黒船来航以来の治安悪化で、江戸近郊の村々でも盗難・強盗の犯罪が増えてきた
ことを、書き出してみました。
これらの盗品は質屋や古物商などに売られる傾向があったようです。
現代でも万引きされたコミック本が、古本屋に買い取られるという問題が一時あり
ましたが、それと同じようなものですね。
幕末の農村には、そういった質屋や古物商があって、十分に人々の生活の一部と
して機能していたことになります。
そこで幕府は、盗品が売りさばかれる裏ルートを作らせないために、三渡世(質屋・
古鉄商・古着屋)の管理、つまり営業許可を徹底させることにします。
その村々組合の石高、地頭の姓名などが入り乱れてきているので、この度別紙の
案内文を差し遣わす。しっかりとそれを見て一つ一つ洩らさぬように細かく入念に
取り調べ、書上げて申すべきこと。
一、ご改革組合の傍示杭の文字が消えているようなので、見直して建替えること。
寄場役人・大小惣代・質屋ならびに道案内人の名前を書き出し、別紙案内文の通り
に別冊に書いて提出すべきこと。右の通り早々に取り調べ、出来次第3月晦日までに
間違いなく日光道中の千住宿へ向かい、御用と案内文のように書いてその上に朱丸
を付けて差し出すこと。封書の中には他の御用向きは入れぬように申し達す。
廻状は請け印を押して、早々に順達し、最後の村から返すようにせよ。以上。
卯2月 関東御取締出役
寄場役人
大小惣代 中傍示杭というのは、村などの境界線に建てられている杭です。「これより〇〇村」みたい
なことが書いてあったようですが、現在では残っているものはないようです。ただ、浮世絵
などに描かれているのを見ることはできて、それを見ると人の背丈以上の長さがあって、
なかなか大きいものだったようです。
その杭に書かれている文字が消えているので、新しい杭に変えろということですね。
改革組合は防犯・自衛のために作られたまとまりですから、管轄をハッキリさせるため
にも傍示杭の必要性があったのでしょう。
さて、そんな中。
後ヶ谷村(現・東大和市狭山)の百姓・熊右衛門という人が、新規に古鉄買取の商売を
しようと思い立ったようです。
「古鉄買渡世願書 所澤村組合 後ヶ谷村」
恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります
江川太郎左衛門御代官所武州多摩郡後ヶ谷村の百姓、熊右衛門が申し上げ奉ります。
私は石高4石2斗の作地を持ち、家族5人で暮らす農業渡世をしておりますが、このほど
新規に古鉄買いの渡世を始めたく、そのことを村方一同に相談しましたところ、いささかも
障りのあることはなく、かえって便利なことになろうと一同聞き入れました。農業の間に
新規に古鉄買いの渡世のお許しを仰せ付け下さい。しかる上は以前から仰せ渡されて
いる趣旨のことをきっと守り、正しい渡世をしていきますので、なにとぞ御慈悲をもって
右の願いの通りお聞きなされていただきますよう、願い上げ奉ります。以上。
安政2卯年 後ヶ谷村 願人 百姓 熊右衛門 印
組合 次兵衛 印
組頭 金左衛門 印
名主 彦四郎 印
前書の通り願い上げ奉りましたところ、右の者は常日ごろから実直であり、特に組合
村々においても少しも差障りのことはございません。願いの通りお聞き済まし下され
たく、私たちより奥書きをもって願い上げ奉ります。以上。
江川太郎左衛門御代官所
武州多摩郡蔵敷村
小惣代 名主 杢左衛門 印
同 御代官所
同州同郡野口村
同 名主 勘左衛門
同御預り所
同州入間郡上新井村
同 組頭 清左衛門
武蔵庫次郎知行所
同州同郡町谷村
大惣代 名主 民右衛門
江川太郎左衛門御代官所
同州同郡三ヶ嶋村
同 名主 次郎左衛門
同御預り所
同州同郡北永井村
同 名主 重左衛門
同御預り所
同州同郡所沢村
同 名主 助右衛門
関東御取締御出役 この書付けで分かるのは、古鉄買いの商売をしようと思ったら先ず①村役人の許可を得る
こと。②組合村々の大小惣代の承認が必要であること。その上で③関東取締出役に許認可
の権限があった、ということです。
同様の書付けは質屋の場合でも「里正日誌」に残されています。
盗品が流れる可能性の高い三渡世は、広域警察署である関東取締出役が営業許可を出し
ていたというのは、当時の世相として興味深い話です。

先日BS放送で「壬生義士伝」(中井貴一主演の映画版)が放送されていたので、またまた
見てしまいました。
「壬生義士伝」は原作も、ドラマも(テレ東系・渡辺謙主演)、そしてこの映画も、とてもよく
できていて大好きなのですが、映画版を見ててどうしても気になってしまうのが上のイラ
ストです。
鳥羽・伏見の戦いで、新政府軍の隊長たちが歌舞伎の鏡獅子のようなヅラを被っている
シーンです。アレは黒・白・赤と3種あって、それぞれ黒熊(こぐま)、白熊(はぐま)、赤熊
(しゃぐま)といいますね。
あの毛はヤクの毛だそうです。で、とても高価な舶来品であり、徳川家のお宝として江戸城
の蔵の中にしまってあったんですね。これを、慶応4年4月の江戸城明け渡しのときに新
政府軍が戦利品としてブン取って、「オシャレじゃん」ってことで被ったという次第。
つまり・・・映画「壬生義士伝」で薩長軍の隊長がアレを被ってるのは、おかしいのです。
時間的にまだ早すぎる。「どっから持ってきたんだい?」てことになってしまうワケです。
滝田洋二郎監督のことですから、そんなコトは知ってて当然だとは思うのですが・・・。
まあ、あのヅラを被っていたのはほんの一時、戊辰戦争のときだけですから、「戊辰戦争
の新政府軍だぜ!」っていうアイキャッチになって、都合がいいのかもしれませんが。
史実はともかくとして「映画のエンターテイメント」として登場させた、ということなのかも
しれません。
ちなみに黒熊は薩摩、白熊は長州、赤熊は土佐と決められていて、他の藩の将兵が被る
ことは赦されなかったそうです。
「薩長土め、ケチなヤツらよのぅ~」

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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>映画「壬生義士伝」で薩長軍の隊長がアレを被ってるのは、おかしいのです。
時間的にまだ早すぎる。「どっから持ってきたんだい?」てことになってしまうワケです。
〇新政府軍の隊長たちが歌舞伎の鏡獅子のようなヅラを!
早すぎる!
そうでしたか、勉強になりました。
知らない事ばかりですね。
草々
ヤクの毛は元々、戦国時代に徳川家臣らが兜の飾りに付けていて、それがカッコよかったのか、ゴージャスに見えたのか敵方の武将らに称賛されたのだそうです。
江戸城でヤクの毛を見つけた薩長らも、「だったら全部ヤクの毛で」ってことであんな被り物を使ったのかもしれません。
結局、なんだかんだ言って「徳川武者のリスペクト」になっちゃってるってコトですかねww
と信玄公が称賛したというほど、まさに戦国期の三河武士を象徴するアイテムだったはずなのに、
幕末期に敵方に使われることになろうとは皮肉なもんです。
だけど正直、下が洋服に上がコレってダサくないか?とも思うんで、結果的には取られて正解だったのかも。
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