小銃500挺じゃ、足りません!

多摩の江川代官領で始まった農兵訓練は、その経過を大雑把に記すと以下のような
流れになります。

文久3年(1863)10月  江川代官支配地で農兵取り立てが決まる。

           11月  献金書上げ帳が提出される。

元治元年(1864)9月   芝新銭座調練場にて、村々の代表者が稽古に参加。

           10月  新銭座訓練生への激励とご褒美の菓子が代官所より渡される。

           11月  新銭座訓練生、帰村。幹部教育の終了。

           12月  尾張藩から、鷹場内での訓練はいかがなものかとのクレーム。
                 代官所、これをサラリとかわす(翌年閏5月までに解決)。

元治2年(1865)正月  上新井村など11ヶ村が江川代官支配地から外れる。
                 新たに献金書上げ帳を提出。

           3月  小銃引き渡し。各村で下稽古を始める。

慶応元年(同上)6月   蔵敷村組合と田無村組合が合同で稽古(田無村に於いて)。
                実弾射撃訓練。

           7月  蔵敷村百姓銀右衛門の持畑を射撃訓練場とする。

と、まぁこんなカンジです。
詳細は当ブログの2013年6月頃の記事を参考にしてください。

田無村組合と蔵敷村組合が合同で訓練をしたのは、両組合の惣代が蔵敷村名主の
杢左衛門さんだったからです。上新井村が支配地替えになったことで、農兵政策の
彼への依存度がとても高くなったことが窺えます。
多摩地域の農兵というと、日野宿名主の佐藤彦五郎(土方歳三の義兄)が積極的に
協力したことが特に有名ですが、内野杢左衛門も同じように前向きに関わったので
すね。

訓練が活発に行われたことは、次の記録を見てもわかります。

「恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります。

当組合の農兵人は御教示を受け、砲術の稽古をしております。実弾射撃に入りました
ので、先般に願い上げ奉りました合薬・カンをお下げくださり有難く存じ奉ります。
然るところ、最近では右のお下げなされました品々は使い果たしてしまいました。
なおもっと合薬・カン等を下されますよう、この段願い上げ奉ります。以上。

     慶応元丑年7月朔日
         江川太郎左衛門様 御手代 増山健次郎様

                       武州多摩郡蔵敷村組合
                           後ヶ谷村名主  平重郎代兼
                           蔵敷村名主  杢左衛門       」


射撃訓練が始まってすぐ、蔵敷村組合では最初に支給された実弾や火薬を使いきって
しまったので、追加して欲しいと代官所に申し出ています。
よっぽどガンガン撃ったのでしょうか。

代官所もスグに対応。

「御請書を差し上げ申しますこと

一 カン     弐千    但 弐袋

一 合薬    三貫目   但 六袋

右は当組合の農兵が射撃訓練に用いる品々を追加願い仕りましたことにつき、書面
の通りお下げくだされ、有難くたしかに受け取り奉りました。これによって御請書を
差し上げ申すところ件のごとし。

    慶応元丑年7月2日
         江川太郎左衛門様 御手代 増山健次郎様

                       武州多摩郡蔵敷村
                              名主 杢左衛門         」


なんと、翌日にはもう2000発の実弾と、三貫目(11kg余り)の火薬を受け取ったようです。
江戸からこんなに早く運ぶのは無理ですから、近くに保管場所があったのでしょうね。
元治元年に焔硝蔵を和泉新田(杉並区)に作りましたから、そこから持ってきたのかも
しれません。
現代の御役所よりも、仕事が早いかも!

ともかく、支配地の農民たちが積極的に農兵に取り組んだことは確かなようです。
代官所では、9月に入ると次のような書状を勘定奉行に提出しています。

「農兵御貸し渡し小筒、その他にお渡しの義申し上げ候書付け

一 小筒600挺     但し ケウヱール
      胴乱管入共

右は私の支配所に限り農兵銃隊を取り立てについて、去々亥(文久3年)10月中に仰せ
渡され、小筒500挺を御貸し渡しになりました。もっとも、その人数が増え次第でなお申し
上げるべしとのことでしたので申し上げます。
右500挺は近々受取り稽古に使いますが、当節では武相州村々の農兵が550人余り、
豆駿州村々の農兵が550人余り、〆て1100人余りになりました。
小筒が不足になりましたので申します。書面の御筒、その他の物を早々に御貸し渡し
されますように存じ奉ります。この段申し上げます。以上。

    慶応元丑 9月           江川太郎左衛門 印
         
            御勘定所                                   」


農兵が当初の人数から600人も増えたので、さらにその分の小銃を貸してくれと幕府に
願い出ています。
農兵政策はアッという間に、支配所の村々に浸透していったようです。

メガ75


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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コメント一覧

#1484
天保~嘉永くらいまで、猟銃一丁紛失しただけでえらい騒ぎをしていた頃に比べると随分な違いですね。文久以降は本当に急ピッチで農村部が変わってゆく(変えられてゆく?)のが良くわかります。
#1486 No title
仰るとおり、時代の流れの速さを感じますね。
幕府は天領の警察能力の脆弱さを補うために、文政年間から寄場組合を作らせて農村に治安維持を代行させます。農兵以前にすでに農村の武装化を容認せざるを得なかったワケで、となればより効率の高い武器の装備は当然の流れだったのかもしれませんね。

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