献金の残りについてもハッキリさせて、江川代官所はいよいよ村々への農兵訓練を
開始するところまでに準備が整ってきました。
手代・増山健次郎が蔵敷村にやってきた元治2年2月、代官所は上役である勘定所
に対して次のような伺い書を提出してます。
「農兵銃隊教授方、その他お手当の儀伺い書
農兵取立について、去る酉年(文久元年)中に亡くなった父が申し上げておいたことが
ございます。
去る亥(文久3年)10月中、私の支配地に限って銃隊を取り立てるように仰せ渡され
ました。且つ、伊豆駿河の小領地の者どもへ銃隊を教授してもよいかを伺ったところ、
これもまた伺った通り取り計らうべしとの旨を、去る子(元治元年)10月中に仰せ渡され
ました。
代官所の鉄砲教示方のうち世話方として、または手附・手代のうちから取締りとして
差添え、3ヶ月ごとに代わる代わる派遣して教授させたいと思います。
ついては右の御用中の月割手当てとして
最寄りの上米相場石代、本馬駄賃とも御普請役と同等の金額にしていただけますよう
仕ります。また、日数が10日または20日ごとに教授を差し遣わすときは、日当の
手当て並びに御扶持方、本馬駄賃を渡すよう仕りたく存じます。
右の入用金は、支配所村々の農兵取立献金のうちより渡しますが、後で御貸付利金
の取り立てをするときには、1ヶ年ごとに清算して申し上げますよう存じます。
右の教授方の月割、日当のお手当ての員数、御扶持方について、関東、関外ともに
仰せ渡していただけますよう、このことをお伺い奉ります。以上。
元治2年丑2月
江川太郎左衛門 印
御勘定所 」「酉年に亡くなった父」とは江川英敏のことでしょう。
現代官の英武は英敏の弟ですが、家督を継ぐにあたって兄の養子に入っていますから
このような書き方になっています。
それはさておき、いよいよ各村々へ銃砲取扱いの教授方を派遣することが決まり、その
出張手当はどれくらいが適当であり、その金額を勘定所に了解してもらうために出された
のが、この書状です。
文面を読めばわかるように、各村々から集めた献金は、このような教授方のお手当てに
使われたようですね。
具体的な金額はわかりませんが、普請役と同等にしたいとのことなので、それほど大きい
金額でないことは確かです。まぁ、献金で払うわけですからね。
しかし、このような代官所と勘定所という幕府機関のやりとりの写しが、名主の家にある
ということが驚きです。
現代のように、情報を公開せよなどとお役所にいう権利は一般民衆には無かったはず。
それが村にあるということは、代官所がこの写しを杢左衛門さんに見せたからに違いあり
ません。もちろん、記録にとることを前提の上で。
これもまた、江川代官所と支配地域の組合村が、農兵政策において協力なタッグを組んで
いた証となるのではないでしょうか。
ということで、農兵に掛かる銃や付属品については幕府からのレンタル。
出張費用は村からの献金で賄うということがわかりました。
ところが、です。
前々回、手代の増山健次郎が蔵敷村に組合の代表者を集めて献金の残りを支払うように
催促に来た記事をご紹介しました。
そのときの増山の出張について、このような記録が残っています。
「 覚
2月朔日(1日)一昼 上下弐人
一 銭25文 木銭
一 銭110文 米代
この米5合 但し、1升につき銭221文
合銭135文
右は農兵御入用金の上納について、蔵敷村へ罷り来た分の代金である。
木銭、米代は追って御用のときに御役所にて、この手形と引き換えて受け取ること。
以上。
丑2月朔日 増山健次郎
蔵敷村 役人たちへ 」蔵敷村に来たときに、杢左衛門さんの家で休憩にかかった費用だと思われます。
米代と木銭となっていますが、もろもろの滞在費用でしょうね。
これも農兵関連にかかったお金ともいえますが、ここでの費用については代官所が
負担すると言っています。献金で賄う教授出張費とは別会計なんですね。
135文。たぶん、今の金額に換算すると2000円くらいでしょうか。
微々たる金額かもしれませんが、キッチリと線を引いて会計を処理するところなど、
江川英龍さんからの代官所を引き継いでいる感じがいたします。
ただねぇ・・・135文くらいのお金、増山さんがその場で支払えばよかったんじゃないスか?
この手形持って、わざわざ芝までこれだけのために出かけていくのは、ちょっと辛いよね。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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