「里正日誌」の文久3年(1863)の箇所は少し編集の仕方が変わっていて、ほぼ
全編が
農兵に関する記録になっています。
時期も文久3年だけではなく、元治・慶応と続き、最後は明治8年(1875)の「鉄砲
請印帳」まで記載されています。
農兵政策は「幕府末期における天領の防衛策」と考えがちですが、明治の世になって
幕府もなくなり、あさちゃんが「びっくりぽんなカッパを作らなアカンのだす!」と言って
いるご時世になっても、農民の自衛政策が事実上生きていたということですね。
農兵の制度自体は御一新で廃止になったハズですが、警察・軍隊がまだ整っていない
時代の現れではないでしょうか。西南戦争が終わるまで「江戸時代」は終わってはいない、
という考え方があるのもわかるような気がいたします。
(※カッパ・・・カンパニーのことですがな by 近藤正臣)
さて、
「里正日誌」文久3年の巻頭は次の言葉で始まります。
「文久当役日誌第三
文久3年癸亥8月、御代官江川太郎左衛門殿より支配所から一般農兵をお取立になる
ことを仰せ出された。引き続き組合村々で、農兵の編成、修練、そのほか鉄砲の御貸し
渡しなどに関し、慶応元乙丑年12月までの諸筆記、もっとも同年丙寅からはその年の
日誌中に記しておく。この件について別集するのは、この編に依るものである。
農兵の発端は先々代の太郎左衛門英龍君が常に幕府へ致されてことである。
先代の英敏君においても深く苦慮なされ、当代の太郎左衛門英武君に至り、その筋より
御下知となった。
安政6未年2月12日をもって、御鉄砲方附きの教授方が常々出精勤め、一層研究して
いる・・・云々の申し渡し書を巻頭に揚げ序言に代える。」農兵政策は英龍が幕府に何度も建白し、3代に渡って訴え続け、英武の代になってようやく
採用された経緯が書かれています。
では、その「安政6年の・・・云々」とはどのような申し渡し書でしょう?
「 江川太郎左衛門へ
御鉄砲方附きの教授方を始め、常々出精勤め、砲術に関することを追々一層研究している
ことである。
なおこの上は互いに隔てなく意見を話し合い、年の若い者どもが格別に奮発勉強して、いずれ
も熟練の域に達するように、精一杯世話をされるべきである。
もとより、自分だけの功をひけらかし、方々の能力を競うことは毛頭ないはず。
つまるところ国家の御為に心力を尽くすことであり、追っては銘々新しい発明品もあるべき処、
あれこれと内輪の意味合いなどを生じるようでは、自然と以前と同じ工夫も進まぬようになって
しまう。先代太郎左衛門の報国精忠の遺志を厚く守り、幾重にも精勤いたすべきである。
そもそも誰も文武の心がけを厚く、気概を厳然として、淀むことがないのは全て先代の太郎
左衛門が国家のために教育を丁寧に行った故のことで、本当に感激に堪えないことである。
そのような中、近来はいろいろな方面からの引き合いが広くなるに従い、自然にあれこれと
気向の心配をしているが、なんとなくやさしく流してしまおうということを止めるものがなく、
万が一にも惰性となるような、遊びや怠けが生じるのはもっての外のことである。
くれぐれも先代太郎左衛門の丹精を込めたことを忘れずに、砲術のことは申すまでもなく
平素から文武を怠けることなく心がけるように率いられるべきことである。
そのうちに、御用を見計らって銃術やその他の訓練を検分いたすべきことである。
もっとも、特別他人へ打太刀を頼みこむのは無益のことなので、銘々相互に打太刀をいたす
ようにして、部屋住みや厄介などの者でも希望する者は前書を差し出すことは苦しからず。
このことを申し渡しておく。
安政6未2月12日
右 土岐下野守殿より佐々木道太郎殿へ御直渡 」この書状は安政6年(1859)2月に勘定奉行(土岐下野守)から江川英敏に対して渡された
申渡書です。
安政2年に英龍が亡くなっていますが、その先代の遺志を守り西洋式銃砲をはじめとする
近代戦術の習得に励むように書かれています。
幕府の中で江川英龍の功績がいかに評価されていたかが、わかります。
冒頭書きましたように、ほぼ全てが農兵に関わることで占められている「里正日誌」文久3年
の項目の最初にこの申渡書をもってきて、「序言に代える」と杢左衛門さんは言っています。
多摩・狭山の江川支配地域の農民たちにとって、農兵政策は文久になって降りてきた命令
ではなく、すでに英龍生存中から計画されていた政策とみてよいのではないでしょうか。
少なくとも、杢左衛門さんのような名主クラスの指導者層には、その心構えはできていたと
考えてもよさそうです。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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マンガで思い出したのですが、「猫侍」のスペシャルドラマ「玉之丞 江戸へ行く」が19日から順次各局で放送だそうですね(笑)
羽州村山郡の幕府領でも文久3年に農兵取立が実施されたものの、農民たちの足並みが揃わず反発も大きくて、結局中止されました。
土地柄の違いもあり単純な比較は難しいにしても、やはり江川代官所の支配地では、御代官様や役人たちがかなり前から周到に根回ししていたのでは、と『里正日誌』のこの記録からも窺えるような気がします。
先週、佐藤文明氏の『未完の「多摩共和国」』について記事をupした当方にとって、まさにタイムリーなお話であり、改めて『里正日誌』の史料的価値がわかりました。
「未完の多摩共和国」には、江川坦庵がかなり以前から支配地の信頼たる名主らに農兵策を打診していたに違いないが、密命のためその証拠は残っていないだろう・・・と書いてあります。
今回ご紹介した記事は、確実な証拠とは言えないまでも、佐藤氏の推論を裏付ける傍証になるのではないかと思ったのですが、いかがでしょうか。
「猫侍」情報ありがとうございます!
また玉之丞に会えますね^^
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