新選組漫画 150  豪徳寺で招き猫

IMG_1172a.jpg
20151211.jpg


先日、日大商学部校友会のご依頼により、世田谷区豪徳寺周辺のガイドをして
まいりました。
豪徳寺は招き猫発祥の地の一つと云われています。
・・・で、この漫画。
両手を挙げた猫は「お手上げ」・・・てことで、あまり良くないらしいですね。

さて、今回はそのガイドツアーで廻りましたコースをご案内いたします。
日大商学部は小田急小田原線祖師ヶ谷大蔵駅が最寄りとのことで、ほぼ地元の
豪徳寺駅、さらに世田谷線沿線の史跡をガイドして欲しいとのご要望でした。

IMG_1256a.jpg

小田急線豪徳寺駅に集合。
商学部OBの方々を中心に、現役の学生さん方も数名ご参加いただきました。
参加者は30名ほどでしたので2班に分け、ワタクシと江戸検一級で同期合格の
A山さんの二人でガイドをさせていただきました。
ちなみに冒頭の写真の招き猫は、豪徳寺駅前に鎮座してございマス。

先ず向かったのは、コチラ。

DSCF0473a.jpg

世田谷八幡宮。宮坂八幡宮ともいいます。
社伝によれば寛治5年(1091)後三年の役で勝利した源義家が戦勝を祝して、この
地に勧請したということなのですが・・・。
確実なトコロは、中世に世田谷を治めていた吉良氏吉良頼康が天文15年(1546)
に社殿を創建したのが確実な話。

この神社が有名なのは

DSCF0477a.jpg

こちらの土俵。
世田谷八幡宮は、渋谷の氷川神社、品川の大井鹿島神社と並んで江戸時代には
三大奉納相撲の一つと云われています。
ここでは現在も東京農大相撲部により、その伝統が引き継がれています。

次に向かいましたのが、豪徳寺
DSCF0480a.jpg

豊臣秀吉に後北条氏が滅ぼされると、後北条氏の傘下にいた吉良氏は世田谷を離れ
ます。江戸時代に入ると、世田谷20ヶ村は井伊家の領地になります。
その井伊家の江戸における菩提寺が豪徳寺です。

冒頭にも書きましたが、ここは招き猫発祥の地。

IMG_1259a.jpg

こんなにたくさんの猫'S。奉納招き猫です。
これが全部ホンモノ猫さんだったら、ある意味天国。

IMG_1257a.jpg

みなさん、写真撮りまくり。

井伊家2代藩主の井伊直孝がたまたまこの寺の前を通りかかると、住職の飼っていた
猫ちゃんが門の傍らに座って右手で「おいでおいで」と手招きしています。
「どちたの~、猫たん~」
直孝がその猫に近づき寺内に入ると、一天にわかにかき曇り激しい雷雨になりました。
そして門前の杉の木に落雷し、直孝主従は危うく難を逃れることができたと云います。
直孝はこの猫が観音さまの化身だと信じ、以来手厚く寺を保護することにしました。
・・・これが豪徳寺招き猫伝説です。
ちなみにそれまで「弘徳院」と言っていた寺の名は、直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」
から2字を取って「豪徳寺」になりました。
黄檗様式の仏殿、仏像などを寄進し、寺を再興させたのは直孝の長女・亀姫(掃雲院)です。

豪徳寺は江戸における井伊家の菩提寺。
江戸で亡くなった藩主や、正室、嫡子らのお墓があります。
井伊家当主で江戸で亡くなった、といえば有名なのがこちら。

DSCF0493a.jpg

13代藩主、井伊直弼ですね。そのお墓。
大老として幕末の開国政策や将軍継嗣問題に取り組みましたが、安政の大獄を引き起こし
安政7年(1860)3月3日桜田門外の変で暗殺されてしまいました。
ところが墓石に刻まれた命日は「万延元年閏3月28日」になっています。
これは、井伊家と幕府が直弼の死亡をしばらく(55日後)隠す必要があったから。
その間に年号も安政から万延に変わってしまいました。(改元は3月18日)
このお墓を見るポイントはそこですね。

直弼のお墓の傍には・・・

DSCF0494a.jpg

桜田殉難八士之碑
桜田門外の変で藩主を守って殉職した8人の家臣の墓。
一方、現場から生きて帰った藩士らは「藩主を守れず逃げ帰ったとは何事か!」ってことで
処罰されてしまいました。
藩主を守って死に、生きて帰っても死に、侍とは辛いものですね。

豪徳寺を離れ、次は勝光院という曹洞宗のお寺に向かいました。
ここは吉良氏一族の墓所があるお寺です。
吉良氏は江戸時代に世田谷を離れますが、「蒔田(まいた)」と苗字を変え旗本として存続
します。

DSCF0496a.jpg 吉良氏墓所

さて、吉良といえば、みなさん思い描くのは忠臣蔵の敵役・吉良上野介でしょう。
歴史の世界では混同を避けるため、忠臣蔵の吉良氏を「三河吉良」あるいは「東条吉良」
と呼び、世田谷を治めた吉良氏を「世田谷吉良」と呼びます。
この2家は親戚ではありませんが、先祖をたどると1人の人物に行きあたります。

それは鎌倉時代の武将で、源氏の血を引く足利義氏です。八幡太郎源義家から5代目に
当たります。
義氏には4人の息子がいました。
長男の泰氏が足利家を継ぎ、その5代目に誕生したのが室町幕府をつくった足利尊氏。
次男の長氏の系統が三河吉良。吉良上野介の家系です。
三男の有氏はその子国氏のときに今川を名乗ります。織田信長に桶狭間で敗れた今川
義元はここの直系です。
そして四男の義継から出たのが世田谷吉良になります。
こうして見ると、武家としては名門中の名門ですね。

家康は名家を保護したことでは有名ですが、「吉良」の苗字は原則一家と定めたため、
世田谷吉良氏は「蒔田」を名乗ることになるのですが、赤穂事件で三河吉良が改易と
なったため、後に「吉良」に戻しています。

次に向かったのは

DSCF0499a.jpg

世田谷代官屋敷です。
ガイド当日は実にいい天気だったのですが、ブログに張り付けた写真は以前雨の日に
行って撮った写真です。不明瞭でスミマセン・・・。
この代官屋敷の前の道路は、12月・1月にボロ市が開かれます。
すごい人出になるそうですね。

江戸時代、世田谷は井伊家の江戸での賄い領として幕府から与えられました。
この地を管理していたのが、代官の大場氏です。
大場氏は、石橋山の戦いで源頼朝を破った大庭景親を先祖にするといい、室町時代は
世田谷吉良氏の側近でした。後北条氏が滅亡し、一時帰農していたようですが、井伊家が
世田谷を拝領するにあたり代官としてスカウトされたようです。以降、幕末まで世襲で代官
職を継ぎました。

DSCF0505a.jpg

表門は宝暦3年(1753)、屋敷は元文2年(1737)に建てられたものだそうです。
大名領の代官屋敷としては都内で唯一残る建物で、国の重要文化財に指定されて
います。
以前、本田覚庵邸クリック!)をご紹介させていただきました。アチラが享保年間
の建築ですからやや古いわけですが、屋根はトタン屋根になっておりました。

ところがコチラの代官屋敷は表門、屋敷ともにきれいに茅(藁?)が葺かれています。
おそらく両方で金額にすれば1億円はかかっているのではないでしょうか!
拝観料も取っていませんし・・・世田谷区はやっぱ、お金があるなぁッ!

DSCF0504a.jpg

「お白洲」は畳2.5~3畳ほどのスペース。
場所は元の所から移動してるみたいですが、敷いてある石は当時のままだそうです。
白くて細かい石ではなく、河原にあるような灰色の丸っこい石でした。

代官屋敷を出て世田谷線の線路を渡り、豪徳寺に引き返すように歩いていくと、

DSCF0509a.jpg
DSCF0506a.jpg

世田谷城址公園にたどり着きます。
かつて、世田谷吉良氏の居城だった場所です。
堀や土塁の跡が残ります。
公園前の案内板にある地図を拡大してみましょう。

DSCF0506b.jpg

前半にご紹介した豪徳寺(その頃は弘徳院)も、世田谷城に含まれていたことがわかり
ます。おそらく最初は城内に建てられた庵のような寺だったのではないでしょうか。
また、世田谷八幡宮も出城の役割を担っていたようです。

今回のガイドツアーも、いよいよ最後の史跡ポイント。
13:00豪徳寺駅前をスタートしましたが、16:00を回ろうかとしています。暗くなる前に
先を急ぎましょう・・・!
国士館大学、世田谷区役所を通り過ぎて向かうのは

DSCF0515a.jpg

松陰神社
幕末の長州藩の思想的リーダー、吉田松陰を祀る神社です。
安政の大獄で死罪となった松陰は、千住の小塚っ原に葬られますが、高杉晋作らの
手によって当時毛利家の抱え屋敷地だった若林に改葬されます。それがココ。
元々は何にもない田畑地だったようですが、長州の地所ということで埋められたのでしょう。
蛤御門の変の後、幕府にこの地は接収され松陰の墓も破壊されますが、維新後に木戸孝允
が再建しました。

世田谷の面白いトコロは、幕末の二極、幕閣の中心・井伊家と反幕府の中心・毛利家が
共に領地を持っていたことであり、そのため両藩の中心的人物であり、時代の波の中で
非業の死を遂げた井伊直弼・吉田松陰二人の墓が隣り合わせで存在しているということ
でしょう。

DSCF0527a.jpg

こちら、真ん中が吉田松陰の墓。
右は安政の大獄で獄死した小林良典、さらに右は同じく死罪になった頼三樹三郎の墓です。

DSCF0518a.jpg
DSCF0522a.jpg

境内には松下村塾のレプリカが建てられています。
ワタクシ、萩のホンモノも見ましたが、なにせ高校の修学旅行のときですから記憶が曖昧・・・。
こんなだったっけ?
当時ずいぶん小さいな、という感想を持ったような気がします。

貼ってあるポスターは当然「花燃ゆ」。
しかし、ワタクシがこの日参加された方々に「花燃ゆ、見てらっしゃいますかー?」と聞いた
ところ、挙手は0(ゼロ)。歴史歩きガイドの参加者の方々なのに・・・。
何だったんだ「花燃ゆ」、明日最終回・・・。

その後、東急世田谷線の松陰神社前駅まで移動してそこで解散となりました。
予定時間を30分ほどオーバーしてしまいましたが、無事終了。
日大商学部校友会のみなさん、お疲れさまでした。
幹事のS谷さん、T橋さん、お世話になりました。ありがとうございました。
また、今回はワタクシが世田谷に不案内なところ、豪徳寺出身でいろいろと教えてくれた
江戸検一級同期生のA山さんに、大いに感謝いたします。

年内の歴史ガイド、たぶんこれで終了でございます。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
にほんブログ村


にほんブログ村 漫画ブログへ
にほんブログ村


人気ブログランキングへ

スポンサーサイト

トラックバック一覧

コメント一覧

#1344 桜田門外の井伊家勇士
世田谷の豪徳寺は、いつか行こう行こうと思いながら、時間が過ぎてしまい、有名な招き猫群もこのブログの写真で初めてお会いすることになりました。

三年ほど昔、近所・隣町のお年寄りの方に色々お話を伺っていた時に「自分の先祖は井伊様を桜田門外で守る役で、今は豪徳寺に眠っている」という方の話を聞きました。先祖は「越石」と言い、「それは情けないほど小さな墓石」に葬られてると歎いていましたが、結局私はその場で、適当に相槌を打ちながら現地に赴かず今日に至ってます。彼らが実は切腹させられたということは、今初めて知りました。あのお年寄りもその点は触れられなかったのですね。
今回ブログを拝見して、是非一度行ってみようという気持ちになりました。できれば越石さんの墓に線香を手向けてきます。
#1345 懐かしく思い出しました
 この地域は大好きで、よく通いました。それぞれの場面に思い出が重なり、楽しませて頂きました。
#1346 甚左衛門さま
桜田殉難八士の名前は資料によれば、日下部三郎右衛門・河西忠左衛門・沢村軍六・小河原秀之丞・越石源次郎・永田太郎兵衛・加田九郎太・岩崎徳之進となっています。
甚左衛門さんの会われたお年寄りのご先祖が「越石」という名前なら、越石源次郎の可能性が高いですね。だとすると、井伊直弼を守ろうとして討死した八士の一人ということになります。
八士の顕彰碑は明治19年に建立されたとのことですが、なかなか立派なものです。
#1347 野火止用水さま
ちょうどガイドの当日は豪徳寺の紅葉がきれいで、大勢の人が来ていました。紅葉を見ながらの歴史散策は、なんとも贅沢な気分でした。
#1348 伝説の白ネコ
豪徳寺の招き猫納め所は近頃、外国人観光客も大勢訪れるそうですね。
招き猫伝説のネコは、ひこにゃんのモデルでもあります。
そのご縁で、ひこにゃんもかつて豪徳寺を参詣、ご住職と親しく面談しました。
伝説のネコは気圧の急な変化を感じ顔を洗っていただけで、
それを招かれたと思い込む直孝公は相当なネコ好きだった、と推測します(笑)
直弼公墳墓との関連を言うなら、遠城謙道もまた主君に殉じたひとりと言えるでしょう。
子母澤寛が「謙道老師年譜」を著わしています。

大場代官の屋敷には、遠城謙道も訪れることがあったようですね。

松陰神社、毎年10月末には地元商店会により幕末維新祭りが開催されます。
昨年の祭りでは、「花燃ゆ」にちなみ伊勢谷友介がお墓参りに来ていました。
会津の物産展も出店しますし、幕末好きな方にはオススメです。
#1349 東屋梢風さま
招き猫発祥の地伝承は、他にもいろいろあるようですので、ココが本当かどうかはわかりませんけどね。豪徳寺の周辺には、招き猫グッズが売っていそうで実はあまりないのです。
遠城謙道は元彦根藩の足軽で、隠居後僧になって井伊家の墓守りを続けた人ですね。マニアックなのでガイドはしませんでしたが、無縫塔のなかなか立派なお墓ですね。

松陰神社には明治41年に松陰ゆかりの人々が寄進した石灯籠がズラッと並んでいますが、その中に乃木希典が寄進したものもあります。松陰と乃木大将の関係を話すと、たいていの方が「へぇー」ボタンを押してくれます^^
#1350 No title
今晩は。ご訪問ありがとうございます。歴史は好きですが、幕末はあまり詳しくありません。楽しそうなブログのと思うので、勉強したいと思います。
#1351 さんいーさま
ありがとうございます。
なるべくわかりやすく書こうと思っていますので、また遊びにいらしてください^^
よろしくお願いいたします。
#1474 >>#1344 桜田門外の井伊家勇士
>>#1344 桜田門外の井伊家勇士の甚左衛門さんの書き込みをたまたま見つけて少しおやっ?と思ったことがあったので今回コメントを投稿させていただきました
実は私は甚左衛門の先祖だとされている方の直系の子孫に当たります。苗字もそのままです。
甚左衛門さんの書き込みで?と思ったのは世田谷の豪徳寺「それは情けないほど小さな墓石」に葬られてるという一文です
先祖の墓は彦根の龍潭寺という井伊家ゆかりの立派なお寺にあり、立派とはいえないかもしれませんが決して情けない墓石ではありません
私たち子孫は毎年墓参りをしています。
豪徳寺の件はよくわかりませんが家系で代々参っているお墓ということであれば彦根にありますので訂正のコメントをさせていただきました。


#1475 No title
上記の私のコメントに関してお詫びいたします。生半可な知識で失礼なことを書きこみました。御子孫の方には、本当に申し訳ありません。
ブログ主様にもご迷惑おかけしたこと、心よりお詫びいたします。
#1476 >>甚左衛門さん
いえいえ、表現上誤解をさせてしまうような書き込みをしてしまいましたが、そういうわけではありませんのであしからず・・・
私も先祖について十分な知識があるわけではなく豪徳寺の件は初耳でしたからもしかしたら私の誤認なのかもしれません。
代々参拝している龍潭寺には越石家の墓石が13ほどあるのですがその中に満敬と刻まれた墓石があるので私はこれが桜田門で大老をお守りしたご先祖様だと思っていたしだいですのでどうか気を悪くなさらないでください


#1477 こっしーさま 甚左衛門さま
ブログ主のコメントが遅れてスミマセンでした。

ワタクシの説明不足もありましたが、豪徳寺にある桜田受難八士の碑は明治19年に建てられております。
つまり、江戸時代に作られたお墓ではなくて、後世に建てられた慰霊碑ということになります。
お墓に関しては、ワタクシは知らなかったのですが、こっしーさんの言われる通りなのかと思います。源次郎の諱も満敬です。

甚左衛門さんと話された「越石の子孫」と名乗られた方は、何か勘違いをされたのでしょうか?
あるいは、かつては慰霊碑の他に八士たちの墓石もあったのかもしれませんが、現在はそれらしいものは残っては残ってはいませんでした。

コメントの投稿

名前

タイトル

メールアドレス

URL

本文

パスワード

非公開コメント管理者にだけ表示を許可する