取締出役・廣瀬鐘平が、上総国市原で桜田門外の変の逃走犯人と間違えて
加藤藤次郎という侍を捕縛しますが、これが誤認逮捕でした。
当然のことながら、廣瀬は罰を受けますが、事件現場から遠く離れた所沢に住む
道案内(目明し)の和三郎という男まで連座して処罰を受けてしまいました。
和三郎は「手鎖」の刑を言い渡されます。
逮捕に直接関わったとも思えない彼が、なぜ処罰の対象となったのか詳しくは
わかりませんが、和三郎の住む所沢を中心とする組合村では名主らが嘆願書を
提出して、罪を許してくれるよう訴えます。
そして判決から約2年後の文久3年4月、次のようなお達しが出されました。
「亥(文久3年)4月御書付けの写し
所澤村 和三郎
右の者、道案内を再び勤めることを申し付けるまで、身分を慎み、入念に勤める
べきことを申し付けられるべきことである。
この書付けは追って返却すべきこと。以上。
亥4月4日 関東御取締御出役 太田源助 保土ヶ谷詰めにて無印
吉田僖平次 印
所澤村組合 大小惣代
寄場役人 中
追って和三郎へ心得方を申し渡すこともあり、5~6日中に召し連れて僖平次宅へ
罷り出るべきことである。以上。 」時間はかかりましたが、和三郎はなんとか復職できる運びとなったようです。
ところで、当ブログの読者であり、コメントでいろいろとアドバイスをいただいている
甚左衛門さんから「和三郎は元々深谷の在であり、後年は八王子で旅籠兼飯屋を
開いて、子分を抱えていた」という情報をコメントにていただきました。
「所沢村 和三郎の受難」(

クリック!)
こうなると、なぜ多摩地域の名主たちが揃って和三郎の職場復帰を願い出たのかが
なおさら気になります。
「里正日誌」の安政2年(1855)の項には、この和三郎が道案内として所沢組合の
推薦を受けて就任していたことが記されています。
「所澤組合道案内撰更の願い
恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります
武州大里郡押切村 百姓 和三郎
右の者は日頃から身持ちも良い実体であるので、所澤組合の道案内にために勤めて
もらいたく、寄場役人どもはもちろん、大小惣代並びに組合村々一同話し合ったところ、
村役人どもの中で御用を勤めるべき者は和三郎以外はいないと、取り決めました。
何とぞご廻村のときは、右の者に道案内を仰せ付けくださるよう、お願い申し上げ奉り
ます。
このことをお聞き済ましなされるのであれば、身分のことはどのようにもできるように
いたしますので、私どもが引受け、お差支えがないないようにいたすべきことです。
よって一同、連印をもって願い上げ奉ります。以上。
安政2卯年6月 」この願い書に名前を連ねているのは、武州入間郡所澤村、北永井村、三ヶ嶋村、町谷村、
上新井村、多摩郡野口村、蔵敷村の名主、組頭たち。
とても興味がもたれるのが、
「身分之義は何様之義出来いたし候共私共引請御差支不相成様可仕候、」の部分です。
和三郎は百姓ということになっていますが、この文面からは彼が必ずしも百姓を本業と
していなかったように想像できます。その身元を名主らが保証してまで、道案内に推挙
しているのですから、彼にはそれなりの能力があり、地元ではない所澤地域の名主らとも
コネクションを持っていた実力者だったのでしょう。
さらに続けて、このような記載もありました。
「別紙 その最寄りの道案内について、その仕事を勤めることにつき評議に及んだことを
承り、入念に勤めるべきことを申し渡されるべきことである。
もっとも、押切村に人別があったのでは差支えがあるので、所澤村に住居を移し、同所の
人別帳に入れた上で同所の百姓として認め早々に差し越されるべし。以上。
小野路村廻り先
渡邊園十郎
所澤組合大小惣代役人中 」関東取締出役から、所沢組合の仕事をするなら押切村に住民票があったままでは都合が
悪いので、所沢に住民票を移しなさいというアドバイスです。
和三郎は所沢村の百姓傳右衛門から借家をしていましたが、このような事情によって
住所が変わっていたことがわかります。
和三郎が元々住んでいた押切村は、幕府領と旗本領が入り組む地域だったようです。
こういう場所は捜査権が曖昧になり(そのため関東取締出役が置かれるのですが)、犯罪
者や渡世人が集まる所となります。
和三郎はこういったアウトローの世界に人脈を持った人物だったのではないでしょうか。
他の地域の人物をスカウトしてまで自らの地域の道案内を勤めさせ、それをお上も認めて
いた、というのは当時の防犯事情の参考としてとても興味深いですね。
ところが、それも数年経つと和三郎は誤認逮捕に連座する形で処分されてしまいました。
和三郎が処分を解かれる2ヶ月前、関東取締出役から以下のような廻状が村に届きます。
「当出役が廻村するときに、召し連れて歩く道案内の者どものうち風俗が宜しくなく、その他
色々な悪い行動も聞くのはもっての外のことである。今後は身分を慎んで行いも良くする
ようによくよく申し諭すべし。
この上はいかなる悪い話が聞こえた者は、厳重に沙汰に及ぶことである。
かねて取り決めておいた通り、案内人の他は召し使わないはずであり、これまで手代下使
といって御用筋に差し出した者どもは残らず止め、これより右の名目を立てて話し合い決め
ることはできなくなり、このことは今その筋よりご沙汰のあったことなのでその意を得るべし。
この廻状を寄場の元へ、請け印と刻付をして早々に順番ごとに送り、最後の村から吉田
僖平次方へ返すべきこと。以上。
亥2月2日
江川太郎左衛門代官所
武州多摩郡蔵敷村 小惣代 名主 杢左衛門 」
これを読むと、出役が道案内を使うことは問題がないようですが、その他に手代・下使と
いう下働きを使うことは違法である、とのことです。ちなみにこの場合の手代は「てがわり」
と読むそうです。
彼らの素行が悪いので、使用するのはやめろということなのでしょう。
ここで、当ブログ
「和三郎を救え!幕末ネットワーク」(

クリック!)をご覧になって下さい。
池田播磨守の下した判決で、和三郎の次に
「下使 柳蔵」と書かれています。
和三郎は加藤藤次郎事件捜査、あるいは捕縛の際に下使の柳蔵を使ったために処分の
対象となってしまったのではないでしょうか?
もっとも、和三郎以外の他所からきた道案内に下使がいたことは書かれていないので、
そうなると「じゃ、他の道案内はなんで処罰されたのよ?」という疑問も出てきちゃうワケ
なんですが・・・。
穿った見方をすれば、この判決文はあくまでも杢左衛門さんの写し書きです。さらに、
「急度叱り」を受けた者の名前を「失念」と書いてあることから、後から思い出しながら
書かれているようにも受け取れます。
すると、他の道案内にも柳蔵のような下使がいたんだけれども、それらを一々覚えていられ
なくて、自分たちに最も関係のある和三郎についてだけ柳蔵の名前を記しておいた、とは
考えられないでしょうか?
みなさまのご想像はいかに?
さて、ここまで幕末期の道案内(目明し)和三郎について、史料をご紹介したのですが、
ワタクシの感想としましては、現場の村々や捜査にあたる関東取締出役は少しでも人手が
欲しいハズなので、他所から道案内をスカウトしたり、彼らの他に手代や下使を使うこと
を黙認していたと思うんです。
ところが、管轄の違う町奉行所は幕府領や旗本領の事情をよく把握できていないために、
お定め通りにキッチリ裁いたという所ではないでしょうか。
目明しの親分も、置かれた立場は複雑だったのかもしれません。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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犯罪捜査は、裏社会に詳しい人物の協力があったほうがうまくいくとはいえ、
お上の側としては馴れ合うわけにいかず、匙加減が難しいでしょうね。
目明かし(下請け)はともかく、手代・下使(孫請け)は目が届きにくく、
お上の権威を悪用して自らの利得を図る者が出る事態は、想像がつきます。
孫請けの関与が問題視されるのも、当然のなりゆきでしょう。
また、町奉行と関東取締出役との間にも、立場や考え方の違いから
何らかの齟齬が生じた可能性はあり得ると思います。
いずれにしろ、和三郎が復帰できた様子で良かったです。
名主連にこれだけ望まれるのだから、信任を受けるに相応しい人物だったのでしょう。
和三郎の前に所沢寄場の道案内を務めていたのが「粂川の吉五郎」という男。これが札付の悪で、道案内の職権を乱用していたことが『東村山市史』の資料編に記録されています。この吉五郎、以前にも名前をだした田中屋万五郎の息のかかった道案内で、同資料には万五郎の勢力の大きさも示唆されています。正直和三郎の登用は、善にも悪にも強い万五郎という男の影響力を嫌った寄場役人の対抗策だったんじゃないか、とも私は妄想しています。
そして役人にコネの利く万五郎の策謀で和三郎は窮地に陥ったのかもしれません。完全な妄想ですが、道案内就任の利権関係を巡って派閥争いがあったことは想像できる範囲ではないかと思います。
お見舞い代わりの4ポチ。
ゆっくり治してくださいませ。
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