新選組漫画 149 新徴組の続き

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新徴組の話の続きです。ていうか、ひと月も経っちゃったよ。

京へ上った浪士組が、そのまま江戸に引き返した一隊と残留を決めた一隊に分かれた
話は前回書きました。
残留部隊(後の新選組)の中心に近藤勇率いる天然理心流試衛館道場の面々がいた
わけですが、近藤一派が全て京都に残ったのではありません。
沖田林太郎、馬場兵助、佐藤房次郎、中村太吉郎の4名も近藤の弟子でしたが、他の
浪士組の隊士らと共に江戸に帰還しています。
近藤一派はその中でもさらに2グループに分けることができます。1つは市ヶ谷の道場
に集う食客らのグループ(永倉、原田ら)。もう1つは日野宿の佐藤彦五郎道場で稽古
を重ねた門弟グループ。この中に林太郎や馬場ら4名と、井上源さんが入っていたの
でした。

林太郎ら4名が江戸に返された理由は、漫画の通り。
それほど当時の京都は危険だったということですね。

この4名がドラマや小説などで取り上げられることは先ず無いのですが(林太郎は沖田
総司の義兄なので、少し触れられることアリ)、多摩歴史の視点から見るとこの日野道場
グループが近藤と共に浪士組に参加したことが、非常に大きい意味を持ちます。
・・・が、今日の話題とはテーマが違うのでここはスルーしときます。

この江戸に帰還した4名のうち、沖田林太郎と馬場兵助はそのまま新徴組の隊士となり
庄内戦争まで戦うこととなります。

さて、その新徴組ですが、以前の「里正日誌」でご紹介したようにどうも江戸市中での
評判はよろしくなかったようです。
新徴組に関する一般書籍というのはあまりなくて、ワタクシが頼りとしている史料は
「日野市立新選組のふるさと歴史館叢書」の「第六輯 新選組・新徴組と日野」
「第十輯 新徴組」の2冊ですが、江戸での新徴組の様子を書いてある部分は2冊とも
ほぼ同じです。

当初、浪士隊を実質的に取りまとめていたのは清河八郎ですが、彼は反幕府側の人間
です。そのせいか、江戸に帰ってから両国札差など身元宜しき商家に行っては強談に
及んで多額の金・米・味噌などを上納させるという迷惑な行動に出ています。
また、浪士組を名乗る男が吉原などの遊郭で好き勝手な振る舞いをして、捕縛されると
いう事件も起きています。
ただ、この遊郭での騒ぎは浪士組を騙った男の犯行だったようで、浪士組の評判を落とす
ための幕府側の策略だったようでもあります。

幕府は清河を暗殺し、その勢力下から浪士組を切り離すことに成功しました。
そして「新徴組」の隊名が与えられたのですが、「里正日誌」で取り上げられていた悪い
評判はこの頃のことのようです。

確かに文久3年(1863)7月6日に、小日向水道町の上水端土蔵に「世上ではいつの間に
か盗人を集め、新徴組と唱えている」と書いた張訴がされることもありました。
しかしながら一方では、6月3日江戸で火事があり、江戸城西ノ丸が炎上してしまうのですが、
ここに新徴組が駆けつけ、天璋院から「消火の働きをきっと見ようぞ!」のお言葉をもらい
焼死者を出しながらも一歩も引かず鎮火に努めた、という話もあります。

新選組は「生まれや身分は一切問わず」実力主義で隊士を募集しましたが、新徴組はさらに
輪をかけて経歴の怪しい者がゴロゴロいたようで、それが「よろしくない評判」にもつながって
いたとも考えられます。
たとえば祐天仙之助という男。彼は甲州の博奕打ちの親分でした。若い頃に桑原来助という
用心棒をしていた男を殺した過去がありましたが、悪いことはできないものです。新徴組に
大村達尾という親の仇を探している男がいたのですが、彼の親こそ桑原来助。つまり、大村
が探していた親の仇が祐天だったのです。
祐天は待ち伏せをしていた大村に斬り殺されてしまいました。
ところが、今度は祐天の用心棒をしていた内田佐太郎という男が新徴組の幹部に不服を
申立て、後日内田と大村との間で決闘が行われることになりました。
結果、内田の前に大村は斬り倒されてしまいます。

また、神崎屋重次郎という本小田原町に住む魚屋は、もと八王子千人同心の息子という出自
ではありましたが、その魚屋をしながら内証で新徴組に参加し、自宅に何人もの浪人を
止宿させていました。当時浪人を止宿させることは御法度であり、魚屋を隠れ蓑に浪人を泊め
ていた重次郎は捕縛されました。

このように怪しい隊士もいましたが、新徴組の任務は江戸の治安維持であり、そのためであれ
ば抵抗する者は斬り捨てることも許可されました。
庄内藩酒井家に召し抱えられてからは、厳しくまとめられ任務を遂行したようです。
当時の流行り歌に
「酒井左衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡 酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさん
には泣く子も黙る」

というのがあったそうです。
この「御回りさん」が江戸市中を巡回した新徴組のこと。
今日の警察官を指す「お巡りさん」の語源になっています。

新徴組は兄弟分の新選組や、後に江戸に誕生する彰義隊に比べるとかなり知名度で差を
つけられています。
しかし、意外に身近かなところにその痕跡を残しているのですね。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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#1334 早合点て…
祐天仙之助が大村達尾・藤林鬼一郎に仇討ちと称して殺害された事件は
子母澤寛『新選組始末記』にも書かれており有名ですが、疑問の多い話です。
そもそも桑原来助を殺害したのは祐天ではない可能性が高そう。
北町奉行所の調査で「早合点による仇討ち」と結論されているのは
イッセーさんもご存じのとおりです。
新徴組公認で内田と大村の決闘が行われた、というのも事実なのでしょうか。
詳しくは甚左衛門さんが説明してくださるかと期待します。

まあ、博徒侠客が新徴組に加盟すること自体に問題があるとは言えます。
ただ、祐天は目明しを務めてもいましたし、腕の立つ者を短期間で集めるとなると
こういう人物が関与するのも、当時は不自然なことではなかったように思えます。
#1335 祐天親分
子母澤先生が祐天の話の元にしたものは『藤岡屋日記』ですね。以来今日まで千住の敵討ち(祐天の死)と言えば『藤岡屋』の記事が全てと思われてきています。日野の新徴組展でもそうでした。
ところが、同時代を生きた小寺玉晁という人に、『東西日記』という著書があるのですが、この中(第7号)に実は祐天殺害時に江戸に回覧された様々な文書の写しが収録されているのです。(これは『藤岡屋』ほど知られていません。)雑多になるので、二点だけあげますが、検死報告では「仙之助は豪勇故両人(大村・藤林)之手際に覚束無く、初め斬りかけ候上、名乗り合候」と尋常の勝負と言うよりは不意打ちであったことが記されています。
また、「祐天殺害の夜に、実は大村・藤林の他に正体不明の四名が一緒にいて、この6人で斬りかかったのが真相なのでは?」という話も、当時報告されていたことがわかります。いずれも決め手には欠けるものですが、この『東西紀聞』一読の価値はあります。

ちなみに菱山佐太郎こと、内田佐太郎の後の敵討ちは、これらの史料に載っていません。聞き書きをした当の子母澤先生さえ、自分で否定しているくらいだから、まず、これは嘘なんじゃないでしょうか。
#1337 甚左衛門さま 東屋梢風さま
東屋さんの仰るとおり、早速甚左衛門さんが詳しいコメントをしてくださいました!

「東西日記」は初めて知りました。なかなか同時代について詳しそうな本ですね。興味が惹かれますが、その記述のとおりだと大村はかなりズルい形で仇討ちをしたことになりますねぇ。
それと、ワタクシも「仇討ちの仇討ち」をよく許可したものだと思っていたので、これがフィクションであるなら納得です。

東屋さんの言われるように、侠客でも腕の立つ者なら採用するというのは幕末という時代を物語っているように感じますが、彼らが当時の社会の中でどういうポジションにいたのか、まだハッキリつかめていない自分がいます。
どうしても時代劇等の先入観で見てしまいがちですが、単なるアウトローという扱いではなかったと、史料を読んだり甚左衛門さんの話を聞くうちに考えるようになっています。

こういった人々の研究が進むと、幕末史の見えなかった部分がもっと見えてくるのでしょうね。。。

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