流鉄流山線を流山方面に向けて赤レンジャーな車両が走ります。
終点の一つ手前、平和台駅で下車。
すると散策メンバーのひとり、
月猫さんが
「ここって平和台球場があるトコロ?」
と、果汁100%クラスの天然発言。あまりの上段からのボケに
「そりゃ、九州でしょ」とフツーに返してしまいました。
「ダメだよ、イッセーさん。そこはいじらないと!」と同じメンバーのK氏から
教育的指導が入ります。
そうでした。「たしか今日からここで、西鉄VS日拓のCSですよ」くらい言えな
ければ・・・!!日々反省の連続です。
駅から先ず向かったのが、江戸川の堤防。ここにかつて「丹後の渡し」という
船の渡し場がありました。
丹後の渡し跡江戸からの旧流山道(諏訪道)の最期の渡し場だそうで、幕末当時には三艘の
渡し船があり、さらには馬船という馬なら5~6頭、人なら40~50人、大砲も3門
乗せられた船があったそうです。
新選組が流山に入ってきたのは、この渡し場からだといいます。
しかし、ここより南を通る水戸街道から流山に入ってきたという説もあるんですね。
五兵衛新田・金子氏の文書には、どちらともとれる記述があってハッキリしません。
ちなみに、この渡し場の名称は、中世に流山の支配者だった井原丹後の名前から
来ているそうです。
丹後の渡しから歩いてすぐの場所にあるのが、曹洞宗の寺「流山寺」です。
流山での新選組の分宿先の一つと云われています。
洞雲山流山寺実は流山寺に新選組が滞在していたことがわかったのは、平成15年のこと。
地元の旧家恩田家から文書が見つかり、初めて確認されました。
このように歴史ってのは、日々新発見とともに更新されてるんですね。
ちなみに建物は昭和40年に建て替えられていて、史跡としてはちょっと残念な
カンジです。仮面ライダー1号に会えたよ、と思ったら新1号だったみたいな・・・。
流山寺の目の前にこんもりとした山があります。
むかーし昔、赤城山から山の土がこの地に流れ着いたとか、お札が流れ着いた
とかの伝承があり、それが流山の名称の由来になったと言います。
で、その山にあるのが「赤城神社」。
ここにも新選組は分宿していたとのこと。
赤城神社の大注連縄(しめなわ)なによりもビックリするのは、この大しめ縄!
長さ10m、太さ1.5m、重さ500㎏だそうです。
ちょうどこの日はお祭りで、屋台が出て賑やかでしたよ。
かつては祭礼に合わせて大しめ縄を飾ったそうですが、現在はお祭りの後も
はずされずに1年間そのままにされているそうです。
赤城神社を出てすぐの場所にあるのが、真言宗の寺院「光明院」です。
やはり新選組の分宿先だった所です。
赤城山神楽寺光明院新政府軍側にいた兵士、富田重太郎の日記「官軍記」には新選組が分宿
していた寺として「称名院」の名が出てきますが、流山にはそんな寺はなく、
光明院がそれであろうと云われています。
「・・・であろう」というのは、光明院にしても前述した流山寺にしても新選組が
滞在していたというようなエピソードは、寺に何一つ残ってないそうなんですわ。
これは恐らく、「新選組を匿った」などと新政府に思われるのを避けるため、
わざと寺院の歴史から抹消したんでしょうね。

まぁ、現在はこんな看板で存在をアピール
ところで、江戸時代の俳人・小林一茶は流山を第二の故郷として愛し、何度も
訪れたんですね。地元の酒造家で味醂を開発した秋元家の五代目当主・
三左衛門感義は俳号を双樹といい、一茶を援助していたと云います。
光明院にはその一茶と双樹の連句碑などもあります。
すぐそばには「長流寺」という浄土宗のお寺もあります。
ここは恩田家の文書にも新選組の分宿先としての記載はないんですが、なにせ
近所なので可能性はあるんじゃないでしょうか。
で、ここには一体の馬頭観音像が置かれているんですが、その形がとても珍し
かったのでご紹介。
長流寺の馬頭観音像大抵の馬頭観音像は、お墓のような石柱に「馬頭観世音」と文字だけ刻んで
あるものがほとんど。古いものには馬頭観音のレリーフが彫られてあるものも
あるんですが、馬の頭だけの像というのは初めて見ました。
ただ、この像の横に「慶長十二年」の文字があるんですよね。
コレがどうだか・・・?ちょっと年号が古すぎる気がします。
馬頭観音像はだいたい1700年代後半以降のものが多いんです。
慶長12年というと家康が幕府を開いて、まだ4年ですからねぇ。
それとこの像、屋根付きの形も珍しいんですが、中の像に比べて外側は
なんとなく時代が新しい感じでしょ。
恐らくこの像は、元々流山の街道のどこかに建てられていたものの、道路拡張
などで撤去されお寺に移されたものと思います。外側はその時新たに作られた
のかなぁ、と想像するんですが・・・。
さて、ここまで新選組が分宿したであろう場所を訪ねましたが、肝心の近藤さんや
土方さんはどこにいたのでしょうか?つまり、本陣はどこ?
地元では「酒造家長岡屋」に本陣が置かれていたと言い伝えられているようですが、
前述の「官軍記」には「味噌屋舗」と書いてあるそうです。
新選組本陣跡どっちがホントよ?と言いたいところですが、当時「長岡」と云われていた屋敷を
味噌製造をしていた「秋元」が購入し、その秋元は現在酒類販売問屋をしている
ことからそのように伝わったのではないかということです。
で、秋元の屋敷があった辺りに土蔵が残っておりまして、そこに「本陣跡」の
案内板が立ててあります。
・・・と、ここまで来たら、新撰組のアノだんだら羽織を着た男女のグループが
本陣前辺りを「巡察」しているではないですか!
「えっ?今日はお祭りなんで、何かのアトラクションっすか?」
実はこの方たち
北総新選組という、流山を拠点にしている新選組研究活動グループ。
こうして土日などに新選組史跡に来ては、ボランティアで流山での新選組の様子を
解説しているそうなんですね。
我々が本陣跡に着く頃にはポツポツと雨が降ってきたのですが、そんな中でも
丁寧に解説していただきました。やはり地元に足を置いている方たちなので、
たくさん情報を持っておられます。
殺陣なども練習しておられるとかで・・・。
私も「こういう幕末ブログを書いてます」とご挨拶させていただきましたが、
こんな新選組マンガなので、次に流山を訪れたら斬られるコト必須(汗;)
それはともかく、これから流山の新選組史跡を回ってみようと思っている方、
北総新選組の方々に会えたらラッキーですよ。
さて、本陣跡を離れて少し行くと「浅間神社」があります。
浅間神社新選組を包囲した新政府軍の本陣が置かれた所です。
これがまた、新撰組の本陣とすぐの距離なんですね。
で、流山寺とか光明院とか隊士が分宿していた所は、新撰組本陣からけっこう
離れてるんですよね。これは、敵が攻めて来るなら水戸街道からだろうと予測し
南側に分宿先を固めたからだそうです。
ところが敵は北の粕壁(春日部)から攻めて来たので、すぐ近くに本陣を置かれて
しまったということでしょうか。
まぁ、こうして実際に歩いてみると、距離感が実際に掴めて色々とよくわかります。
ところで、新撰組はなぜ流山に来たのでしょう・・・?
これまでは、会津に向かうためのただの通過点という見方が主流でした。
でも、五平衛新田の金子家文書など読むにつけても、やはり流山に来る理由が
あったと思うんですよね。
その理由の一つと云われているのが「田中藩の陣屋」です。
田中藩は本多氏が駿河国に領地を持っていた譜代の藩ですが、大坂の陣の勲功で
流山に飛び地の領地を持っていました。その土地を管理していたのが陣屋です。
現在、その陣屋跡は流山市立図書館・博物館になっています。
田中藩陣屋跡やや小高い丘の上にあり、なるほど陣屋とするには絶好の立地。
ちなみに陣屋跡を示すモノは何もナシっす。
田中藩が新政府側に寝返ったため、この陣屋を奪取するために新選組は流山に
入ったのだとする説があるんですね。
当時隊士だった田村銀之助が、大正9年に「史談会速記録」の中で「此陣屋を
乗り取る計画」だったと語った証言もあります。
ただ、他の新選組隊士からの話や記録がないのと、田村が当時16歳の少年隊士
だったことから記憶違いではなかったか、などの異論もあって真実は不明です。
まぁ、このように流山での新選組は滞在時間もわずかだし、残された記録も少ない
ためにナゾだらけの場所なんです。
でも、この地で近藤勇が逮捕され、そのまま帰らなかったわけですから、新撰組に
とっては非常に大きな意味を持った場所でもあります。
恩田家文書が平成15年に出てきたように、今後また新たな記録が見つかるかも
しれません。歴史ファンとしては、それを楽しみにしましょう。
流鉄流山駅流山には他にも「一茶双樹記念館」とか講談の天保六花撰の金子市之丞の墓がある
「閻魔堂」(なぜか三千歳の墓まであり!)とかの見どころもたくさんあって楽しい
散策でしたが、ココでは幕末や新選組に関係のある所だけご紹介しました。
歴史ファンなら、そうでない方もゴレンジャーな流鉄に乗って、流山途中下車の旅は
いかがでしょうか。
ガイドのHさん、ありがとうございました。

日本の軍服史上最も奇異なのが、この毛頭ですね。
江戸城にあったヤクの毛を分捕って作ったんだとか・・・。
黒色を黒熊(こぐま)といい薩摩、白色を白熊(はぐま)といい長州、
赤色は赤熊(しゃぐま)といい土佐が使用したといいます。
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