
①高山稲荷神社
こちらの境内にあるおしゃもじさまと呼ばれる石造物がそれです。
②おしゃもじさま
名前の由来はよくわからないのですが、この神社では縁結びの神様として祀られています。
海中から引き揚げられたものとも、処刑された宣教師を供養するために立てられたとも
云われているそうですが、おそらく切支丹灯籠だろうと思われます。
外ワニ足がよくわかります。

切支丹灯籠がきれいな形で保存されている場所が目黒にあります。
目黒駅から行人坂を下り、目黒川を渡って山手通りにでると大聖院という天台宗のお寺が
あります。
⑧大聖院
本堂はご覧のように近代的な建築ですが、お寺の創建は弘治3年(1557)と古く、隣りにある
大鳥神社の別当を務めていました。
この境内に、切支丹灯籠が3基あります。
⑨切支丹灯籠
非常にいい保存状態ですね。
左右の灯籠を見ると、下から柱が上に延び、途中で左右に膨らみがあって、また上にちょっと
延びているのが分かりますでしょうか。
この形は十字架をデフォルメしたものだと云われています。
まんま十字架を作ったら命がないので、このような形を考案し、日本によくある灯籠に似せて
作ったことが分かります。
ココには目黒区が立てた説明板もありますので、参考になりますよ。
DSCF7471a.jpg

日本が鎖国体制に入っても、日本にキリスト教を布教しようとして密入国をした宣教師は
いました。しかし、彼らは捕えられ江戸に送られ収監されてしまいます。
そういった密入国宣教師を閉じ込める専用の牢屋敷が、小石川小日向(文京区)にあり
ました。
それを切支丹屋敷といいます。
⑫切支丹屋敷跡
閑静な住宅街の中に、石碑だけが置かれています。
元々、この場所には大目付兼宗門改役だった下総高岡藩主・井上政重の下屋敷がありま
したが、正保6年(1646)にその敷地内に伴天連のための牢や見張り番屋が建てられました。
ここには寛永20年(1643)密入国し捕まったジュゼッペ・キアラやペトロ・マルクエズなど
10人が収監されたほか、宝永5年(1708)には屋久島に上陸したところを捕まったイタリア人
宣教師のシドッチも入れられました。
当時、6代将軍家宣のブレーンだった新井白石はシドッチを尋問し、そのことを「西洋紀聞」に
まとめます。このシドッチ以降、密入国宣教師は来なくなったため、寛政14年(1792)に
切支丹屋敷は廃止となりました。
⑬八兵衛の夜泣き石
平成26年(2014)、この場所で発掘調査を行ったところ、3体の人骨が出土しました。
DNA解析の結果、そのうちの1体はイタリア人男性であることが判明。シドッチのものである
ことがほぼ確定したそうです。
残る2体については、シドッチの身の周りの世話をしていた日本人、長介・はる夫婦と思われて
います。夫婦は元々潜伏キリシタンだったらしく、シドッチに頼んで密かに洗礼を受けたの
ですが、それがバレて処罰されてしまいました。シドッチは、外出できない外は比較的自由な
待遇だったらしいのですが、洗礼を与えたことから地下牢に押し込められ、そこで獄死したのだ
そうです。

ところで。上の写真の左側に小さな自然石が置かれていますが、これは八兵衛の夜泣き石
云われているもの。
切支丹屋敷の番卒に八兵衛という19歳の若者がいたそうですが、伴天連の世話をしている
うちに感化されてしまい、そのために逆さ埋め(!)にされてしまったのだそうです。その場所
には大きな伊豆石が置かれたのだそうですが、これが夜になるとすすり泣く声が聞こえたんだ
そうで、その八兵衛を供養するものだそうです。

そんな切支丹屋敷跡が近いせいでしょうか。
茗荷谷駅のちかくにある深光寺(じんこうじ)。浄土宗のお寺。
⑭深光寺
ここは「南総里見八犬伝」の作者・滝沢馬琴のお墓があることで知られていますが、境内には
切支丹灯籠もあります。
⑮切支丹灯籠
この灯籠についてはどうしてこの場所にあるのかなど、謂われは全くわからないのですが、
かなり完全な形で残されています。
それと、よーーーく見ると灯籠の、横に膨らんだ部分に何か四角く文字のようなものが
彫ってあるのがお分かりでしょうか。(大聖院の灯籠にも有り)
これはアルファベットのP、T、Iの3文字を図案化したものなのだそうです。
P、T、Iとはギリシャ語の「PATRI]の略で、「父」という意味。
切支丹灯籠にこのP、T、I図案が刻んであるのは慶長年間から江戸時代初期のものだけ
だそうで、そうするとこの深光寺の灯籠はかなり古いものだと言えそうです。
(松田重雄氏の考察による)

さて、最後は茗荷谷駅前の春日通りをまっすぐ東京ドーム方面へ。
すると見えてくるのが伝通院です。
⑩伝通院
家康の生母・於大の方の墓があることで有名なほか、幕末期には浪士組がここの塔頭だった
処静院から京都に旅立って行ったことでも有名なお寺です。清河八郎のお墓もありますね。
伝通院は歴史ファンにはとても親切なお寺で、墓域の入口に「著名人のお墓早見表」の説明板
が設置されています。これで、広い墓地の中を迷わず掃苔ができるというありがたいシステム。

この墓域にあるのがジョセフ岡本三右衛門神父供養碑です。
⑪ジョセフ岡本三右衛門碑
彼は本名をジュゼッペ・キアラというイエズス会の宣教師で、鎖国下の日本に密入国しましたが、
寛永20年(1643)に筑前で捕えられ、江戸に送られます。そして厳しい詮議と拷問を受け、
ついに棄教してしまうのです。その後は切支丹屋敷に移され、妻と岡本三右衛門という日本名
を与えられました。
実はこの岡本三右衛門は殉教したキリシタンの名前で、ジュゼッペが娶らされた妻は三右衛門
の妻だったのです。残酷な話や・・・。
しかし彼はその後、キリスト教や宣教師についての情報を幕府に提出するなど協力。83歳の
長寿を保ちました。
死後は荼毘され、当時伝通院の隣りにあった無量院に葬られました。そのときの墓石は一時
行方不明などにもなりましたが、現在は調布市のサレジオ神学院に置かれているそうです。

ということで、潜伏キリシタン史跡はやはり悲しいストーリーを背負ったものが多いですね。
ご紹介した史跡の中で、切支丹灯籠は、目黒の大聖寺以外は説明板もなく探すのに手間取る
ことがあるかもしれませんが、お近くに行かれたときにはご覧になってみてください。
まだまだ都内には、他の場所にもあるようです。

それと、ここが大事だと思うのですが、キリスト教禁令は江戸時代のものとついつい思いがち
ですが、明治に入ってからもしばらくの間はその政策が取られ続けたのです。
明治6年に解禁されるまでは、徳川時代よりも厳しいくらい明治政府は日本人がキリスト教に
触れることを禁じました。廃仏毀釈を見てもわかるように、初期の明治政府の宗教統制は非常
に極端だったんですね。
img001a.jpg
慶応4年3月に出された、切支丹宗門禁止を通達する太政官令の高札。
太政官とは、現在の内閣に相当するもの。
(「里正日誌の世界」より)

メガ104
ウチの母は、「ワタシは子供の頃、教会の日曜学校に通ってて、洗礼こそ受けてないけど
心はクリスチャンに近いのよ!」と言いながら、年が明けると「あらあら一月のうちに成田山
へ行って早くお札をもらってこなきゃ!」と毎年言っては出かけていきます。
正しい日本人の姿だなぁ、と思ってます。

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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#1607 隠れキリシタンと日本人の宗教
>ウチの母は、「ワタシは子供の頃、教会の日曜学校に通ってて、洗礼こそ受けてないけど心はクリスチャンに近いのよ!」と言いながら、年が明けると「あらあら一月のうちに成田山へ行って早くお札をもらってこなきゃ!」と毎年言っては出かけていきます。

〇隠れキリシタンと日本人の宗教
 たいへん参考になりますね。
 草々
#1609 レインボーさま
カミサマとのお付き合いは、これくらいでちょうどいいのかなと、個人的には思ってます。
ただ、お寺にしても神社や教会にしても、その場所に行くと清々しい気持ちにはなりますね。

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