先日、江戸検1級同期の方に誘われ、八王子の千人同心史跡廻りに行ってきました。
八王子千人同心は、元々甲斐・武田家の長柄(槍)隊だった武士を、主家滅亡のあと、
徳川家康が家臣として迎え、甲州道中の守りとして八王子に配置したものです。
当初は千人頭、同心合わせて500人でしたが、関ヶ原の戦い直前にさらに500人を
増員し1000人の軍団になっています。このとき、武田遺臣だけでなく、北条遺臣や
牢人、有力富農層なども加わったと考えられています。
千人同心の大きな特徴は、千人頭(9~10人)は旗本の身分でしたが、組頭・同心は
戦闘時には武士となるが、普段は百姓として農業に従事するということです。
大坂の陣までは戦闘に参加した千人同心ですが、幕府が安定すると武士としての働き
は日光東照宮の火の番ということになりました。
江戸時代後半になると、千人同心の身分は株として売買され、八王子や周辺の富裕な
農民層が同心株を買い千人同心になりました。こうして、当初は八王子に集中していた
千人同心も東は東京都三鷹、西は神奈川県津久井、南は神奈川県相模原、北は埼玉県
飯能まで居住域が広がるようになりました。
実際、東大和市にも高木と芋窪に千人同心がいたと伝わっています。
千人同心は東大和にも無関係ではないということで、史跡廻りに行ってみましょう!

JR中央線西八王子駅前を北に向かいます。
写真が小さくてわかり辛いですが、銀行の入口前に「馬場横丁」と書かれた標柱があります。
この先に千人同心の屋敷が並んで建っていました。

この行先を示す標識がイカしてます。
ポールの先が火事現場で使う鳶口みたいになってる。これは、千人同心が日光火の番を
務めたからそのようなデザインにしたのではないでしょうか。
さらに看板にも注目。

上の方は陣笠を形取っていますし、下には「千」の字が入ってますね。
千人同心は鎗奉行支配下に置かれていましたが、幕末の文久3年(1863)講武所支配、
慶応元年(1865)には陸軍奉行支配となり、名称も「千人隊」と改めます。そのときに隊士が
使用した提灯と韮山笠にこの「千」の模様が入っているのです。
そのまま甲州街道を超えて北に進むと
宗格院というお寺です。

千人頭山本家の生まれである价州良天和尚が文禄2年(1593)に草創した、曹洞宗の寺院
です。ちなみに、八王子宿のお寺は曹洞宗が多いです。
こちらには、千人同心組頭だった
松本斗機蔵(1793~1841)のお墓があるのですが、墓域
の一番奥にあり、先日の雪がまだ残っていて行くのが困難とのことで、お参りは見送りました。
残念!後日、暖かくなったら再度訪れたいと思います。
松本斗機蔵は江戸の昌平黌で学び、探検家で有名な最上徳内と親交を温め海外の知識を
深めた人物です。「献芹微衷(けんきんびちゅう)」という海防の提言書を書き、水戸の徳川
斉昭に上覧を願ったといいます。渡辺崋山や江川太郎左衛門英龍とも親しく、「献芹微衷」を
書いた際には江川に意見を求めたそうです。
宗格院を出て陣馬街道を渡った先にあるのが
多賀神社。

社伝によれば天慶元年(938)に源経基が勧請して建てられた、八王子宿の西の鎮守です。
慶応2年(1866)に千人同心が第二次長州征伐に出兵した際、組頭の神宮寺金一郎、川村
豊左衛門、塩野幸七郎が大坂で、こちらの扁額を作らせたそうです。それほど千人同心の
信仰も厚かったのですね。
その扁額は郷土博物館に保存されているそうなので、機会をみて行ってみようと思います。
ところで、ここには境内社としてこんな神社も祀られていました。

機守神社です。
織物業が盛んだった八王子らしい神社です。
東大和は生糸の生産として、桑畑が多く作られたので蚕影神社が祀られました。どちらも同じ
繊維業の振興を祈念する神社ですが、こういうところで地域差をうかがい知ることができます。
陣馬街道を東に進むと甲州街道とぶつかります。つまり、江戸方面からやってくると、そこが
甲州道中と陣馬街道の追分です。
その追分から西側が千人同心の屋敷地でした。
八王子千人同心屋敷跡碑。
現在の陣馬街道は石碑の右側の広い道路ですが、元の旧道は石碑左側の細い道です。
寛政元年(1789)の宿場絵図を見ると、追分付近の陣馬街道の北側(写真右側)は千人頭
原家の屋敷になってます。ということは、この石碑を含めて新道は原家の屋敷地の上に作ら
れたということになります。
追分の甲州街道側にあるのが、コチラ。
追分の道標です。
文化10年(1813)に建てられたものですが、昭和20年(1945)の空襲で破壊されてしまった
とのこと。よく見ると3本の亀裂が入っていることがわかります。
写真には「左 甲州道中高尾道」と書いてある側が写っていますが、上から2段目の「甲州道」
と書いてある部分と、一番下の「道」と書いてある部分がオリジナルで、他の部分は空襲で欠損
したものを作り直して建てられました。
ところで、この道標の一番下の部分に面白いモノを発見。

漢字の「不」に似た記号が刻まれているのがわかりますか?
これは明治初年のイギリス式測量の
几(キ)号水準点です。つまり高低測量を行うために
設けた基準点。全国的に残っているのは少ないそうなのですが、ここでお目にかかれるとは。
都内では神楽坂にある善國寺(毘沙門天)の石虎にあるものが有名です。
甲州街道を少し西に進むと了法寺というお寺があります。
なんでもゲームだかアニメだかの舞台になった、いわゆる「聖地」らしいのですが、我々おっさん
は「何のことやらさっぱりわかりませんわ」状態ですのでスルーです。

何のキャラざんす?情報求む。
長くなりましたので、以下次回!

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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