税って、安くならないスか・・・?

安政7年(1860)3月3日、江戸で大事件が起こりました。
江戸城桜田門外で、幕府大老の井伊直弼が水戸藩浪士らに暗殺されて
しまったのです。いわゆる「桜田門外の変」です。
その前年の安政6年10月17日には江戸城で火事があり、本丸(将軍の
いる所)が焼けるという災難もありました。
これらのことから「ちょっと流れを変えた方がよくね?」っていう意見が幕府の
中で出たんでしょうね。
3月18日から元号が万延と改まりました。
・・・この辺りからでしょうか、世の中がだんだんと不穏な空気になってくるのは。

その頃、東大和市域に次のような廻状が支配所から廻ってきました。
日付は6月7日になっています。
「甚だ暑い季節ですが、ご安康に励まれているご様子、お喜び申し上げます。
ところで組合に所属している村々の中で、江戸10里四方以内の土地で荒地、
芝地、並びに空き地になっている場所の、耕作地とした場合の収穫高を早々に
取り調べて、その有無を書面にして差し出し申すようにご支配のお役所から
お達しがありました。
右のことをご承知の上、明日8日正9つ時(12時)に、所沢村助右衛門宅へ来て
いただきますよう、同人より申し出がありましたので、ご承知いただき早々に
他村へ回していただき、最後まで伝わったらご返却ください。以上。」


村にある土地の中で、空き地になっている場所もキチンと検地をして申告しなさい
ってことですね。
「おい、何だってンだ?こんな所調べてどーしようってンだい?」

ホラ、以前に関東取締出役ってご紹介しましたでしょ。八州廻りですよ。
実は50年くらい前の文政9年(1826)に、その八州さまの一人河野啓助って人が
関東地方の村々を廻って、自分がチェックしたことをレポートにまとめて勘定奉行に
提出したんですな。それによると、
「近頃の農民は副業の小商売や手仕事ばかりに精を出し、贅沢をして、その反面
手入れの行き届かない田畑が荒地になっています。衣服や生活品が豪華になり、
芝居や相撲の興行までしている村もあるようです。これでは治安も悪化しますし、
こんなコトでいーーんでしょうか!?ムキィーーーーッッ(怒)!!!」
と、こんな内容のことを書いてるんです。

確かに江戸時代の農民ってのは、自給自足が原則です。「お金を稼ぐ」ことは
禁止されていました。
しかし、江戸時代も後半になれば都市部では貨幣経済が行き渡り、銭の花が咲く
毎日。そんな流れが農村にだって入ってきますわナ。
それに、前回お話したように肥料は金肥を買わねばならないし、だいいち東大和
市域のような貧しい土地は税そのものが金納でショ。
カネを稼ぐなってのが、もう無理な時代だと思うんですが、この河野さんって人
ゴリゴリのカタブツだったんですかねぇ。八州廻りは治安維持が仕事でしたから、
風紀が乱れるのを恐れていたとは思いますけど。

まぁとにかく、それから50年経った万延でも、お上は農民を土地に縛り付けて
田畑を耕作させ、税を取ろうとしていたんですな。
国を開いて貿易を始めたものの、幕府の基本収入は耕作地から上がる年貢だと
考えていたことがわかりますネ。

ところで、村々が納める税は年貢だけじゃありませんでした。
「村入用」という村の維持にかかる経費を負担する税がありました。今でいうなら
住民税ですね。
この村入用も江戸時代前半まではたいした負担じゃなかったんですが、後期に入る
とジワジワと負担が増えてくるんですワ。

その原因の第一が、またまた登場の八州さま・・・関東取締出役なんです。
彼らはFBIみたいに支配地の別なく無宿人や悪党を取り締まるでしょ。で、タイーホ
した犯人を留置したり、江戸に送ったりするわけですが、その経費は逮捕地の村の
負担だったんですね。
だから村民は八州廻りに非協力的だったといいます。河野さんが村々にキビシイ
報告書を出したのも、こうしたことがあったからかもしれないですね。

それにプラスして村入用の負担を増加させたものに組合があります。

組合っていうのは、いくつかの村々が連携・連帯してつくったひとつの組織をいいます。
これも、浪人やら悪党やらの対策として結成されたわけで、八州廻りと関係が深いん
ですね。(それ以前にも小規模の組合の存在はあったようですが)。
東大和市域でいうと、文政12年(1829)に取締り強化のために現在の所沢市・
東大和市・東村山市全域と清瀬市の一部を含むかなり広い範囲がひとつの組合村と
して結成されました。
組合村の中心となる村のことを寄場っていいます。
歴史の授業だと、寛政の改革で無宿人たちを収容して職業訓練させた場所を石川島の
「人足寄場」と覚えましたけど、それとは違うのでご注意!
とにかくこれだけの大所帯の組合ともなると、かかる経費・・・つまり村入用もカナーリの
負担になってくるのは想像つくというモンです。

「廻状をもって申し上げます。寒さがますます募りますが、皆さまご健勝に励まれて
おりますことお喜びいたします。
ところで、寄場入用の金額が今年の分の他、臨時にもかかりましたので、石高1石に
つき丁銭で18文6厘づつかかりますことをご承知の上、今月の下旬までにお届けいた
だけるようお願いいたします。」


10月22日、東大和市内の後ヶ谷村の名主・杉本さんのところに上の書状が届きます。
後ヶ谷村はもちろん、所沢組合です。
ところが、期日通りに寄場入用を払えなかったようで、12月8日に次のような催促が
届きます。

「甚だ寒くなりましたが、ご支障なくご惣領様にはご健勝のことと存じます。
ところで先々月に申し上げました寄場入用の支払いがまだのようで、度々所沢より催促
があります。来る10日にはお支払いいただけますよう、火急のことでお気の毒とは
存じますが、今日明日のうちにお届けいただけますよう申し上げます。


いえね、ここだけの話、この万延元年は後ヶ谷村は不作だったみたいなんですよ。
というのも、江川代官所からこんな書状も届いてるんです。

「今年の夏秋の年貢だが、今もって未納である。もっての外不埒のことであり、早々に
持参して納めるべきこと。もし、当月中に納めないようであれば、連行するための人を
つかわすので、その旨を心得て早々に納めること。」


年貢に村入用に、さらに検地・・・。
税金なんとかしてちょーだいよォォ~、という村民の声が聞こえてくるようですな。
特に幕末のこの時期、政治や経済の急激な変化は村入用にダイレクトに反映された
ようです。負担増加ってカタチで。
そういえば前に、熊本藩の預所となり、さらにそこからハズされるとなったときに
大規模な反対運動があったことをご紹介しましたよね。(駕籠訴、敢行!
もしかすると、そこにはこれらの事が大きく関わっているのではないでしょうか?
預所になれば代官支配からはずれるので、少なくとも八州廻りは来なくなります。
村入用の負担は全然違ってくるハズです。
あぁ~、良かったよォ、預所時代・・・!

20121214.jpg

歳三さんが、日野の実家を出て試衛館に移ったのは、この万延元年に
歳三の兄・喜六さんが42歳の若さで亡くなったことが大きく影響して
いると思われます。歳三さんは幼くして両親を亡くし、喜六夫婦に育てられ
ました。兄弟にはもう一人、為次郎という長兄がいましたが盲人だった
ため、次兄の喜六が家を継いでいたのです。
しかし、喜六さんが亡くなると、家の中には未亡人の兄嫁と幼い息子。
若い歳三さんは家に居づらくなったのでしょう。



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コメント一覧

#103 No title
こんばんは☆
イッセーさん…
ご心配くださって本当にありがとうございます。。。

農民の税の負担…
ホントに大変だったのですね。。。
土方さんは
かどがお好きだったのですね…(笑  かどかど…(笑
#104 あんこりんさま
ありがとうございます。

税の話は辛いことばかりですが、農村の歴史では
避けて通れない話です。気分が重くなられたら
スミマセン・・・。

漫画はほとんど私の妄想ですので、信じちゃダメ
ですよッw
でも、細やかな性格の人だったのではないかなと、
思っています。
#105 今も昔も
税金には、悩まされてきたんですね。

「所沢市・東大和市・東村山市全域と清瀬市の一部」って、
本当に広いですね。
今は、大和と村山でひとまとまりって感じですが、
昔は違ったんですね。

マンガ、おもしろかったです(≡^∇^≡)
土方さん、たしかに妙なところで神経質な面がありそうですね。
#106 遠い音楽さま
ありがとうございます。

今よりも人口が少ないこともあるのでしょうが、相当な
広範囲が一つの組合になってますね。
そして、何か話し合いがあれば寄場に歩いて行くわけです
から、昔の人は体力あります(汗;)

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