芋窪村内の争い③

新年に入り、テレビドラマの話ばかりしておりましてスミマセンでした。
本題に戻りましょう。

芋窪村内の争い①
芋窪村内の争い②

コチラの続きでございます。
忘れちゃった方、初めての方はぜひチェックを!

栄蔵、藤五郎双方の庭の木から起きた日照権の問題と、傷害事件。
両者が代官所の手附・山崎兼吉さんへ御吟味の願い書を提出しました。

ところがその翌日、次のような書状が山崎さんの元に出されます。

「恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります。

武州多摩郡芋久保村の佐右衛門と栄蔵が、藤五郎とその他1名より疵を負わされた
騒動一件のために、取り調べの御検視がお越しなされ御吟味されるところですが、
扱人が立ち入り双方の言い分をよく承りました。
右の一件は木陰を伐採したことにつき口論に及び、少しばかりの疵を負ったということ
です。よく話し合い内済いたしたいと存じますので、なにとぞお慈悲をもって来る25日
まで御吟味を日延べする御猶予を下され置きたく、扱人一同連印をもって願い上げ
奉ります。以上。

   文久3亥年11月17日
           当御代官所
             武州多摩郡芋久保村
                      百姓  栄蔵
                      同   佐右衛門
                      親類  幸吉
                      組合  勘七
                      組頭  藤五郎
                      兄弟  由蔵
                      組合  金次郎
                      親類  八右衛門
                      名主  景左衛門
                 扱人  同   由兵衛
              中藤村
                 扱人  名主  市郎右衛門
                 同   同    源蔵
                 同   同    佐兵衛
              蔵敷村
                 同   同    杢左衛門

  江川太郎左衛門様御手附
    山崎兼吉様                                          」
    

扱人というのは、訴訟事などトラブルがあったときに間に入って仲裁をする人です。
芋窪村の事件が蔵敷村の「里正日誌」に詳しく取り上げられている理由は、この扱人として
杢左衛門さんが関わったからだと言えそうです。
日付けが「11月」となっていますが、前後の史料から判断して、これは10月を書き間違えた
ものでしょう。

地理的には芋窪村の東隣りが蔵敷村。西隣りが中藤村です。
この両村から仲裁が入るので、代官所の審議を10日間待って欲しいという書状です。
そして約束の25日、次のような書状が代官所に出されました。

「恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります。

武州多摩郡芋久保村の百姓栄蔵とほか1名が、同村の組頭藤五郎とほか1名より疵を負わさ
れた一件は、先だって御検視を願い上げ、御出役様がお越し遊ばされ一同に御吟味がある
ところでございます。 
栄蔵と佐右衛門が申し立てることには、屋敷続きの藤五郎と地堺にある木が木陰にならない
ように伐採するべきはずと、かねて印証も取り交わしてあったので当月12日昼九ツ時頃、木陰
を伐採すべしと屋敷境へ罷り越しました。

すると、藤五郎と同人の弟の由蔵がかねて申し合わせたことと相手を見て、鉈で不法に栄蔵へ
切りつけ、同人は額へ長さ2寸ほどの疵を負いました。
藤五郎は木刀で佐右衛門の頭上から耳の後ろへ打ちかけ、疵1ヶ所その他全身をことごとく
打たれた旨を申立てました。

藤五郎ほか1名については、元々屋敷地について、たとえ屋敷を建て新古の差別があったとし
てもよく話し合いをして、この上は伐採しなければならないところ、それをせずおろそかにした
ので伐採を始めたことから行き違いに及び、口論とまでになりました。
鉈で疵を負わせるつもりは決してないとのことを申し上げ、争いを御吟味中に扱人が立ち入り、
よく話し合いに及びました。」


長くなりましたので、一旦区切ります。
前半部分は事件の概要の説明ですが、後半「おや?」と思うのは藤五郎らが「疵を負わせる
つもりはなかったんだよ」とやや下出に出ている印象があることです。
扱人が入ったことで、藤五郎さん、ややトーンダウンしたように見えます。

「右の一件は藤五郎並びに弟の由蔵が、屋敷地の境界線にある木によって木陰になった
枝葉を伐採すべしと思い、鉈を腰に差して木に登っていました。すると栄蔵と佐右衛門が不意に
その場に声をかけてきたので驚いて梯子を踏み外して転落し、そのはずみで腰に差しておいた
鉈が栄蔵の額に当たってしまい、いささか疵ができてしまいました。
佐右衛門は栄蔵が倒れたのを介抱しようとしたところを、木の根につまずき自ら擦り傷ができて
しまいました。全くの過失です。

藤五郎ほか1名より疵を負わされたことはないとのことがわかり、疵ができたところもほんの
わずかであり、早く快方に向かい、障害が残るなどはもちろん農業渡世に支障が出るなどの
ことはありません。
一同申し分なく示談に行き届きましたので、これ以上お調べを受けますことは恐れ入り奉ります。
何とぞお慈悲をもって、右の一件をここまでにしてお下げ置きなされたく、一同連印をもって願い
上げ奉ります。以上。

 文久3亥年10月25日
                         武州多摩郡芋久保村
                           百姓  栄蔵
                           親類  幸吉
                           百姓  佐右衛門
                           組合  勘七
                           組頭  藤五郎
                           兄弟  由蔵
                           親類  金次郎
                           組合  八右衛門
                           名主  景左衛門
                         扱人
                         蔵敷分
                           名主  杢左衛門代兼
                         中藤村
                           名主  源蔵
                           同    市郎右衛門
                           同    佐兵衛
                         芋久保村
                           同    由兵衛
 江川太郎左衛門様
       御役所                                             」


いや、もうコレ読んで思わず笑っちゃいました。
なんスか、この着地点。
偶然が偶然を呼んだみたいな、いかにもムリヤリなストーリー。
「こんなん誰が納得すんだよ、それじゃー以前両者から出された吟味願いは、ありゃ何じゃい!」
ワタクシが山崎さんならこう言っていそうなものですが、この一件についてこれ以上史料がない
ということは、これで話がまとまったということでしょう。

メチャクチャ強引な幕引きだとは思いますが、これが当時の農村のトラブル解決法の一つの
典型的な例ではないかと思います。
おそらくこの一件は、栄蔵たちの言い分に信ぴょう性があるのではないでしょうか。
しかし、公に訴え出て訴訟事になれば、どちらにしても村から犯罪者を出すことになってしまう。
これは村内に遺恨を残すことにもなり、村の生産性を低下させることにもつながります。
当時の年貢は村請けですから、元々生産性の低い東大和市域では無用なトラブルは避けたい
というのが、指導者層の基本的な考えでしょう。

一方、代官所に目を向けましょう。
ちょうどこの事件のあった文久3年(1863)10月は、江川家の悲願であった農兵の取り立て
が、その支配地に限って決定され、具体的な取り立て人数などの見積もりが出された時期と
重なります。(農兵策の沙汰が出されたのは8月)
その準備に、こうした小さなトラブルには構っていられない、というのが本音でしょう。

以前ご紹介したように、東大和市域は杢左衛門さんを中心として農兵政策には積極的に取り
組みました。
村の中で暴力事件が頻発しているような印象を、お上に与えるようなことはこれも避けなければ
いけません。
ワタクシは、杢左衛門さんら江川家に近い指導者が積極的に扱人に乗り出し、強引に事件の
幕引きを図ったのではないかと思っています。そして、そのことは代官所も全て了解済みだった
のではないでしょうか。

ここで、もう少し深読み。

当時、江川代官は江川太郎左衛門英武の代になっていますが、年齢は10歳。
先代の英敏は英武の兄ですが、彼が代官になったのも16歳。そして23歳で亡くなっています。
江川支配地の村々(の指導者)では、名代官と呼ばれた英龍亡きあと、代官に若年が続く現状
に不安を抱き、自分たちの問題は自分たちで解決していかなければ、幕末という難局は乗り越
えていけないという考えをもってきたのではないかと思います。
この流れが、多摩の明治期「豪農型自由民権運動」につながっていくのでしょう。

と、考えるならば、今回ご紹介した「芋窪村傷害事件」はその端緒を探る一件になるのではないか
と思えるのです。

メガ56


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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#1372 アッケラカンとして、あんぐり
 最後のくだりを拝見して、よくも、まあ、ヌケヌケと、あんぐりです。しかし、これが当時の狭山丘陵南麓一帯の実態だったと妙に納得します。幕末の代官支配と村の実力者の微妙な関係をご紹介下さり、とても参考になりました。
 この時期、後ヶ谷村明細帳は、村人達が青梅、飯能、五日市方面に薪炭の仕入れに行き、夜中に出発して江戸市中に納め、夜半に帰村する農間稼ぎの村人の姿を記しています。
 もめ事は、内済に限った状況がよく理解できました。
#1374 野火止用水さま
仰るように、この時代の江川代官領の実態がよくわかる史料だと思います。さらに、ご提示いただいた農間稼ぎの様子などを比べ合わせると、我々が思っていた以上にこの地域の農村は近代的な構造に向かっていたことが想像できます。
こんな子供でも騙せないような「ウソ」を丸ごと了承してしまう、代官所の実情も、実に興味深いです。
#1383 腑に落ちる
「落とし所」というのはこういう事を言うのですね。両者の言い分が左右真反対に別れたのなら、仲裁者の役割は真中をとること。
近代的な思考に慣らされた私たちからすれば、字面は茶番に見える結末ですが、心理的に考えれば、両者の気持ちに配慮した実に合理的な落とし所であると思います。

同時に、近世文書読解はこのように、字面をそのまま捉えるのではなく、その裏にあった実情、更には関わった人々の立ち位置も考慮しなければ真実が見えてこない、という好例であると思います。
何しろ扱った人々が杢左衛門さんのような海千山千の人なのだから、私のようなぼんくらが一見で全体像を捉えることはほぼ無理でしょう。計らずもイッセーさんがした様に周辺文書を丁寧に読んで、一字一句からゆっくり全体を捉える。これがやはり近世文書読解の基本姿勢なんでしょうね。
#1384 甚左衛門さま
「落とし所」ですか。なるほど、連帯責任が基本だった江戸時代では、仰るようにその方が合理的だったかもしれませんね。さすが、甚左衛門さん、見る角度が違いますね。

近世の農村は、我々が学校の歴史授業で学んだことより、よほど複雑で奥が深いことが史料を読むたびにわかります。できれば、もっと多くの名主日記などに当たってみると、立体的に全体が見えてくるのかなぁ・・・と思うのですが、そこまでの戦闘能力がありません。少しづつですが、勉強していきたいと思います。
#1385 どっとはらい
こういうオチもありそうには感じていました。
類例を見かけた覚えがあり、仰せのとおり典型のひとつと感じます。
代官所側も重要な案件を多数抱え、個人レベルの揉め事を持ち込まれたくなかったでしょう。

こうなると、やはり名主景左衛門は職務怠慢を問われても仕方ないかもしれません。
大事になる前に、仲介者を入れて当事者同士を話し合わせれば良かったのに。
ひょっとして、杢左衛門さんら扱人から「村内のいざこざを未然に防ぐのも名主の仕事のうち」などと説諭を受けたのでは?(笑)
まあ、大事になったからこそ当事者が折れた側面もあるでしょうが。

幕末は社会の質が大きく早く変化していった時期であり、
人々の「従来のままではいけない」という危機感は当然あったろうと思えます。
#1387 東屋梢風さま
東屋さんの仰るように、扱人たちから景左衛門へ小言の一つもあったのでは・・・とワタクシも想像いたしました。
この史料を残した杢左衛門さんの視点から考えると、名主の不手際の一例として書き留めておきたかったのかもしれませんね。

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