八王子千人同心史跡を廻る②

了法寺の前で甲州街道を渡ると、その先にお寺があります。興岳寺です。
千人頭の石坂家が開基した曹洞宗の寺院です。
石坂弥次右衛門(1809~1868)のお墓があります。

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石坂弥次右衛門義礼墓
弥次右衛門は千人頭の石坂家11代目。第二次長州征伐に従軍し、大坂や九州へ転戦する
など活躍します。慶応4年(1868)日光火の番を務めているときに戊辰戦争が勃発。日光へ
進軍した板垣退助率いる新政府軍の対応に迫られます。弥次右衛門は戦うことなく日光を
明け渡して千人隊50人を率いて八王子に帰りました。
ところが、戦わずして帰ってきたことを問責する声があり、弥次右衛門は帰郷したその日の
深夜に一人責任を取って自刃します。享年60歳。
墓石には「源義禮之墓」とあります。

ということで、戊辰戦争の中で千人隊の悲劇の象徴のような方なのですが、コレはちょっと
疑問に思うところがあります。
弥次右衛門は確かに千人頭の旗本ですが、彼の兵力はたかだか50人の同心。
板垣が東照宮に進軍してきたのは、大鳥圭介率いる旧幕府陸軍を追ってきてのことだし、
一戦交えるかどうかの判断は大鳥と板垣の判断で決められたハズ。弥次右衛門は大鳥と
話し合いをもったでしょうが、大鳥の決定に従ったまでのことではないでしょうか。
何も腹を切るほどの責任ではないと思うのですが・・・今となってはその真意はわかりません。
現在では日光を戦火から守った功績者として称えられ、墓石の前の香台は日光市から贈られ
ています

興岳寺を出て中央線の線路を渡り、昨年の夏、清宮(現日ハム)擁する早実を破って甲子園
に西東京代表として出場をした八王子学園高前を過ぎると、南大通りに出ます。通りを東に
進むと見えてくるのが信松院です。

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武田信玄の四女(六女とも)松姫(1561~1616)が開いた曹洞宗のお寺です。
松姫は織田信長の嫡男信忠と婚約しましたが、両家が対立したため縁組は破談。松姫は
18歳の若さで仏門に入ります。昔の日本人て、現代人の目から見ると人生選択の振り幅が
大きいですよねぇ。
武田家滅亡のあと、一族の女性らと武蔵国に逃げてきた松姫は信松尼と号しました。
江戸幕府開府後の松姫は、姉の見性尼とともに二代将軍秀忠の四男・幸松の養育をした
ことで知られます。この幸松が保科正之であり会津松平家の藩祖となるのですから、新選組
ファンとしても全くカンケイないお方ではないですね。

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松姫尼公墓
出家していますので、無縫塔(卵塔)です。
松姫は武田家の人だったので、千人同心にとっては精神的な拠り所だったようです。
お墓の周りの玉垣は延享5年(1748)に千人同心が寄進したものです。

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「窪田」「石坂」「原」といった千人頭を勤めた家の名前が並びます。

本堂の奥には松姫百回忌の正徳5年(1715)に作られた「木造松姫坐像」が安置されて
います。松姫の月命日にあたる毎月16日だけ公開しているとのことですが、今回特別
に拝観させていただきました。
300年前に作られたとは思えないほど美しい像です。ただ、やはり木製ということで、所々
ヒビが入っていて、ご住職は「今のうちにレプリカを作っておいた方がいいかもしれません」
と仰っていました。

信松院の前の道は「松姫通り」といいますが、その通りを北に向かい再び線路を越えると
産千代(うぶちよ)神社があります。

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鳥居の左横の石柱には史跡大久保石見守長安陣屋跡とあります。
大久保長安は元武田の旧臣で、主家滅亡後家康の家臣となります。全国の検地、石見銀山
奉行、佐渡金山奉行を歴任。八王子代官頭としてそれまで八王子城下にあった町を現在の
場所に移し、甲州道中の整備、石見土手、千人同心の組織など八王子宿づくりに貢献しま
した。
この陣屋の周辺には十八代官と呼ばれる配下の代官が陣屋を構えていたそうです。

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境内には長安陣屋井戸があります。

こんなカンジで、この日の10時から13時ころまで千人同心ゆかりの史跡を、八王子市郷土
資料館学芸員の方に案内していただきました。

で、このあと昼食をはさんで14時頃より、甲州街道八幡町交差点から国道16号を北上。
歩いて「八王子千人同心日光道中」を歩いて行く、というイベントに突入したのであります。
実は今回の集まりは百街道一歩氏という、街道歩きの専門家が企画したイベントだったので、
ココからが「本日のメイン」ということだったのです。

百街道一歩さんのHP 「百街道一歩の道中記」
※ワタクシの江戸検1級の同期生であります。

とにかく旧街道をひたすら歩くというのがポリシーですので、八王子からひよどり山を越えて
滝山城の麓を行き、拝島橋を渡って拝島駅まで行ったところで日が暮れて終了となりました。
途中、神社仏閣や道標、石仏石塔などの史跡があれば確認しながら行きますので、当然
時間もかかります。
ワタクシのカメラの電池がなくなってきたので、あまり写真が撮れなかったのですが・・・

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極楽寺にある塩野適斎の墓
塩野適斎(1775~1847)は千人同心組頭。八王子の重要な地誌書「桑都日記」の著者です。

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コチラはひよどり山を越えたところにあった石仏群。
左端の庚申供養塔は屋根付きの立派なもの。享保16年(1731)とかなり古いものですが、
保存状態がとても良かったです。真ん中2体はお地蔵さま。右端は「光明真言供養塔」です。

この日、18km、30000歩強。
ふだんあまり歩かないせいか、疲れました~~~。
後日、拝島から先の道中も誘われているのですが、どうしようか・・・考え中です。

メガ99
昼食は扇町谷宿(埼玉県入間市)でやっと食べられたそうです。
フヘ~~~、ですね。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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#1581 千人同心
戦国時代、甲州からの出入り口は九つあり、これを「甲斐の九筋(くすじ)」と呼びました。それぞれの出口には萩原、石坂、窪田、河野、中村、原、志村、山本の九家が奉行として置かれていたのですが、武田滅亡後、家康がこの九家を同心50人と共に召抱え、窪田を二家に増やし、十人の頭に50人ずつを武州・甲州間の守りとしました。
更に関ヶ原合戦後、北条武士500人を、この千人頭に付けて計1000人。これが八王子千人同心の始祖となります。

正直な所を言えば、江戸を通して幕末期まで彼らの扱いは「農民」なのですが、やはり思考は「武士」であったようで、彼らは甲陽武士としてのプライドを持ち続けたのでしょう。石坂弥次右衛門が腹を切ったのは、その意気に依るのだろうと思います。
一方、現地甲州人はそういう純粋性も無く、柔軟に甲州博徒や甲州商人に転身してゆくのですが、あくまで武士道を守りつづけた武州の千人同心の心意気には敬意を表します。
#1582 甚左衛門さま
御返事が遅れてすみませんでした。
千人同心は身分こそ低く押さえられたものの、官僚化していく幕臣の中にあって戦う集団であることを忘れず、幕末には将軍家茂の護衛にも選ばれました。「我こそ武士」というプライドは確かにあったでしょうね。
甲州道中沿いの地域は、江戸時代後半から犯罪も多くなり、プライド以前に自衛しなければならない環境も、彼らを武術に熱心にさせた理由としてあるのではないでしょうか。

もう一度、松本斗機蔵のお墓などゆっくり見て行きたいと思っています。

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