安政6年(1859)幕府は神奈川、長崎、箱館を開港しました。
前回お話したように自由貿易が許可されたワケですから、外国人が
国内にドンドン入ってきます。
これまでも
ハリスの江戸行きで外国人と遭遇した場合、どうしたら
いいかを指示したお触れは出ていましたよね。まぁ、大騒ぎするな
程度の事でした。
ところがこれからは、いつどこで一般ピープルが外国人と遭遇するか
わからないですから、かなり細かい注意がお上から申し渡された
ようです。
「里正日誌」には村人たちがお上から出された心得を、キッチリ守り
ますと約束した請書が記載されています。
「一、神奈川がご開港になり、ロシア・フランス・イギリス・オランダ・
アメリカたちが今年6月より横浜において日本の商人たちと交易する
ことがお許しとなった。外国の役人と商人は同所へ居住するが、同所
より江戸方面へは六郷川までとし、その外は10里を境としその内側
を遊歩区域とすることを許可し、取締りを厳重にすることを申し付け
られ承知いたしました。」開港したからといって、東大和市域あたりはカンケーないんじゃない?
と思いがちですが、なんの、なんの、南野陽子。
横浜から10里(約40km)圏内だったら、東大和はスッポリ入っちゃう
距離なんですよね。
だから野良仕事の最中に、向うから歩いて来たブラッド・ピットに突然道を
聞かれた、なんてコトがあるかもしれないワケです。(まぁ、無いケド)
さて、この後十項目以上にわたって心得を守るべく認めた記載が続いて
います。これを全部現代語訳でココに書きだすのは長くなるし、読んでいる
方も退屈してしまうでしょうから、要点だけを抜いて書くとこうなります。
「一、外国人が遊歩したときに見聞したことは外国へも伝わるので、お互い
が気をつけあうこと。
一、外国人が途中で休んだり、宿泊などを申し出ることもあるだろうから、
宿場や村に2,3軒づつ休泊所を決めておき、地元役人の取り計らいで
案内すること。そしてそのことを神奈川奉行所へ届け出ること。宿泊代
は当人間で決めて受け取ること。
一、外国人が必要により地元民を雇いたいと申し出たときは、奉行所へ
届け認可を受けたうえで派遣すること。雇い料は当人間で決めること。
一、外国人は門がまえのある家へは立ち入れないことになっているので、
これを守らない者がいたときには留置し、奉行所へ届けること。
一、外国人が来店したときには、店先の座敷で取引し道路から見えない
座敷へは入れてはならない。指定の休息所のほか、酒食を商売としない
家では酒飯などを出してはいけない。
一、外国人の店先へ用事のない者は行ってはいけない。また、商用で
あっても道路から見通せる場所で取引きすること。酒食など取っては
いけない。
一、日本人が商用で外国船に行くときは、運上会所へ届け出を出すこと。
波止場以外は出入りしてはならない。
一、ご禁制の品を除けばどんな品であっても、外国人が望んだ場合は妥当
な金額で売り渡すこと。
一、外国人が不法に難題を言ってきた場合は、書面に書いて届け出ること。
一、外国金銀貨幣は同種同量をもって取引きすること。日本の真鍮銭・銅銭
は釣りとして渡すのは良いが、外国に持ち出さないよう守らせること。
一、外国人からの贈り物は受け取ってはならない。
一、キリシタン禁止は以前からの通り。
一、5ヵ国の者たちは自国の宗教を信仰し、礼拝堂を作ることは許可された。
互いに宗教上の争論をしたり、建物を破壊してはならない。
一、アヘンは禁止のこと。外国人が持ち歩いたり、それを買い取る者があれ
ば奉行所に訴え出ること。
一、抜荷や密貿易は厳しく処罰する。
一、西洋金銀の引替え方は、ドル銀1枚を一分銀3枚の割合で通用させる。
つり銭は一分銀・一朱銀で勘定し、新規で鋳造した金銀や他の金銀を
外国人に渡すことは一切しないこと。いやぁ~、長くなっちゃいました。
しかしこれだけの細かいルールが、たとえ10里圏内とはいえ港からずーーっと
離れた多摩地区にまで届いていたんですね。
商売はかなり自由に行えたようですが、なんだ、なんだ、南田洋子。
外国人と交流する・・・という雰囲気までにはならないようで。やはりアヘン戦争
などの影響でしょうか、過度に外国人と接触することには幕府も慎重な様子が
覗えます。
ところで、開港した神奈川ですが、すぐに横浜に開港地が移されました。
これは神奈川港の沿岸一帯は水深が浅く、港として不適当であることが判った
かららしいんです。
そこで幕府は新港として横浜を勧めたワケですが、その理由は
岩瀬忠震さんの
所で触れたとおりです。
では、この変更について外国人側はどう思っていたのでしょう?
この頃日本にやってきたイギリス人のロバート・フォーチュンという人は、その
旅行記の中で各国領事の考えを、こう記しています。
「東海道は諸国から集まる日本人の人達がしじゅう通る公道だから、われわれの
国産品が彼らの手で各地に運ばれ、速やかに知られ、評価される手段として望ま
しい。ところが日本政府の意図は、外国人を、深くて広い溝で取り囲まれた横浜
に収容するつもりらしい。しかし、実際は形を変えた出島で、われわれ外国人は、
かつての長崎におけるオランダ人のように、横浜で囚人扱いをされるだろう・・・。」各国の領事や商人たちは、東海道の宿駅がある神奈川を居留地に望んだよう
ですが、幕府は自分たちが管理しやすい横浜に移したんですね。
このロバート・フォーチュンという人はイギリスの園芸家です。東洋の植物を採取
するために、中国経由で万延元年(1860)に来日し、その旅行記を「江戸と北京」
という本にまとめました。
フォーチュンは植物をコレクションするために、浅草や王子の辺りまで出かけて
います。
当時の江戸周辺には、領事や商人以外にも、このような一般の外国人がけっこう
歩きまわっていたということですね。

実際には外国人は一人でウロウロできたわけではなく、居留地以外の
場所に出かけるときには、幕府の役人が付いていなければならなかった
のです。ヒュースケン事件のような外国人暗殺事件もありましたから・・・。
しかし、ロバート・フォーチュンは、その滞在中は「万事平穏な当世であった」
と書いてます。
攘夷を主張する浪士はともかく、一般庶民は外国人に対してフレンドリー
だったようですよ。
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こんにちは。。
外国人もそれなりに江戸に入ってきたりしていたのですね。。
でもわりと細かい線引きもちゃんとあったのですね…。
南野陽子と南田洋子…
とても面白かったですyo♪
最後の漫画はちょっと…かなり
男性目線ですね…(笑
ありましたねぇ、当時作られた英語の地図が。何処まで外国人が行っていいのか、具体的に線引してあったのを覚えています。西の方は確か一之宮(寒川神社)辺りまでOKだった筈。
北の方はどの辺まで入ってたかな。ネット上に転がってなかったかな…。
外国人は幕府役人のボディーガード付きで、わりと歩いて
いたようですね。
フォーチュンの本を読むと、基本的に日本はスバラシイと
言ってるんですが、夜になるとみんな酒を飲むのがダメだ、
などのダメ出しをしているのも面白いです。
その地図は私は見たことがないです。
よろしければお教えください。
フォーチュンは王子まで行ってますが、「夜になる」と
いうのでそこから引き返しています。
私はその辺りが北限かなぁ、と思っていたのですが。
地図のタイトルは「横浜周辺外国人遊歩区域図」と言います。
英語のタイトルは「Descriptive Map Shewing the Treaty Limits round Yokohama」です。1865~67年の日付が入っています。維新直前ですね。
私の手元では、横浜開港資料館の「F.ベアト写真集 1」(明石書店)の29~30ページに収められていました。当時の写真家ベアトが何処まで行けたかという参考資料として収められています。実物はもっと大きいんだろうと思いますが…。
良く見てみたら寒川一之宮までというのは記憶違いでした。すみません。酒匂川の手前で赤線が引いてありますね。大山詣でのための道筋なんかも引いてあります。甲州街道沿いでは日野と八王子宿の辺りは入っているみたいですが、府中以東は範囲外みたいです。
因みに「Shewing」は原文ママです。「Showing」じゃないのかなぁ、と思うんですが、改めて確認しても確かにそう印字されてますね。
ありがとうございます。
早速調べてみようと思います。
そういえば、ベアトも色々な場所に行って写真を撮って
いますね。地図を手にしていたのでしょうか。
一律に10里範囲というのではなく、ある程度制限が
設けられていたのでしょうね。
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