幕末に起きた事件の中で「○○門外の変」ていうのが、二つあります。
どちらも江戸城の門が、その舞台なのですな。
一つが安政7年(1860)の「桜田門外の変」で、大老の井伊直弼が暗殺され
ちゃった事件。
で、もう一つが文久2年(1862)に起きた「坂下門外の変」ていう事件です。
こちらも襲われたのは幕府の老中で、安藤信正って人。
まぁ、メジャーなのは桜田門の方ですわな。映画にもなってるし。
坂下門の方はっていうと、「あ、なんか聞いたコトあるな。サトーちゃんが言って
たな・・・」ていう程度でしょ。
あ、ちなみにサトーちゃんてのは、ワタシの高校の歴史の先生ね。
どーしてこんなに印象度が違うかっていうと、やっぱり桜田門では井伊さんは
殺されちゃったけど、坂下門の安藤さんはケガで済んだのが第一の原因で
しょうな。
それから、桜田門は襲う方もけっこう綿密に計画立てて(思い通りにならなかった
部分も多いけど)実行したんですが、坂下門の方は「勢いでやっちゃったyo」
みたいな所があって、ドラマ性に欠ける気がするんですよね。
やっぱり歴史はドラマチック De Night!
この坂下門外の変が起きたのは1月15日ですが、その翌日には早くも事件を
知らせる廻状が東大和に出されています。
後ヶ谷村の杉本家に残されている資料です。
「昨日の15日朝、安藤対馬守がご登城の折、坂下門外で乱暴を働く者たちが
あった。これらの者どものうち6人はその場で斬り倒したが、3~4人は逃げ去
った。うち一人は背中に突き傷を受けたので、療養のために温泉などへ立ち寄る
ことも計りしれない。以上のような体に傷のある者はもちろん、少しでも怪しい所
のある者と見受けられれば、差し押さえて内藤新宿の役所まで申し出るように
すること。この廻状は廻ってきた日付をつけて早急に村々へ廻し、最後の村から
役所まで返させること。以上。
戌(文久2年)正月16日 内藤新宿御用先
関東取御取締出役
用瀬式一郎
望月善一郎
これは18日に蔵敷村より廻ってきたもの」江戸時代はこういったお上からの書状がリレー形式で村々の名主に廻ってくるんで
すね。で、最後まで行き渡ったら役所へ返す、というシステムだったみたいです。
だから自分の所に書状は残らないハズなんですが、気のきいた名主は次の村に
書状をもっていく前に、写しを取っとくんですな。
上に紹介した書状は後ヶ谷村の名主・杉本さんが書き残していた書状の写しってことに
なります。だから最後に「蔵敷村から18日に廻ってきたものだよ」っていうメモが入って
いるワケです。
こーゆー筆まめな人がいたから、150年後の我々が「へぇー、そーだったの。いやぁ、
初めて知ったッス。」という恩恵を受けられるんですね。
みなさんもこれからは日記をマメにつけてですね、「回覧板届く。不燃物のゴミ回収が
月曜から水曜に。」などと写しておくと、100年後のご子孫から「おぉ、そーだったの
かぁーッ」と感謝されること請け合いです。
それはともかくとして。
「初めて知ったッス」が、実は上の文章の中にも出てるんですよ。
今のどの本を見ても(私が見た限りではネ)、坂下門外の変で安藤信正さんを襲ったのは
6人で、全員がその場で斬り倒されたことになってるんです。実際にはもう一人いたん
ですが、この人遅刻しちゃって参加してません(→のちに切腹)。
でも、資料には他にも3~4人逃げたヤツがいて、しかもその中の1人は背中に突き傷
までついてるっていうじゃないですか。
コレ、どーゆーコト?
書状が間違ってるんでしょうか?
でも、コレが出されたのは事件の翌日というホットな状況でしょ。しかも、文面を読むと
「老中が襲われたよ~」という状況説明よりもむしろ、「犯人が逃げてるから気をつけろ
よ~」という手配書の様相が濃いと思いませんか。
だからこそ警察機関である関東取締出役から出されたんでしょうけどね。
ちょっと穿った見方もしてみましょうか。
安藤さんはこのとき、多数の警備がいたおかげで助かったんですが、ケガは負わされた
んですよ。で、そのケガをした箇所ってのが背中なんですねぇ。
武士にとって不名誉なのが「背中傷」。敵に背を向けた、逃げたってコトですから。
だから、「背中に傷を受けて逃げたのはご老中じゃないよ。犯人だよ。」ってカモフラージュ
のために、こんな情報を流したのかな・・・と。
考えすぎ?
まぁ、安藤さんは結局4月に老中を辞めさせられちゃうんですけどね。
この資料だけでは何とも言えないんでしょうけど。どこかにコレと同じような廻状があれば
面白いんですが。
もし、本当に記録に残っている6人の他に犯人がいて、傷を負いながらも逃げたとする
ならば、これは一気にドラマ性を帯びてきますわなぁ。
幕府によるカモフラージュとしても、それはそれで私は初耳。
やっぱり歴史はドラマチックでないと!
トキメキ Tonight!

新選組の十番隊組長を務めるなど、大幹部として活躍した原田左之助
さんは、元伊代松山で中間をしていました。奉公先の子供と遊んであげ
るなど優しい面がある一方、半裸で太鼓を打ちながら街中を闊歩する
などの奇行癖もあったようです。
後に新選組を脱退し彰義隊に参加、上野戦争で戦死したと伝わりますが、
生き残り大陸に渡って馬賊の頭目になったとの話もあります。
切腹未遂も事実のようであり、なかなかのドラマチックな人物です。
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今年最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
また来年もヨロシクね。
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廻状を最後の村から役所まで返させる...。なるほど、早く廻すためにプレッシャーをかけられる安上がりのシステムですね。幕末多摩・ひがしやまと、来年も期待しています。空堀川
ありがとうございます。
現代ならメールで一斉送信なんでしょうけどね。
しかし、回覧システムの方が、廻ってきた側にも責任が生まれ
て連絡の行き違いってのがなさそうです。
来年も徒然なるままに駄文を書きつらねていきます。
2013年はモア・ベターよ!
土方さんに恋しそう…だははっ
今年はあらためてイッセーさんの知識量に圧倒された年でしたよ〜
そしてやはりイッセーさん漫画、最高っす!
来年も楽しみにしておりまっす♪
よいお年をー!&来年もよろしくです( ^ω^ )
猫好き?とは知らんかった?
ありがとうございます。
kitacoさんの映画の知識もスゴイっすけどね。
2013年もヨロシクお願いします!

プロフィールにも書いてありますよ~ッ。
見てないな!
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