武州多摩郡下里村(東久留米市)の小前百姓たちが、村役人たちに不正があると
して、百姓代と共に代官所に訴えました。
そこで、蔵敷村の杢左衛門さんと上新井村の市右衛門さんが
扱人となり、
両者の言い分を聞いて仲裁に入ることになりました。
「前々から取り決めた村入用より最近は多分の村入用を割り掛け、御年貢の取立て
も疑わしい。右のことはこれまで数年間会計のとき、百姓代たちを一切立ち会わせ
ていないので、詳細な取り調べは行き届けかねている。」と、これが小前、百姓代たちの言い分です。
小前らは、村役人たちをどう見ているのでしょうか。
「名主の安左衛門は若年で、他の組頭たちはすべて四郎左衛門一人に任せきりで
ある。それ故、自然と他の役人たちも監督することが不正に繋がり、一同捨て置き
難いのです。」史料からは実年齢がわかりませんが、名主の安左衛門さんは経験が浅いようですね。
で、ベテラン組頭(年寄)の四郎左衛門が村の運営を独裁的に行っていて、他の組頭
もそれに従っていると。
前回ご紹介した史料の中で、小前たちは四郎左衛門の引退を要求していますが、
こういうコトだったのですね。
しかし、村役人たちにも言い分はあるようです。
「訴え出た方の申立てには違っていることがある。それは、名主の安左衛門は年齢が
若いので、全てのことを話し合いで取り計らっているのだが、それぞれ証拠となる帳面
もある。
それぞれ返答書で申し立てている通り、いささかも不正の取り計らいに及んだという
ことはない。」両者の言い分を聞いた上で、扱人たちは吟味に移ることになります。
片方だけを偏重して取り上げては、高須クリニックがスポンサーを降りてしまいますから

それはともかく、一番の問題点となるのは、年寄の四郎左衛門のことでしょう。
彼が村の運営を独裁していた事実があったのでしょうか。
「かねて議定の通り、年寄四郎左衛門が役目として取り扱っていた10ヶ年分の御年貢
取立・村用諸帳面、その他地方に関係する帳面類など、訴えの返答となる清算を立ち
あって取り調べた。
すると、御年貢ならびに諸費用合わせて金26両2朱と銭580文の、四郎左衛門が取り
立て過ぎた分を、扱人が取り計らって金25両を小前方へ割り戻すので受け取らせ、
村方において一旦話し合いを取り決めた。
四郎左衛門は近年不如意であり、かつ病身なので、今回の一件が落着した上で退役
を願い出たいと歎いているので、右の金25両のことは訴訟方に勘弁してもらい、受け
取りはしないはず。」どうも、四郎左衛門は年貢や諸費用を多めに取っていたようです。
「また、四郎左衛門持高・小前持高の反別などの境界の有無は、追って農業の手が空い
たときに村役人・百姓代・小前の者たちで立ち合い、地所を改めると申すべきはず。
貯穀が10俵減石していたことは、代金2両2分を四郎左衛門より出金し、名主の安左衛
門が預り、新穀ができ次第元高に詰め戻して御検分を願う。
四郎左衛門の屋敷にある穀櫃は、追って村方で評議の上場所を見直して訴え申し上げる。」四郎左衛門にはやはり問題が色々とあったようで、引退のレールが敷かれたようです。
しかし、不正があった分は弁済することとして、示談の方向に持って行ったようですね。
では、それ以外の案件についてはどうだったのでしょうか。
「大沼田新田の傳兵衛水車の残水堀のことは、村方のためにならないことであるから、帰村
してすぐ四郎左衛門方でいちいち掘り立てる。掘り筋へ掛かって渡した敷石を取り崩し、元の
場所へ敷き直し申すべきはず。
献金ご褒美のことはそれぞれ割り渡すべきところだが、そのまま預っておいてくれと申す者
がいたので、包みのまま預りおいた。このことはお咎めを受け恐れ入るが、訴訟方からも
御宥免の願いが出ているので、いささかも不正が無かったことがわかった。
日光御門主様が御寄府のとき、岩渕・川口の両宿へ勤めた御伝馬の買い上げ賃銭。並びに
和宮様御下向のとき、中山道浦和宿へ勤めた加助郷の入用、共に諸帳面を取り調べて
事が済んだので、そのまま差し置いた。
組頭の吉左衛門・同半左衛門が取り扱った御年貢なども取り調べ見たところ、一切過不足
なかった。」ということで、多少の行き違いはあったものの、特に不正というものはなかったとしています。
そして、扱人のこの取り調べに訴訟方の小前たちも納得しているようです。
「この度より、村方の改革としっかり相定めて、すべて享和のときの取り決めの通りと改めて
申すべきはず。右の通りそれぞれの事情が相分かったので、これからは取り締まらずという
ことが無いように、御年貢勘定のことはもちろん、臨時村入用勘定のときなども、百姓代並び
に重立った百姓が立ち合って勘定いたすべきはずで、双方申し分の無いよう熟談して内済
すること。」以上の報告書が代官所に提出されたのが文久2年6月24日。
訴えが出て、扱人が仲裁に入ることになったのが同年5月13日でしたから、およそ1ヶ月
での解決でした。
この史料から察するに、下里村では名主の安左衛門が若年だったため、ベテラン組頭の
四郎左衛門が年寄という立場を利用して、村の運営を私物化していた部分があったよう
ですね。
組頭は農間渡世をして経済力を持つ家が多かったので、年寄ともなると村内でかなりの
力を持っていたことが想像されます。
しかし、扱人が間に入って1ヶ月で解決したというのは、かなり早い裁定だと思います。
これは、安左衛門をはじめとした他の村役人たちも、四郎左衛門に早く引退してもらいたい
という思いがあって、扱人の仲裁に協力的な働きをしたからではないでしょうか?
穿った見方をすれば、村役人と百姓代が手を組んで、杢左衛門さんらに協力を仰ぎ、四郎
左衛門の引退を計画した、とも考えられます。
まぁ、真相はわかりません。
シロートはこうして古文書の裏をいろいろ推理するのが楽しいのです。
しかし、幕末も佳境に入り、村の問題に他組合他村の名主らが解決に当たるというネット
ワークが出てきている状況は、もっと注目されてもいいと思います。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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ご指摘のとおり、四郎左衛門に禅譲を迫るため、皆が動いたとも考えられますね。
周囲が「あなたはお役目が長いし、そろそろ次に譲っても」と勧めても、
本人は「いや、安左衛門がまだ頼りないから私の力が必要!」とか言い張るので、
小前百姓らの訴えという形を取った、とか。
四郎左衛門としては、私腹を肥やそうとして不正を働いたというより、
いちいち説明するのは面倒だから独断で処理した、
慣習としてやってきたことだから問題ないと思った、くらいの認識かも。
でも、正常化のためには、同じ人が長くその地位に居座るべきではないってことでしょう。
現代にもありがちな出来事と感じました。
いくら仲裁を求めたからといっても、扱人の裁定があまりにすんなりといっているので、なんとなくそんなレールが敷かれているような気もしますよね。
ご指摘のように、四郎左衛門は私腹を肥やすというより、慣習だからやっていた、という所でしょう。前回の史料にあったとおり、四郎左衛門が引退したあとは倅に跡を継がせろと百姓代も言っていますので、要は世代交代を推し進めたいということではないでしょうか。
この辺りの感覚を想像すると、時代の流れが相当変わってきているので、その流れに置いていかれてはいけないという村民の意識があったのかもしれません。
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