今回のお話は東大和市域を離れた所での事件です。
それも、ことの起こりは年代が少々遡る万延元年(1860)になります。
しかし、
「里正日誌」に収録されていることから、東大和市域を含む当時の天領の事情を
知ることができる史料だと思い、ご紹介することにします。
「恐れながら書付けをもって御嘆願申し上げ奉ります。
武州所沢村寄場組合48ヶ村の役人惣代である、所沢村の名主助右衛門と、蔵敷村の
同杢左衛門が申し上げ奉ります。
右所沢村の百姓傳右衛門から借家をしている和三郎が、上総国市原郡今津朝山村で
起きた加藤藤次郎の一件について、御吟味中で入牢を仰せ付けられたことを知り、一同
恐れ入っております。
ついては同人の身分は別紙の通り、村々一同が連印をもって御嘆願申し上げたく、去年
以来村々の役人たちが出府いたしました。村の費用が増える一方、銘々差支え恐れ入り
奉りますが、私ども惣代として御慈悲を願ってくれるようにと言いますので、恐れ多いことも
顧みず私ども惣代が、残ってこのことを御嘆願申し上げ奉ります。
なにとぞ格別の御憐憫をもって、一同が連印をした別紙で願い上げ奉りました通り、この上
幾重にもお慈悲のご沙汰をひとえに願い上げ奉ります。以上。
江川太郎左衛門当分御預所
武州入間郡所澤村 名主 助右衛門
万延元申年8月26日 同代官所
同州多摩郡蔵敷村 同 杢左衛門
御奉行所様 」所沢村に住む
和三郎という人が、千葉の市原で起きた
「加藤藤次郎の一件」で逮捕されて
しまったようです。
所沢からかなり離れた場所での逮捕。和三郎さんはナニをやったというのでしょう?
所沢村ばかりか、同じ組合村である蔵敷村の杢左衛門さんまでもが、嘆願書を出している
ことから、彼の逮捕にはなにやらワケがありそうです。
そもそも、加藤藤次郎の一件とは何なのでしょう?
それについて、市原郡姉崎村に住む百姓の
一作という人が組頭の治兵衛さんと共に、お上
に提出した書状がありますので、そちらをご覧ください。
「私は御改革組合35ヶ村寄場村の姉崎村の百姓でございます。関東御取締御出役
方の道御案内を勤めておりますところ、今年の3月6日頃、御出役の廣瀬鐘平殿から『今年
の3月3日桜田門外にて予期せぬ狼藉ものがあった。この者らのうち10人あまりが行方知れず
となった。逃げ去ったものがこの村の近くに海を渡って立ち寄るかも知れぬ。もし、怪しいものを
見聞きしたならば早々に申し出よ』とのお達しがありました。
組合の村々より御請け書を差し上げ、村役人より村にお達しがありました。
隣村の今津朝山村の農家を離れた場所に、家を修理して加藤藤次郎なるものが住んでおります。
同人は御捉飼い場の中にいて多くの鉄砲を所持し、その他にも怪しい噂がありますが、このよう
な田んぼの中の離れ家なので特に出入りするものもありません。
そんな折、同村の医師玄安の養母でコウというもので、元道御案内を勤めておりました吉五郎の
後家に入っておりますが、女ではあるものの心得のあるものでございます。
同人が藤次郎の家に平常出入りしておりまして、これ幸いと思いとくと申し合わせて探索をした
ところ、いちいち怪しい様子だと聞き、とりあえず桜田門からの逃亡者だと判断して、寄場大惣代
である当村の名主三右衛門方へ報告書を差し出しました。
三右衛門からそのまま写し取り鐘平殿へ差し上げましたところ、同20日に藤次郎をお召し捕り
になりました。
そのときに私は、臨時御出役の中川孫市殿の御用として、同国の八幡村へ罷り越し、出先でこ
のお召し捕りを承りまして帰宅いたしました。また、コウでありますが、今年の6月中に急病を
発し死去してございます。
右、お尋ねにつき、始末申し上げ奉ります。以上。
水野周防守領分 上総国市原郡姉崎村 百姓 一作
万延元申年11月17日 差添 組頭 治兵衛
御奉行様 」 大老・井伊直弼が殺された「桜田門外の変」で、現場から逃走した水戸浪士を幕府は懸命に
探していましたが、加藤藤次郎はその中の一人と見られたようです。
そして、八州様の廣瀬鐘平が出動し、加藤の捕縛に至ったようです。
一作さんは道案内、つまり取締出役の手先・・・目明しだったということです。
さあ、これで加藤が井伊大老殺害の実行グループの一人なら、廣瀬さんも一作さんも大手柄
ということになるのですが・・・これが、なんと
誤認逮捕。
彼は「桜田門外の変」には全く関係がなかったのでした。
東京芝の愛宕山にある「桜田烈士の碑」にも、その名前はありませんもの。
当たり前ですが。
一作が提出した報告書は、この捕り物が誤認逮捕と分かったため、その始末をどうつけるのか
お上に聞いたものでしょう。
御奉行様はどのような裁定を下したのでしょうか?
さて、では冒頭の和三郎。
市原から遠く離れたところに住む和三郎が、この加藤誤認逮捕にどう絡んでいたのか?
なぜ、入牢しなければならなくなったのか?
次回、さらに史料を追ってみましょう。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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面白い取り組みですね!
所沢の和三郎に関する情報だけでは限りがあるものを、市原の加藤藤次郎関連の情報が結びつくと意外な展開がありそうで、ドキドキします。
次回が楽しみです。
三田村鳶魚『大衆文芸評判記』に、次の一節があります。
「一体八州の方の目明しどもは、目明しとは申しません。
案内人と申しているのが多かったようで、従って十手などは渡してないのです。」
歴史考証的にはそうだとしても、現代人が「道案内」「案内人」と聞いたら
やっぱり観光ガイド的な職掌を連想しますよね(笑)
ちなみに、江戸町奉行所が地方に派遣する手先は「飛脚」と称されたとか。
「目明かし」「岡っ引き」は関係者以外に聞かれると支障があるため
そういう符丁のような呼び方をしたのかな~と思いました。
八州の「道案内」も、それと同じことなのかもしれませんね。
次回が待ち遠しいです。
我々が知っている江戸時代って、小説や時代劇で仕入れた知識がベースになっていることが多いですが、実際に史料を当たってみると意外な事実があったりします。
特に地方史だったりすると、なおさらですね。
そこが面白いところです。
「岡っ引き」というのは、元々蔑称だったというのは聞いたことがあります。「目明し」は関八州で使った言葉だそうですが、三田村鳶魚がそう言っているのと、ご紹介した史料にも「道御案内」と書いてあることから、お上などに出す正式な言い方は「道案内」だったのかもしれません。
「道案内」にはどことなく婉曲的なカンジがしますから、都合のいい解釈ができたのではないでしょうか。
和三郎はすごい謎の多い人物だと思います。第一彼は深谷宿在の出自で、わざわざ所沢に道案内になるために来ています。しかも後年は八王子に旅籠屋兼飯屋を開き、府中の「比留間日記」によれば、何人か子分も抱えていることが伺えます。多分この道の心得が相当あったのでしょう。
信州の「相の川又五郎」という博徒の自伝『二足わらじの相の川又五郎』(ほおずき書籍)によれば、博徒の一つの定例として、博徒→遠方の道案内→旅籠屋(遊女屋)というケースがあったようで、和三郎のそれはまさにそれに当るように思うのですが、どんなもんでしょうかね。
いずれ続きがすごく気になります。
さすが甚左衛門さん、こういう情報は頼りになります。
おそらく仰るように、和三郎はその出世コースを歩んだものと思います。とするならば、組合の惣代や名主たちは和三郎のそのような「博徒の出世」を望んだということになりますね。
以前からも甚左衛門さんからご指摘がありましたが、このような博徒、道案内らと村々の関係を解き明かすと、江戸時代の今まで見えなかった部分が見えてくるのでしょうね。
こういう史料はマニアックですが、面白いです。
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