川越散策

先日、市内の歴史サークルの方々と埼玉県川越市の史跡散策をしてまいりました。
今回のブログはそのときの写真を中心にお届けいたします。

東大和市と川越市は何の関連もないようで、実は歴史的にはけっこう関係が深い
間柄です。
その一つが野火止用水
承応3年(1654)に玉川上水が完成すると、その総責任者だった松平信綱はご褒美
として、自分の領内(川越)まで分水を引く許可を得ます。分水口は現在の西武線
玉川上水駅の東側に設けられ、東大和市の南を通って北上するルートで作られました。
これが野火止用水です。
ただし、東大和市域には一滴も分水が許されなかった悲しい歴史があります。

もう一つは新河岸川舟運です。
新河岸川は川越から江戸に物資を運ぶために、信綱が整備しました。
東大和市内を清戸街道が通っていますが、この道は清瀬を経由して志木の引又で
新河岸川に至ります。狭山丘陵一帯から江戸へ運ばれる物資も、このルートで輸送
されたことでしょう。

てなワケで川越へ。
現在は西武線沿線という鉄道ルートでつながりのある東大和と川越です。
しかし、路線の事情で東大和から川越へは、遠回りとなる小平駅に出て乗り換えな
ければならないため、それほど利便性がいいわけではありません。

IMG_1437a.jpg 本川越駅


先ずは東方面に歩き、仙波東照宮に向かいます。

DSCF7390a.jpg

日光、久能山と並んで「三大東照宮」の一つに数えられるそうですが、その佇まいは至って
地味です。
徳川家康は元和2年(1616)に75歳で亡くなり、一旦は久能山に葬られますが、その遺言
により翌年日光に移葬されます。その道中、この場所で4日間遺体が留め置かれるのです。
というのも、ここに家康の側近だった天海僧正が住持を務めていた喜多院があったから。
4日間に及ぶ大法要を終えて家康の遺骸は日光に向かうのですが、天海僧正は家康への
感謝の気持ちを表わすために家康像を作り祀ります。これが東照宮の初めです。

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本殿のある唐門の前です。
手前にある灯籠は明暦2年(1656)に川越藩主松平伊豆守信綱が寄進したもの。

唐門の中へは入れませんが・・・

IMG_1440a.jpg

柵の中にカメラを入れて、本殿を一枚。
中には岩佐又兵衛の描いた三十六歌仙の絵もあるんだそうな・・・。
見たーい。

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灯籠は歴代の藩主が(全員ではありませんが)寄進しています。
これはその中の一つ。
柳沢美濃守吉保が寄進した灯籠です。
本殿の外側の地域にある拝殿の前にあります。

ところで、拝殿の前で写真を撮ったらこんな感じで・・・

DSCF7395a.jpg

めっちゃ、オーブが飛びまくってるんですが、コレ何なん?
東照大権現さまですか?
お話したいということであれば、当方はいつでもウェルカムです。
江戸話しましょう!

仙波東照宮を出て北側へ歩くと、喜多院です。

IMG_1444a.jpg

拝観料を払うと客殿や書院に入れます。
江戸城の紅葉山にあった御殿(家光誕生の間、春日局の間)を移築した、というのがソレ
です。少々薄暗い感じではありますが、重厚な趣のある部屋ですね。
江戸城の御殿建築物は、火災などもあって一切現存していません。
この二間だけが移築されていたので、かろうじて残っているだけです。
しかし、重機のない時代によくこれだけのものを移築できたものです。当時の喜多院が
持っていた力が想像できます。
残念ながら、写真撮影はNG。
けど、庭は撮影できましたので、一枚。

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小堀遠州の庭だそうです。

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喜多院の建造物では、この宝塔が一番カッコイイ形をしていると思います。

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五百羅漢像・・・あなたの隣りの家のおっさんに似た顔もきっとある!

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こちらが南光坊天海大僧正
金地院崇伝と共に家康の側近を務め、「黒衣の宰相」と呼ばれた僧侶。
108歳まで生きていたといいます。
笑い方は絶対に「ぐふふふ・・・」だったでしょうね。

喜多院の東側、天海僧正像と道路をはさんで建っているのが日枝神社

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山王祭が行われることで有名な赤坂の日枝神社は、元々は江戸城の中にありましたが、
その日枝神社はこの川越の日枝神社を太田道灌が勧進したものと云われています。
少し離れた所から見ると、この神社が少し小高い場所にあるのがわかりますが、この
場所には元々古墳があったとのこと。

さて、喜多院や日枝神社からずーっと北へ向かいます。
すると、川越市役所前に出ますが、市役所の前に立っているのがコチラ。

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太田道灌像であります。
川越城を築いたのがこの人(と、父親の道真)。
市役所がある場所は、かつての川越城の大手門の位置になります。
道灌といえば川越ばかりでなく東京都内、多摩一帯を含めた地域のスーパースター。
大手門跡にその像を作るのは当然です。
なんなら、お台場にあったガンダムくらいデカくたって文句はありません。

平安末期から南北朝時代にかけて、川越を支配していたのは「河越氏」であり、その
本拠地は現在の川越の西方、上戸にありました。
鎌倉時代に執権北条氏が傀儡として京都から親王将軍を迎えますが、その護衛と
して下ってきたのが上杉氏。その上杉氏が室町時代に入ると関東の覇権を古河公方
の足利氏と争うようになります。
この頃、上杉氏は一族がいくつかの家に分かれますが、その一つ扇谷上杉氏の家裁
を務めていたのが太田道灌です。
河越(上戸)は山内上杉氏が陣を置いていましたが、道灌は新たに川越城を築きます。
川越城と江戸城を対立する古河公方からの防衛ラインとしていたわけですね。
これ以降、川越の中心は上戸の河越から現在の川越に移っていきました。

戦国時代に入ると関東は後北条氏が支配するところとなり、川越城は小田原城の支城と
なります。そして江戸時代には、藩主が老中を務めるような、幕府にとって重要な譜代が
治める藩となってゆくわけです。

大手門のあった市役所前の道を東に、つまり本丸の方角へと進んでいきます。
途中でこんな堀跡を見かけました。

DSCF7421a.jpg

これは中ノ門堀です。
この場所には、大手門を突破して本丸方面に進んできた敵を防ぐ中ノ門がありました。
写真の右(大手門側)と左(本丸側)の堀の斜面角度を変えることによって、敵の侵入を
防ぐ工夫がしてあります。

DSCF7422a.jpg

川越城は明治維新以降、城内のほとんどの施設・建物が取り壊されたため、当時の
面影を残すものが少ないのですが、この中ノ門堀は数少ない遺構の一つだそうです。

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川越城本丸御殿
江戸時代初期は、将軍が鷹狩の途中など川越に来ることがあり、本丸御殿はそのために
作られた施設だったようです。藩主たちは二の丸に居住していたんですね。
ところが家光が亡くなった後は、将軍が川越に来ることもなくなり、本丸御殿も用済みと
なって解体されてしまったようです。江戸時代後期に成立した「新編武蔵風土記稿」には
「今は家作なし」と空き地であったことが書かれています。

ところが江戸末期の弘化3年(1846)、二の丸が火事で焼失してしまいます。
当時の藩主・松平斉典(なりつね)は新築の御殿をこの本丸に築くことと決め、嘉永元年
(1848)に再建されたのが、この本丸御殿です。

先ほども書いたように、明治以降に川越城の建物は解体されていきましたが、本丸の
玄関と大広間だけは残されました。
写真だとピンと来ないかもですが、実際に見ると唐破風が巨大に見えて威圧感がとても
あります。建築当時の川越藩は17万石を領していたと云いますから、その威風を押し出し
たかったのでしょうね。
日本国内でも本丸御殿が現存している例は極めて稀なことだそうです。

川越城の敷地内にあるのが三芳野天神社です。

DSCF7419a.jpg

現在工事中で、こんな残念な写真しか撮れませなんだ・・・。

この神社は童謡「とおりゃんせ」発祥の地と云われております。

城内にある神社は、ふだんは庶民がお参りできません。
庶民が城内に入りお参りできるのは、年に一度の大祭か七五三のお祝いの時だけ。

DSCF7418a.jpg

この参道を歩いてくるのですが、城内ですから警備は厳しく、早く帰らないと怒鳴りつけら
れたとか。

「とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこの 細道じゃ 天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ 御用のないもの 通しゃせぬ この子の七つの お祝いに
お札を納めに 参ります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも
とおりゃんせ とおりゃんせ・・・」


なるほど、そういう意味の歌詞だったのですね。

大手門まで戻り、そのまま西へ進むと「札の辻」。
飲食店やお土産もの屋が並ぶ、観光のメインストリートです。
そこからちょっと脇道に入ったお寺。

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養寿院です。

先ほど平安末期から川越を支配していたのは「河越氏」と書きましたが、鎌倉時代にその
当主だった河越太郎重頼の墓がここにあります。

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河越氏は秩父平氏の出でしたが、重頼は源頼朝の乳母の娘と結婚していたので源平の戦
では源氏方に付き、頼朝に優遇されました。頼朝の仲介で重頼の娘が義経の妻となった
ほどです。
しかし、程なく頼朝・義経の兄弟間が不和となり、重頼も所領を没収されてしまうのでした。

養寿院を開基したのは、重頼のひ孫である経重でした。
経重が重頼親子を弔うために建てた供養塔、それがこのお墓です。
他の墓域から離れた本堂の脇にひっそりと、供養塔は佇んでおります。
おそらく当時は、将軍から処分を受けた者の墓として人目を憚ったのでしょう。

その後、河越氏は南北朝時代に「平一揆」という在郷武士団のリーダーとなり、平一揆は
将軍足利尊氏の要請で鎌倉公方足利基氏(尊氏四男)を支える軍団になります。
ところが基氏と関東管領(鎌倉府のNo.2)畠山国清の間が悪くなり、ついに国清が滅ぼされ
上杉氏が関東管領の座に座ります。
鎌倉公方と関東管領は、父親(尊氏)が付けた平一揆勢が邪魔になってきたのか次第に
彼らを冷遇するようになり、ついに両者間の争いへと発展してしまいます。
そして平一揆勢は鎌倉軍によって滅ぼされてしまいました。

養寿院の河越重頼の供養塔を見ると、その表面に刻まれた文字がわざと削られている
ようにも見られます。
河越氏の子孫、縁者は、河越一族の墓だとわかれば破壊されかねないと思い、密かに
わからないように供養を続けてきたのかもしれません。
小さな供養塔ですが、その背後に中世から続く大きな歴史を背負っているのですね。

メガ66
源頼朝って、あんまり上司にしたくないタイプですね。


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