さぁ、今回は多摩を離れて、ちょっと街歩き。
秋のスペシャルと銘打って、幕末歴史散策の小旅行に出かけました。
気分はちぃちぃ。
歩いた場所は、このブログでもおなじみ新選組所縁の場所、千葉県
「流山」です。
江戸文化歴史検定1級二期会の方々と一緒に、同会の地元在住H氏のガイドで
史跡を回ってまいりました。
新選組は慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いの敗戦後、江戸に帰還。
甲陽鎮撫隊と名前を変えて山梨方面に出陣しますが、新政府軍に勝沼で敗れて
江戸に敗走します。
徳川慶喜は恭順の姿勢を取りますが、薩長を中心とした新政府に納得できない
幕臣・旧幕府方はまだまだたくさんいたんですね。
新選組もそんな幕軍の一部隊として、再起を図るべくまたもや行動を起こします
・・・とまぁ、当時のストーリーはそんな流れ。
では、歴史散策のはじまり、はじまり~・アントワネット。
常磐線で日暮里から松戸方面に向かいますが、綾瀬駅で途中下車。
「おやおやイッセーさん、ココで降りちゃうんですか?」(by 滝口順平)
足立区の綾瀬駅付近はかつて
五兵衛新田と呼ばれた地域でした。
慶応4年3月13日の夜、突然48人の武装集団がこの地に乗り込んできます。
これが新選組でした。隊長は大久保大和と名乗っていますが、近藤勇の変名です。
新選組が滞在した金子家 五兵衛新田は寛永年間(1624~44)に金子五兵衛が開いた新田で、幕末当時は
10代目の健十郎が当主で、名主見習いの地位にありました。
新選組にここを紹介したのは、医学所頭取であった松本良順だったといいます。
新選組は滞在する間に新隊士を募集し、最終的に227人にまで増えました。
モチロン、金子家だけでは収容しきれないワケで・・・
稲荷山蓮華院観音寺近くの観音寺だとか、滝次郎家(金子家分家)などに隊士は分宿していました。
大久保(近藤)はこの地に長く逗留するのではなく、隊士の補充など準備ができ次第
江戸川を早く渡りたかったようなんですね。ところが、幕府陸軍奉行並の松平太郎から
「ちょっと待って、プレイバック・プレイバック」
と、山口百恵バリの待ったを掛けられ、15日以上の滞在を余儀なくされていたのです。
しかし、そうこうしているうちに、新政府軍の先鋒隊が千住宿まで来たという情報が
飛び込んできました!千住ったら、綾瀬とは目と鼻の先ですよ。
新選組は荷物をまとめ約半月の滞在を終え、4月1日いよいよ流山に向けて出発
するのでした。
松平太郎さんは当時、勝海舟の下で幕府陸軍の終戦処理をしていた人です。
金子家には、佐々井半十郎というこの辺りの代官を通して、近藤さんが太郎さんの指示を
受けていた様子を示す書簡が残されています。
新選組がこの人の許可の下で行動してたってことは、ただ単に敗走していたわけではなく、
明らかに目的を持って行動していたということでしょうね。
さぁ、我々も綾瀬を出て流山に向かいます。
おっと、その前に駅前のデニーズでランチ・タイム(←イラナイ情報)
常磐線の馬橋駅で流鉄流山線に乗り換えです。

我々が乗ったのはご覧の赤い電車ですが、他にも青いのや黄色いのなど
5色くらいの色分けされた電車が走ってます。
戦隊ヒーローを意識してるのでしょうか?
合体して巨大ロボに変身するというのでしょうか!?

近藤さんは甲陽鎮撫隊として甲府に向かう際、大久保剛と
名乗っています。
次回、流山リポートです!
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なんと楽しそうなツアーですね(´▽`)
皆さんの今回のツアー、新撰組が北に向かう中途の道程なのですね。
その顛末、例の幕末恋愛ゲーム『艶が~る』で知りましたよ(≧▽≦)ゲームも侮れないっすね。
そしていま、篤姫を観ておるところです(ノ∀`)今頃!
新選組がなぜ流山に向かったのかについては、諸説あります。
その幕末恋愛ゲーム(すげぇな・・・!)では、どう
語られているのか気になります(笑)
今、やってるドラマの「ゴーイングマイホーム」を見て、
ますます「宮崎あおいはイイ」と思う私です。
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