柏木総蔵との密談!?

『私(杢左衛門)曰く、農兵一条は別段に控えておくので、詳細は農兵一条を書いた
紙を開いて見ること』


文久3年(1863)11月に、蔵敷村名主の杢左衛門さんは、上新井村名主の市右衛門
さんと共に「農兵書上帳」を代官所に提出しましたが、その写しの最後には上の一文が
朱書きで添えられていました。
つまり、「農兵については別に取り交わした一条があるので、それを参照しろ」と言って
いるのです。その一条には、何が書いてあるのでしょうか?
早速、見て行くこととします。

「右同断のことについて、御出役の柏木捴蔵様より別段に御内意を記した書取を見せ
られた、その写し」(朱書き)


先ずはこのようにタイトルが朱書きで書かれています。
「別段御内意御書取」とあるので、表向きの命令とは別のことと受け取れます。

「一 御先々代(※英龍)はそれぞれ承知の通り、数年に渡って外寇をことごとく憂慮
され様々な御建議もしてきた。つまり、豆州(※伊豆)は三面が海の国で、下田は東海
第一の大きな港であり、その支配する海岸はもちろんのこと、たとえその宿や村々の
ように海路からは隔ててあったとしても、万が一夷賊が上陸して踏み荒らされるほど
の事態になったならば、皇国の御恥辱は容易ならざることである。
しかし、有事に臨んでは四方八方への御手配もあることゆえ、急速には在方への対応
は届かないことであろう。従ってどのような事態が起こるかも計り知れないとの懸念から、
すでに嘉永6丑年に農兵策を思召され、豆州の村々は大まかにお調べになっていた。
このことから駿州(※駿河)辺りの宿場や村から有志の者を御調べになって、農兵に
御差し加えされる等のことを願い申し上げた。
しかしその頃は、江戸湾のお台場やその他の御用事があり、一日一日と過ぎてゆくうち、
発病しついにご逝去された。農兵策はそのまま放っておかれたのを御先代(※英敏)
が非常に遺憾であると思われ、去々酉(※文久元年)10月中に仰せ立てられたことが
この程御下知になったことである。
そのようなことは表立って申し聞く筋ではないけれども、御両所一帯と申す内でも、各々
は旧来の支配を受け御先々代、御先代の遺言を厚く含められた。ことさらに今は鎖港を
御談判中であるが、いずれにしても一日も安心して傍観できるような時勢ではない。
そこで熟考を別段に配慮しておきたいことである。」


農兵は江川英龍が嘉永6年(1853)から献策していたことであり、各々・・・杢左衛門、
市右衛門は英龍・英敏の遺言を託された者たちである。現在は一国も猶予のない時
なので、表向きとは別段の考えを伝えておく。ということでしょう。

「一 農兵は、農兵としてそれぞれお達しの通りお取立てとなったが、元来の趣意は前条
に申し聞いた通りのことである。それゆえ神主・修験・医師その他貴賤を問わず、国家の
ために実は心配している有志の者はいないわけがない。
自然ほとんどの者がそうであるので、しっかりと取り調べて名跡を申し聞かされたい。
その次第によって内々に面会してその考えを承り、志願に応じ許可し、その筋へもお聞き
入れして御内意を伺うべきこととする。
もっともこの度の農兵は銃隊であるが、右有志の面々はそれぞれの得物をもって農兵の
補助となるよういたすこと。たとえば銃は相互に使うものではあるが、近場に至っては
日ごろから練習している利器である短刀を添えて、接戦においては勝算の一理かと心
得ること。



一 昨今御用のためのお金がかかり、御救いの筋のこととは申しながら、御貸し渡しに
なるべき小銃や附属の品々の代金は、その他に容易に無いと恐れ入り奉ることである。
右は御国恩の冥加とわきまえて、身元の者たちから献金を願うこともあるかもしれない。
稽古のための入用はなおさら、お上が御失費なさらぬように工夫し、勘弁してくれという
のはないようにする。
神事祭礼のときの揃いの衣類を用意するのに多額の費用をかけたり、又は自分が欲しい
ものには無益な金銭や手間をも顧みることもないとも申しがたい。その辺りなども得と
わきまえること。
且つ、御本丸が火災になったことについて、他の支配所からは上納金があったけれども、
当支配所においては新銭座大小炮習練場のお取立てにつき、別段の上納金もいたした
ことで、内々に沙汰は出ていたけれどもそのまま打ち過ごしたのは申すに及ばない。
これらのことも考えるに破格のまごころである。
組合に限って身元の者の名跡を取り調べ、凡そ各々の見込みを印封をもって申し聞かさ
れるべし。その上で品々によっては自分からも申すべきこと。
なるべくはそれ以前に献金、並びに稽古の入用金を差し出すように願い出れば、その者
の奇特はもちろん、各々の骨折りも一入り顕著であると申すべきことである。
少しも自分らの勤功も顧みない場合から、一応申し聞くことである。


一 農兵お取立ての仕方に沿って御役になった上は、隊伍役人、平卒ともそれぞれ勤務
中の身分の階級もお立てになるようなるべきことである。
且つ又、右のことにこだわらずこの度のご趣意を厚く理解し、申し諭すほか骨を折った者
並びに上納金を出した者たちのご褒美は、もちろんのことである。

一 新田開墾すべき山野等は申し聞かされるべし。右はその場所によってとくと取り調べ、
最寄りの村々の次三男や厄介等の中より出百姓を申し付け、そのためにお取立ては
薄くして、平常は百姓に従事し有事のときは兵卒になるように、専業の農兵は取立てない。

一 この度申し諭した農兵についてのことは申すまでもなく、すべてその筋のため、又は
取締り向きなどへの忠義心を付けることでもあるので、無考慮に申し聞かされるべきこと
である。
役所向きのこと、そのほか他に聞かれたくないこともあるので、印封をした上で内々に
申し聞かされたい。

一 孝行者、奇特の人、文字が書けて行跡がよろしい者の有無を取り調べて、申し聞か
されるべきこと。

右の廉々は内密に申し聞かされたことにつき、すべて各々限りで、他言しないこと。」


おそらくお上から出た農兵取立の条件は、農民にとって負担の大きいものだったので
しょう。
これでは江川家悲願である農兵政策に、農民から反対意見が出てしまうと考えた柏木
さんらが、この一条を杢左衛門、市右衛門の両名に見せて、村で納得の行く形に修正
していったものと思われます。
その結果、以前ご紹介した「小銃は貸与とする」「訓練は農閑期とする」などの条件へ
と変わっていったのでしょう。

そして、この一条の末尾に以下のような注意書きが朱書きで添えられています。

「右は文久3亥年11月19日に、前書の柏木様、三浦様御両人より田無村御旅宿の
御用先へ、上新井村名主市右衛門と蔵敷村の同杢左衛門をお呼び出しの上で内密
に見るように遊ばされた御内意の写しである。
そして、所澤組合のうち当御支配所21ヶ村については杢左衛門、市右衛門の両人が
引請け、万事の御用向きは厚く差配して世話するようにと仰せつけられた。」


寄場組合(改革組合)では所沢組合として機能していたものが、なぜ農兵政策下では
編成し直されたのか、この一文を読んでわかりました。
蔵敷村の杢左衛門さんと上新井村の市右衛門さんは、江川英龍から日本の防衛策、
あるいは農兵策についてかなり以前から説明を受けていたものでしょう。それだけ
江川家からの信頼が厚かったのだと思います。
農兵には消極的な村々も当然あったでしょう。
しかし、信頼の置けるリーダーがいる組合をいくつか作っておくことで、より実践的な
集団を代官所は作りたかったのだと思います。

おそらく、同様の事前交渉や、このような農兵一条の写しは農兵政策に積極的だった
日野宿などにもあったのだと思います。どこかから発見されるといいのですが。

メガ65



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#1433 あっという間の献金団体
 とても面白く拝読しました。農兵創設を認められたけれど、幕府からの資金はない、江川家も出せない、どうやって出発するか、担当家臣の苦労が浮かんできます。
 それにしても不思議なのは、所沢寄場組合というれっきとした組織がありながら、代官の御手附柏木氏などの依頼によって、献金団体のような「上新井村組合 弐拾壱ヶ村」があっという間につくられ、献金されたことです。
 これは、狭山丘陵周辺(所沢寄場組合)の特殊な例なのか、江川家が代官を務めた他の地域にもあったのか、イッセイさんと同じようにとても知りたいです。資料ご存じの方、是非ともお教え下さるようにお願い致します。
#1434 野火止用水さま
仰るとおり気になるところですね。
ワタクシは狭山丘陵周辺以外にも、江川代官所がかなり以前から農兵に協力的な村々をリサーチしていたのではないかと思っています。その資料が出てくるといいのですが。
また、幕末期の代官支配地の村々には、農兵やらお台場建設やらに献金できるほどの財力があったというのも、今後もっと注目されていいポイントだと思います。興味は尽きません。

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