元治元年(1864)12月、農兵取立て地域が御鷹場と重なる尾張藩から干渉を
受けるものの、それをサラリとかわして江川代官所の農兵政策は進んでいきます。
しかし文久から元治にかけてのこの頃、農兵政策は必ずしも順調とはいえない部分
もありました。
上新井村など入間郡10ヶ村が支配替となって、江川代官所から離脱してしまったの
です。
農兵は江川支配地域から取り立てるのが原則でしたから、当然この10ヶ村は農兵
政策から除外されてしまいます。
蔵敷村をはじめとする東大和市域の村々(芋窪村を除く)は上新井村組合を作って
いましたが、肝心の上新井村が抜けてしまったため、新たに他の残った村々と共に
蔵敷村組合を結成することになります。
文久3年(1863)11月に上新井村組合全体で、農兵取立てへの献金は520両
ありましたが、元治元年(1864)の蔵敷村組合の献金額は354両と大きく減額に
なってしまいました。これは仕方ありませんね。
「里正日誌」の解説によれば、上新井村など10ヶ村は「当分預所」となっていた場所
とあります。
つまり、一時的に管理を任されていた場所だったということでしょう。
江川代官所の支配地域の石高は、英龍時代の天保9年(1838)には84117石
ありました。ある本やネットなどでは江川代官所の石高は時代によって5~10万石
と書かれていますが、この天保9年での石高数が確実にわかっている最大値です。
しかし、代官が英武となっていた文久3年(1863)には78473石となり、約5600石
が減らされています。
上新井村などの入間郡10ヶ村も、この流れの中で預所を離れたのでしょうね。
元治元年9月に、各組合村の代表者たちが芝新銭座の調練所で幹部候補生として
の訓練を受けましたが、翌元治2年(1865)からいよいよ各村々で農兵の訓練が
始まることとなります。
「書付け大急
江川太郎左衛門手代 増山健次郎
蔵敷村
覚
南秋津村 後ヶ谷村 野口村 日比田村 宅部村 奈良橋村 廻り田村 高木村
蔵敷村 野塩村 粂川村
右は農兵御用金を上納することについて話し合うことがあるので、上納金を願う
者たちは印形を持参して、明日1日8時までに私が蔵敷村へ出向き休んでいる
ところへ届けるよう通達をするべきこと。
この書付けを、追って返すべきこと。以上。
丑(元治2年)正月晦日 江川太郎左衛門手代 増山健次郎 」元治2年は慶応元年に当たりますが、改元されたのは4月からなのでココでは元治の
ままとしておきます。
上記の11ヶ村が蔵敷村組合を構成した村々です。
正月の晦日に書状が廻って来て、翌日の8時までに杢左衛門さんの家に来いって
言うんですから、正に大至急ですね。
「里正日誌」にはこの書状の写しに続けて、翌1日に増山さんから村々に何が伝えられ
たのかが記されています。
「元治2丑年正月晦日に右の通りの御書付けが1通、その他に御先触れが1通、田無
村より小川村を継立てにやってきた。組合の村々へ早々に達し送り、御先触れは
箱根ヶ崎村へ継ぎ送った。
同年2月1日、当村で増山さまが御昼食をされているうちに、村々の村役人が罷り出た
ところ、農兵を早急に取り立てることになったと申され、献金については代官所貸付金
にまわすので、今月15日までに残金を取り集めて必ず納めるようにと仰せ渡された。」先に述べた354両の献金は分割して納められたようですが、農兵取立てがいよいよ
実行に移されるに至って、全額を納入せよとの命令だったようです。
このような急な言いつけに、村からは
「マジすか~?いきなりそんなコト言われてもキツイすよ、マジ勘弁して、みたいな」
という声が聞こえてもいいようなモノですが・・・
「恐れながら書付けをもって申し上げ奉ります
一 金1両
右はこの度の農兵お取立てにつき、冥加のため書面の金子を献納いたしたく存じ奉り
ます。何とぞ御慈悲をもって、右の御用のためにお差し加えられますように願い上げ
奉ります。以上。
元治2丑年2月朔日(1日) 武州多摩郡宅部村 名主 半兵衛
江川太郎左衛門様御手代 増山健次郎様
右の書状は名主杢左衛門宅で御昼食のとき、差し出しお聞き済みになったものである。」 宅部村の名主・半兵衛さんは、その場で持っていた1両を差し出したとのことです。
記録されているのは半兵衛さんだけですが、他にもすでに残金を持参してその場で納め
た人がいたのかもしれません。
このように狭山丘陵の農兵政策は、文久3年の取立て決定の御沙汰、元治元年の村
代表者による新銭座での訓練、入間郡10ヶ村の離脱を経て、慶応元年にいよいよ
実行に移されて行くのでした。


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