御林の丸太でお台場作り①

今回「里正日誌」からご紹介する記事の内容は、このブログを開設したばかりの頃にも一度
触れたネタですが、幕末多摩史においては重要な出来事ですので、「安政編」でも書いて
おこうと思います。

    「中藤村御林山再び伐り出しの件」

内海の御台場御普請用の丸太を、中藤村の御林よりなおまた伐り出すことになった。特に
お急ぎのことにつき、人足等を雇うことも必要なので、右の節は同村役人より通達が有り
次第すぐに助勢し、御差支えが起きないように取り計らうべきこと。この書付けを早々に
順番に村に送り、請け印を押して、留まりの村から中藤村役人へ返すべきこと。以上。

   寅(嘉永7年)6月 
                              御普請役代 岩上粂右衛門
                              同       塚田金蔵
                              同       島崎勇三郎
                              御普請役  杉浦茂三郎

                              横田村
                              三ツ木村
                              砂川村
                              芋窪村
                              蔵敷村
                              奈良橋村
                              勝楽寺村
                            右村々 役人中


江戸湾に対外国船用の砲台が作られることになり、その材料として中藤村の幕府御用林の
木が使われることになりました。
その作業員として中藤村だけでなく、近隣の村人も伐採などに従事させられます。東大和
地域では芋窪、蔵敷、奈良橋の村がそれにあたったようですね。ちなみに文中の勝楽寺村
は現在の所沢市に入りますが、全域が山口貯水池(狭山湖)に沈んでしまっています。

文中注目したいのは「なおまた」(原文では、尚又)と書かれていることで、この伐採が2度め
であったことを指しています。実は前年の嘉永6年9月にも御林の伐採命令が出ていました。
「里正日誌」の嘉永年間版がまだ出版されていないので、ワタクシのようなシロートには詳細
はわかりませんが、当の中藤村の「指田日記」では次のような記述があります。

嘉永6年9月
12日 御林にて2000本切り抜き、福生村まで出すようにと仰せ渡されたので村から車引き
人足を出した。御林奉行より10日以内に運びきるよう命令があったので、隣村の三つ木、
芋久保、石川、勝楽寺、蔵敷、奈良橋、砂川、右の村々に助っ人人足を出してくれるように
当たる。

19日 今日まで、御林人足を6人勤めさせた。

20日 雨。御林山用木車引き。


これを見ると、やはり近くの村々からも人足が作業に出されていたことがわかります。

さて、江戸湾に台場をつくり、砲台を築くという作戦を立案したのは、多摩地域の代官である
江川太郎左衛門英龍です。
嘉永6年(1853)6月にペリーが来航し、砲艦外交をもって日本との交渉を迫ります。翌年に
再来日することを約束してペリーは去っていきますが、7月に早速、江川さんは幕府に「海岸
御見分ニ付見込之趣申上候書付」
という意見書を提出しています。
メチャ早い対応です。
そこに「御台場構想」が書かれていたワケなんですが、実はこの構想は江川さんの当初の
目標ではなかったようなんですね。

その意見書で真っ先に述べられているのは、軍艦の購入や製造、地球を1周できるくらいの
航海術の習得の必要性でした。江戸湾の防衛についても、三浦、鎌倉から安房、上総を結ぶ
ように砦を築くという構想をブチ上げています。つまり、東京湾そのものに敵艦を入れさせない
という考えです。
東京湾の入口浦賀水道に、三浦半島の旗山崎から千葉の富津まで10町(1800m)間隔で
砲台を作ることが基本構想でした。10町というのは、当時の大砲の射程距離に基づくものだ
そうですが、かなり短い間隔になりますね。
ただ、当時の技術力ではこの海域に台場を建造することは不可能であることが江川さんにも
わかっていたようで、現実的目標として旗山崎・富津間よりも下がった三枚洲の岩礁がその
設置に当てられたようです。

ところが、この計画では短期間で建設が終わらないことを理由に、幕府から断られます。
結果として「江戸城と江戸の市街地を守ることが最重要」という幕閣の方針によって、海岸
ギリギリの品川・深川間に台場を作ることになりました。
これは、先験的な海軍・海防構想を持っていた江川さんにとって、もっとも拙策だったこと
でしょう。無念極まれり・・・!
ということで、品川お台場は江川英龍発案ということで有名ですが、実際は妥協に妥協を
重ねた結果だったということです。

7月23日には勘定奉行松平近直、川路聖謨、勘定吟味役竹内保徳、江川英龍の4人に
台場普請取り調方が命じられ、8月3日には用材・石材、普請方棟梁・人足の準備に入る
ように上申書が出されます。そして、9月にはもう中藤村で木材が切り出されているという
具合。
幕府から許可が出るや、このスピード。

実は「指田日記」の嘉永6年7月9日に、こんな気になる記述があります。

9日 大筒台の御用木、青梅入りより出るにより、新江戸街道の普請人足村々に当たる

新江戸街道とは、現在の東大和市駅前から西に向かう道で、桜街道と呼ばれている道です。
台場建設が公に決定する前に、砲台に関する木材を青梅から江戸に運ぶ必要があり、街道
の整備に人足が出されていたようです。
台場の建設計画は、実際には(建設場所がどこになるかは別として)かなり以前から江川
支配地では練られていたのかもしれません。

メガ97


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#1577 江川太郎左衛門
江戸時代は、今のお役所と同じくらい「書類主義」だったようで、江川さんの様に先を見通せる人は、さぞかし窮屈だったろうと思います。正直なところ品川に大砲置いても効果無いだろうし。
江川太郎左衛門は、やはりこの時代、右に出る者の無い傑物ですね。そのおひざ元だった多摩地域が幕末期に果たした役割の大きさは相当大きかったと、あらためて思わされます。
#1578 甚左衛門さま
返信が遅れてスミマセン(汗;)
ワタクシは決して幕末の幕府が「弱腰で無能」だったとは思わないのですが、マニュアル通りの官僚が多いドン詰り状態だったことは確かでしょうね。江川さんのような有能な官僚を生かし切れなかったことが残念です。
大河ドラマで「隠れた逸材を発掘」するなら、いたのかどうかもわからない女城主とか、有名人の無名な妹あたりを取り上げるのではなく、江川さんをぜひ主人公にしてほしいです。

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