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和三郎を救え!幕末ネットワーク

「桜田門外の変」の犯行グループの一味と間違われ、市原の今津朝山村で捕縛
された加藤藤次郎。
そして、その捕り物一件に関わったとして、市原から遠く離れた所沢に住む和三郎
がこれまた捕らわれてしまいました。
藤次郎は桜田門の事件とは無関係であることが後にわかりますが、和三郎は
どうなったのでしょう?

翌年の文久元年3月19日、この誤認逮捕一件について、南町奉行池田播磨守の
裁定が下りました。

「中追放  神保山城守組同心  加藤藤次郎
押込   同人組同心  同人倅 加藤栄之丞
役義取上押込  関東取締出役  廣瀬鐘平
手鎖   上総国市原郡姉ヶ崎村大惣代  名主 三右衛門

手鎖  同州同郡同村道案内  逸作
手鎖  中山道板橋宿道案内  忠次郎
手鎖  武州所澤村道案内   和三郎
手鎖  同人 同居 下使    柳蔵
手鎖  野州梁田組合野田村道案内   藤次郎
手鎖  下総舟橋宿道案内   文之助  
手鎖  同国宝珠鼻村道案内  豊吉
手鎖  同国関宿町道案内   平吉

三貫文過料  上総国市原郡今津朝山村  名主 半左衛門
三貫文過料  同国同郡同村          名主 源左衛門
急度叱り   右村地主世話人    名前失念
急度叱り   同             同    」


先ず、加藤藤次郎ですが、彼は旗本の神保山城守組の同心だったようです。
職務を勝手に離れていたということなのでしょうか。中追放にされています。その子も
押込ということですから、謹慎の処罰を受けました。
誤認逮捕をしてしまった廣瀬鐘平も押込の上、役職を取り上げられてしまいました。
以前ご紹介したように盗賊・博奕打ちを捕えて活躍していた廣瀬さんですが、(関東取締役
事件控)
クリック!)ちょっとココでミスっちまいましたね。

さて、注目したいのは手鎖を言い渡されズラッとならんだ8人の男たち。
いずれも身分は道案内となっています。つまりは目明し。
この中に和三郎も入っています。
彼は逸作(一作)と同じく、目明しだったのですね。
一作らと共に廣瀬さんの誤認逮捕に協力してしまったということでしょう。

しかし驚くのは、和三郎を含めて一作以外の道案内が、全て他国から来ているという
ことです。板橋、下野(栃木)など、かなり広範囲に渡る場所から捕り物に協力して
いたようです。
彼ら個人個人がどういう関係にあったのかわかりませんが、道案内同志でこのように
広いネットワークができていたとするならば驚きです。

さて、前回ご紹介したように和三郎の赦免をお奉行様に嘆願した杢左衛門さんたちでしたが、
手鎖の裁決を受けてしまいました。
さらに和三郎が道案内の差止めを受けたことを知るや、組合の村々では和三郎を許して
もらえるように嘆願書を提出します。

「恐れながら書付けをもって嘆願奉ります。

           武州入間郡所澤組合 元道案内 和三郎
右の者は去る酉(文久元年)5月にどのような風聞をお聞きになりましたか、御用の筋に
携わることができないと仰せ渡され、一同畏れながら承知奉っております。
和三郎も恐れ入り奉り謹慎しております。
しかしながら、同人のその後の様子はどのような風聞もいささかも見聞きしておりません。
先般、心得違いのあったことを後悔し、今になって明らかにしてお慈悲のご沙汰を願い上げ
奉ってくれるよう、ひたすら取りすがり、実にもって改心し歎いており、その様子は不憫で
嘆かわしく存じ奉ります。
恐れいることも顧みず嘆願奉りますが、なにとぞ特別のお慈悲をもってお聞き入れくださり、
ことの節々をお許し下されたく願い上げ奉ります。

同人がそれより心得違いの行動に及んだ場合は、私どもよりお届け申し上げ奉ります。
別して精を出し勤めますことを申しますので、幾重にもお憐みのご沙汰を下されたく、連印
をもって嘆願奉ります。以上。

   文久2戌年7月7日 
      江川太郎左衛門代官所 
           武州多摩郡野口村 小惣代 名主 勘左衛門
      同 御代官所
           同州同郡 蔵敷村  同    同  杢左衛門
      同 御預り所
           同州入間郡下安松村 小惣代 名主 新助
      同 御預り所
           同州同郡 北野村  同    同  善兵衛
      武蔵美太郎知行所
           同州同郡 町谷村  大惣代 同  民右衛門
      江川太郎左衛門預り所
           同州同郡 北永井村  同  同  重左衛門
      同 御預り所
           同州同郡 所沢村  役人惣代 名主 助右衛門

関東取締御出役
  吉田僖平次様
  太田源助様

     (朱書き)右和三郎道案内差し止めにより、文久元酉年5月20日御両人様より
      寄場役人へお達しがあった。                   」


組合村の惣代たちが、和三郎の道案内差し止めの撤回を求めて名前を連ねています。
組合村全体が、和三郎を救うために動いていることがわかります。
しかしこの時には効果がなかったのでしょうか、12月にも彼ら惣代たちは同様の嘆願書を
関東取締出役に提出しています。

さらに和三郎を救う嘆願書は、所沢組合だけではなく他の組合からも提出されました。

「前書の通り申し上げ奉ります。和三郎は先の間違いを後悔し、恐れ入り奉り、私ども
へも取りすがり嘆願奉ってくれるようしきりに歎きます。
なにとぞお慈悲をもって、大目に見るご沙汰を下され置かれますよう仕ります。
然る上は私どもができるだけ気を付けて、今後は特に正しき道を勤めるようにさせます。
もし、またこれから噂など立つようなことがあれば、早々に申し上げ奉ります。今回の
ことは右の願いの通りお聞き済まされますよう願い上げ奉ります。以上。

     江川太郎左衛門御代官所
          武州多摩郡拝島村 寄場 名主 甚五右衛門
     同 御代官所 
          同州同郡福生村 大惣代 名主 重兵衛
     同 御代官所 
          同州同郡砂川村 同    同   源五右衛門
     同 御代官所
          同州同郡柴崎村 同    同   平九郎
     同 御代官所
          同州同郡日野宿 名主 彦五郎
                      同  芳三郎
     同 御代官所
          同州同郡横山宿 名主 市郎右衛門
                      問屋 七郎兵衛
                八日市宿 名主 佐次右衛門
                       問屋 勘右衛門
     同 御代官所
          同州同郡田無村 名主 下田半兵衛  」
  

拝島、福生、立川、日野、八王子、田無と、江川代官領多摩地域の惣代、名主たちが
和三郎の嘆願に名前を連ねています。
日野宿の名主・彦五郎は、そうです。土方歳三の義兄の佐藤彦五郎です。

一人の道案内の現場復帰のために、これだけの村の代表者らが嘆願しているのですね。
これまた地域のネットワークに驚かされました。
さぁ、和三郎の罪は赦されるのか?  

メガ44
そんなコト言っていいんですか、左之助さん?
あなたの人生に大きく関わっている名前じゃないスか!

甲州勝沼の戦いで敗れ江戸へ引き上げてきた新選組は、今後の方針を巡って
近藤と永倉・原田の間で意見が分かれ、その結果永倉・原田らは隊を脱して
しまいます。
その後、両名は永倉の剣術仲間だった芳賀宜道(ぎどう)と「精共隊」を組織して、
新政府に対抗すべく会津へと向かいます。
ところが行軍の途中で「ゴメン、ちょっと用事を思い出した。すぐ追いつくから
先に行ってて」と言い残し原田は江戸に戻ってしまいます。永倉は、原田は京に
残した妻子が気になったんじゃないか、と言っています。
しかし、新政府軍に包囲された江戸で原田は身動きが取れなくなり、そのまま
「彰義隊」に参加。そして明治元年5月15日の上野戦争で被弾し重傷を負い
ました。
運ばれた場所が本所の旗本屋敷。そこで原田は29年の生涯を終えるのです。

その旗本屋敷こそ、神保山城守屋敷であります。
つまり左之助さん、あなたの人生終焉場所の主の名前じゃないですか。
もっとも、重傷を負っていた左之助さん。自分がどこに運ばれたのかわからな
かったかもしれませんが。

原田には、「実は生き残って大陸に渡り馬賊になった。日清・日露戦争では日本
に味方する老兵がいたが、それが原田だった」という異説もあります。
まぁ、一種のトンデモ説なんですが、いかにも左之助さんらしい話で、ワタクシは
この話が好きです。
              

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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[ 2015/08/02 ] 我が東大和市 | TB(0) | CM(4)

好漢

新撰組の中でも、原田さんだけは剣術家というよりは「好漢」とか「豪傑」とかの言葉がふさわしい、『水滸伝』とかに出てきそうな人物の気がします。そんなに若くして亡くなってたとは知りませんでした。大陸に渡って馬賊になって欲しかった。
道案内は出役に協力しただけなのに、遠くまで出向いて、しかも手鎖とは…あんまりじゃないですか。やっぱり身分制社会なんですかねえ。
[ 2015/08/05 08:26 ] [ 編集 ]

ミステリー?

大変興味深い事件ですが、不可解な面も少なからずありますね。
誤認逮捕は確かにまずいことですが、容疑者を取り逃がすのもまずいし、
不審があれば捕まえて調べないとはっきりしないことも多いと思われ、
南町奉行の言い渡した処分は少々重すぎるような印象を受けました。
ひょっとして単純な誤認ではなく、捏造のような悪質性があったのでしょうか。

また、再三の嘆願にもかかわらず、和三郎がなかなか職務に復帰できないのも
お上に何か含むところがあるのか?例えば勘定奉行と町奉行との間に確執が……
などと妄想してしまいました。

続きを楽しみにしています。
[ 2015/08/06 02:14 ] [ 編集 ]

甚左衛門さま

しばらくネットができない状態だったので、返事コメントが遅れてしまいすみませんでした。

原田さんは確かに豪傑なイメージがありますね。若い頃のエピソードに加えて、新選組隊中に紛れ込んでいた長州の間者を叩き切ったりしたことや、武器が槍というのもそのイメージに拍車をかけているのではないでしょうか?
でも、京都で愛人をつくる幹部隊士が多い中、唯一正妻を迎えるなど真面目(今日的な)な部分もあって、そんな所も人気のある由縁でしょうか。

ワタクシも馬賊説を、どうしても捨てる気にはなれないのです。
[ 2015/08/09 22:28 ] [ 編集 ]

東屋梢風さま

コメントの返事が遅れてすみません。

仰るように、和三郎らの何が悪かったのか、その詳しい部分がよくわかりませんね。誤認逮捕で責められるのは仕方がないとして、そこまでの罪かというと、確かに重い判決です。

和三郎がなかなか復帰できないことについても、仰るようなことがあったのかもしれません。
嘆願書が出された文久2年7月は、江川英敏が亡くなる直前ですし、そういったタイミングの悪さも関係していたのかなぁ、とも考えています。

[ 2015/08/09 22:50 ] [ 編集 ]

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