安政5年(1858)最大のニュースといえば
日米修好通商条約の締結になるで
しょうが、そのおよそ1ヶ月後大きな出来事がまたしても起こります。
「親分、てぇへんだ、てぇへんだ、てぇへんだッ!!」
「なんじゃぃ、WBCの監督に坂東英二でも選ばれたか?」
「ぅわあぁ~、それはそれでてぇへんだぁ・・・で、でも違うっす。」
十三代将軍・徳川家定が亡くなったのです。7月6日、35歳でした。
しかし、その死は1ヶ月の間世間には知らされず、公表されたのは8月8日に
なってからでした。
「里正日誌」によれば、8月9日の箇所に
「公方様の健康が優れなかったが、昨日の昼にお亡くなりになった。そのことで
今日から諸々の事は穏便に心得るようにして、普請や鳴り物はやめるようにとの
仰せである。その旨を心得て百姓の末端まで洩らすことのないようにすること。」とあります。
老中・阿部さんが亡くなったときも鳴り物禁止でしたけど、建築現場に関してはその
限りではありませんでした。けど、やはり将軍の喪ともなりますとトンカチやノコギリの
音もNGだったようですね。
で、この鳴り物禁止がいつまで続いたのかっていうと、
「公方様がお亡くなり遊ばされたことにつき、普請現場や鳴り物を停止するように
通達していたことであるが、今日から普請に関してはお許しが出されたので、その
ことにつき心得るように。」との内容で、8月28日に役所から廻状が出されています。
約1ヶ月間というところでしょうか。
家定には子供がいなかったので、御三家の一つ紀伊徳川家から慶福(よしとみ)が
養子に迎えられ、名前を家茂(いえもち)と改めて十四代将軍となりました。
・・・おっと!
「てぇへん」なのは、そのことだけじゃなかったんス!
安政5年の夏、日本各地で政治や外交とはまた異なった恐怖が人々を震え上がらせて
いたのです。
もちろん、東大和市域の村々も例外ではありませんでした。
暴瀉病(ぼうしゃびょう)・・・コレラです。コレラは元々、インドのガンジス河流域に広がっていた風土病だったんですが、ヨーロッパ
諸国のアジア植民地化侵出と同時に世界に広がっていきました。
日本デビューは文政5年(1822)。長崎の出島からと、朝鮮半島から対馬を経由して
入ってきましたが、患者はほぼ西日本だけで収まりました。
今回は米軍艦ミシシッピーの水夫が長崎で発病したのが始まりでしたが、被害が一気に
東日本へと拡大していきました。36年の間に人の流れがそれほど頻繁になったという
ことでしょうね。
暴瀉病とは「激しく吐く病」という意味で、当時の記録などにはそう書かれているものが
多いですが、小説やドラマでは「コロリ」の呼び名がメジャーですね。
当時はもちろん決定的な治療法などなかったと思うんですが、それでも長崎あたりには
多少なりとも効果のある治療法が伝わっていたようです。
さて、「里正日誌」にももちろんこの暴瀉病(コレラ)についての記事があります。
そして、なんとそこには治療法なるものが書かれてるんですナ。
わぁ~、ナニが書かれてるんだろう・・・ドキがムネムネ!
「覚
この頃流行の暴瀉病の患者の治療法が色々とあるようであるが、その中でも素人が
心得るべき方法を示す。
予めこの病気を防ぐには全て体を冷やすことなく、腹には木綿を巻き、大酒や大食いを
慎み、その他消化の悪い食べ物を一切食べないこと。
もしも症状が出てしまったら早く寝床に入って飲食を慎み、全身を温め、左に記す
芳香散という薬を用いなさい。これを飲んで治った者は少なくない。また、嘔吐が激しく
全身が冷えるほどになった者は、焼酎1~2合の中に龍脳または樟脳1~2匁を入れて
温め、木綿の切れ端にひたし腹から手足へ静かにすり込み、芥子泥を心臓下腹から
手足へ小半時くらいまで一度に張ること。
芳香散
上品 桂枝 細末
益智 細末 等分
乾姜 細末
右を調合して1~2分けて時々用いるべし。
芥子泥
からし粉 等分
饂飩粉
右を熱い酢でかたく練り、木綿切りに伸ばすこと。但し、間に合わない時は熱い湯で
芥子粉だけを練るのもよい。
又法
熱い茶に3分の1の焼酎を足し、砂糖を少し加えて用いること。但し座敷を閉めて、
木綿の布等に焼酎をつけて頻繁に全身をこすること。
但し手足の先、並びに腹の冷える所を温めた鉄又は石を布に包んで、湯につかる
ような心地になるくらいこするのもまた良い。
右は最近流行している病気で人々が難渋しているので、その症状に拘らず早速やって
みて害のない薬法である。ざっと読んでみて、「冷やしてはいてない」「温める」「大食い禁止」など腹をこわした時
のような対処法ですね。とても頼りない治療法ですが、なんとか被害を食い止めようと
する懸命さは見てとれます。「素人が心得るべき方法」とあることから、圧倒的に医者に
掛かれない患者が多かったのでしょう。まぁ、東大和市域では医者もそれほどいないで
しょうし、長崎からの治療情報も期待できないでしょうから、医者がいてもこの程度の
治療法しか期待できなかったのではと思います。
ところで、江戸時代は、幕府開府から明治維新まで約260年間。
で、その維新から現在まではというと、まだ144年しか経ってないんです。
江戸時代なら、ようやく鬼平さんが生まれた頃の時間経過です。
その144年の間に、「芥子粉を饂飩粉で練った薬」からiPS細胞による治療まで
きちゃったんだから、「明治以前」と「明治以降」では少なくとも医療技術は驚異的な
スピードで進化してるってことですナ。

当時、勇さんはまだ宗家を継いでいなかったので、養父の
姓の嶋崎を名乗ってました。
先週は風邪で寝込んでたので更新が遅れました・・・(汗;)
皆さまも季節の変わり目にご注意ください。
スポンサーサイト
このコメントは管理人のみ閲覧できます
だとしたら、デスラーにハカマオーさん押しで。
コメントの投稿