代官所は農兵に気を遣う・・・?

仙台で久しぶりに、学生時代の演劇仲間に会ってリフレッシュ!
しかし、その夜のプチ同窓会があまりに楽しかったからでしょうか。
東京に戻ってから、反動でしばらくダウナーになっておりました。
それでも、6月19日には「総司忌」に行ったり、2回ほど地元の公民館講座で
講義やガイドをする仕事を入れていたので、敢えて気持ちをアゲアゲに。
なんとか生体レベルを正常値まで戻しつつあります。

久しぶりに「里正日誌」に戻りましょう。農兵の話です。

農兵の組織については「隊伍仕法」というマニュアルが決められました。
さらに、組合の中でリーダーとなるべき人を選び、芝新銭座にある江川家調練場
で幹部教育訓練も行われます。
これは元治元年(1864)9月から11月にかけて48日間のことでした。
それについての詳細は、当ブログの2013年5月17日の記事に書いてあります
ので、ご参照ください。

「Let's農兵 隊伍仕法と新銭座調練場」(クリック!)

さて、村の若き幹部候補生たちが訓練を重ねているその真っ只中、代官所の
手代・三浦剛蔵から手紙が届きます。

「 元治元子年10月、三浦剛蔵様より御手紙の写し

去年の冬、柏木氏(柏木総蔵)並びに私が廻村の上、先々代(江川英龍)の御遺志
である農兵お取立てが達せられたところ、何れも速やかにご承諾いたされ、今回は
砲術の稽古のためにご出府となったことは、公私とも大慶と存じています。
しかしながら、起居飲食はさておき、万端においてはさぞご不自由であると推察
申します。
右のことは、上には国家へのご奉公、下々の村々が永代無事でいられることの
根本と心得て、この上ともご修行ご出精をくれぐれも頼み入ります。

さて、そのご出府されてお留守のすなわち中、御父兄その他ご家族方のご心配も
ひとかたならぬことでしょう。
わずかとなった日数を滞りなく稽古でき、ご帰村になれば御家門のお喜びはこれまた
一段のことで、孝道の一端にも叶うことと申せましょう。
兼てお達しがあった通り、農兵お取立てとなりました上は、村々の何れも外国から
攻め込まれる心配もなく、家業に精を出し、子々孫々国へのお勤めを差支えなく
できますことは、すなわち国家への御忠節と存じます。、

何とぞ、みなさまには以後業前のごとく、いか程にご上達したとしても御身分を考え
謹慎遜譲を忘れずご家業に精を出してもらえれば、すなわち礼節と申すものです。
且つ、私どもよりお達し申しおきました御趣意を堅く守られることは、それこそ信用
を得ることになると存じます。
古来から今までを見ましても、相分かることです。
銘々身分の程を忘れることより、自然と家門は衰退を招く道理なので、王公より
下は庶民に至るまで、身に応じたそれぞれの忠孝礼儀信の道があるのです。
今さらいちいち申し上げなくても、各方々にはご承知と存じますが、智者も千慮に
一失ありと申すこともあります。

ことに農兵は村々の憂患を未然に防ごうと、遣わされるべき御趣意であり、身分を
忘れるような愚かなことは、各方万が一にもないように、また未然にお心がけして、
永く忠孝礼儀信の君子と呼ばれ、後々までも村々の言い伝えと残されるようにと
祈りまして、愚言を申し入れることです。
心の思いをお聞き取りください。 以上。

   子 10月                                    剛蔵

 三右衛門様 源五右衛門様 岩次郎様 弘次郎様
 道太郎様 弥三郎様 恒吉様 一平様                        」


※「智者も千慮に一失あり」・・・賢い人でも多くの考えの中には一つくらいは間違い
があるということ

宛名となっている三右衛門以下の8名は、いずれも芝新銭座調練場に派遣された
農兵幹部候補生たちです。

下田三右衛門(田無村 名主見習い)
村野源五右衛門(砂川村 名主)
田村岩次郎(福生村 名主倅)
小川弘次郎(小川新田 名主倅)
志村道太郎(檜原村 組頭倅)
福田弥三郎(二俣尾村 組頭)
内野恒吉(蔵敷村 名主弟)
山本一平(檜原村 組頭倅)

時期的に見て、彼らが調練を受けている真っ最中にこの手紙を受け取ったことに
なります。
芝の調練は、江川の本拠地「韮山塾」と同レベルだったと云いますから、多摩の
農民にはかなりキツかったことでしょう。三浦は彼らに激励の思いを込めてこの
手紙を送ったものと思われます。
全体に丁寧な言葉使いで書かれ、とても気を遣っているように感じます。
後半では「訓練が上達したといっても農民の身分をわきまえるように」と、釘を刺
しておくことを忘れてはいませんが、江川家の悲願であった農兵策に協力して
くれた農民への代官所からの感謝状のように、ワタクシには見えます。

さらに、同じ10月。代官所手代の筆頭だった柏木総蔵からも手紙が届きました。

「 同子10月 柏木捴蔵様より御菓子を添えて韮山表より手紙の写し

 上封  下田三右衛門様御始江      にら山より 柏木捴蔵
          麁菓添

   用紙駿河半切 爪書に有志の御方々へ    」


なんと、手紙には「御菓子」が添えられていたようです。
封書は爪書(そうしょ)という装飾文字で書かれ、丁寧な様子がわかります。

「皆様には御堅固され欣喜を過ぎぬことでございます。さて、御憤発してこの程
御出府し新銭座に詰めて御修行されているとのこと、三浦剛蔵より申し聞いて
おります。そのことを承り、感謝し、且つ大慶の至りです。
何分にも御勉励し、追って教授方が廻村するときには手伝えるように、御熟達
できますことを祈ります。
これはすなわち、兼がね申し述べてきた通りそれぞれの場所での憂患を未然に
防ぐ元を立て、これを整え無事に産業を営めば、何に寄せても公儀のためにも
なり、国も村もうまくいくのです。
ここに添えた品ですが、御笑までに進呈いたします。
何分遠くにおりまして任務を果たせません。、心から当方も追ってなるべく手回
しをして、一日も早く江戸に帰り、お手並みのほどを一覧いたしたく楽しみに
しております。 匆々以上。

  神無月3日 韮山御府                  柏木捴蔵

 下田三右衛門様 源五右衛門様 岩次郎様 弥次郎様
 道太郎様 一平様 弥三郎様 恒吉様
  御名前次第不同ご容赦

追って時下御愛護され、御銘々の御親父方へ厚くよろしくお伝えください。」


元治元年の時点では、代官の英武は10歳を過ぎたばかりの子供ですから、
柏木は代官所のトップだった人物です。
その柏木が江戸の三浦から「農兵がんばってるよ!」との報告を受けて
わざわざお菓子を送ってくれたのですね。

これを読むと、江川代官所支配地域での農兵政策は
●代官所の悲願であったこと
●村々もこれを理解し協力的だったこと
●代官所と村の指導者層の間には、綿密な人間関係が築かれていたこと
以上のことが推察できます。
特に代官所の手代たちが、政策を成功させるために村々に気を遣っていること
が注目されると思います。

ところで、柏木さんが贈った菓子とはどんなモノだったのでしょう?
ちょっと、気になります。
三浦さんに言いつけて江戸で用意させたものでしょうか?
それとも韮山で用意したものを送ったのでしょうか?

江川英龍は「パン祖」の称号が与えられていますが、実際は天保13年(1842)
に当時江戸詰めだった柏木総蔵に指示を出して、長崎出身で製パン技術を
持っていた者からパン作りを学ばせたといいます。
つまり、代官所で製パンの知識があったのは柏木なのです。
柏木の作ったパンは兵糧の代りとなる乾パンが中心だったと考えられていますが、
柏木が英龍に出した報告書には「砂糖・鶏卵での味付け」も述べられているそう
で、菓子パンが作られていた可能性もあるようです。

柏木さんが自ら焼いた菓子パンを贈っていたとすれば、ちょっと微笑ましくも
感じますね。

メガ68


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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#1464 柏木荘蔵
仮に江川太郎左衛門英竜が大河化されるとして、重要人物は前半なら斉藤弥九郎、中・後半なら柏木荘蔵で間違いないでしょう。それくらい幕末期の柏木の活躍は突出していると思います。(長崎の何とかいう人の日記にも柏木が江川の実行隊長、みたいなことが書かれてた記憶があります!)その柏木が多摩地域の名主に、(相互に)かなり心を開いていることは十分注目に価すると思います。この地域の名主の先見性、気概、品性が彼や太郎左衛門らと合ったのではないでしょうか。今回取り上げていただいた記事で、そんな気がしました。
ちなみに柏木が送った「お菓子」はずばり「クッキー」だったんじゃなゃいかと私は思いますね。特に理由はありませんが、パンの要領で結構イケますから。

余談ですが、大河化されるなら、是非天保15年10月16日、八王子法蓮寺への柏木の踏み込みを入れてほしいですね。『公私日記』の記事ですが博徒19人を八王子で捕縛する江川手代の姿は西部劇のそれを彷彿とさせて、心が熱くなります。
#1465 甚左衛門さま
柏木は間違いなく江川代官所の中心だった人物ですね。特に英龍が亡くなった後は、次の代官が病弱だったり幼少だったりしたので、彼が実質代官所を動かしていたのでしょう。
柏木が文政7年(1824)生まれ、内野杢左衛門が文政6年生まれ。参考までに日野宿の佐藤彦五郎が文政10年生まれです。同世代の彼らの間は風通しも良かったのではないでしょうか。

しかし、維新を迎えると柏木は徳川にさっさと見切りをつけて新政府に走ってしまいます。これは江川家を守るためだとわかるのですが、同時に支配地の村々も守るつもりだったのか、それとも斬り捨てる気だったのか、その辺りがよくわかりません。
代官所の手代の中でも、松岡磐吉、柴弘吉の兄弟は榎本艦隊で最後まで新政府軍に抵抗するし、彼らと柏木の間のことも気になります。
どこかにいい史料か本があれば、読んでみたいです。

柏木がクッキーを焼いていたら、いいな~。
それを農兵にプレゼントするなんて、それだけで大河ドラマ1話分のエピソードになりそうじゃないですか。

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