岩瀬忠震と日米修好通商条約

さて、今回はちょっと多摩や東大和を離れます。

江戸へ乗り込んできたハリスさんの相手として幕府が選んだ、THE 交渉人。
それが外国奉行の岩瀬忠震(いわせただなり)さんと、下田奉行としてハリスの
応接を担当していた井上清直(いのうえきよなお)さんでした。
岩瀬さんは林大学頭の甥、井上さんは川路聖謨の弟。さらに岩瀬さんは
川路さんと日露和親条約の交渉に当たった経歴がありますから、環境や実績から
いっても当時最高の人選だと言えます。

さて、結果として安政5年(1858)6月19日に日米修好通商条約が締結されて、
日本は本格的に開国します。ハリスさんも念願の「商売できるでーーッ」です。
ところで、我々日本人はこの条約を、アメリカの言いなりで結びつけられた
不平等条約だと思っていませんか?
「なんか、教科書にもそんなニュアンスで書かれていたような気がするなぁ・・・
アメリカに領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったからでしょ。」
そう歴史の授業で教わりませんでしたか

・・・はたして、そうなんでしょうか?

岩瀬忠震は元々身分の高くない旗本でしたが、例の老中阿部正弘に抜擢されて
講武所や蕃書調所、長崎海軍伝習所の設立に尽力した、当時の幕臣で開明派と
言われた中の一人でした。
そんな岩瀬さんの考えとしては、「もう外国と通商することは避けられない。である
ならばより幕府が貿易で利益を上げ、その金で強力な軍艦や武器を揃えて外国に
対抗できる軍隊を作る以外にない」というものでした。
たとえば、新たな開港地として横浜を指定しましたが、これは江戸から適度な距離で
利益が幕府に入るようにという岩瀬さんの考えでした。これが今でも商業地としての
横浜の発展に繋がっているんだからナイスジャッジですよね。

で、先ほど言った領事裁判権ですけど、当時の横浜ってのは大きな川を渡った先に
あり、さらに運河を掘って出島のような地形をしていたんですね。外国人はこの中に
居住させ一般の日本人とはなるべく接触させないようにしました。ですから裁判権は
条約締結当初においては特に問題はなかったのです。
それと関税は一部の品を除いて一律20%が掛けられていました。これはかなりの
好条件で、アジア諸国でこれほどの税率で優遇された国は他にありません。
実際、ハリスは「話し合いのペースはほとんど岩瀬に主導権を取られていた」と
認めていたそうです。

と、ここまで書くと岩瀬さんに全く欠点がなくて、「サスガ岩瀬、長年中日のリリーフ
エースを務めてきただけのことはあるネ」(←違うでしょ!)ってコトになるんですが、
ここで大きな見誤りをしてしまいます。

当時は海外の事情を知る立場にいた人は岩瀬さんなど幕府でも一部の人で、ほとんどの
人は攘夷論者です。つまり、ほとんどの日本人が条約反対。
しかし、攘夷論者ってのはみんな尊王ですから。
岩瀬さんや、時の老中トップだった堀田正睦らは「天皇の勅許」をもらえば、攘夷論者も
「天皇がOKっつうんならしょうがないか」と諦めて、反対派も鉾を収める。
条約の締結はすぐにできると踏んでたんですね。
これがアマかった。
時の孝明天皇はアレルギー的に外国嫌いな上に、周りの人たちもガッチリ攘夷。
確かに幕府が絶対的な力を持っていた頃なら、朝廷は幕府の言いなりだったでしょうが
時代は変わり、すでに朝廷は幕府のコントロールから離れていたんですね。
「外国と貿易やなんて、おおこわ。勅許なんて出しますかいな。」
勅許をもらうなんて楽勝って思ってた岩瀬さんは困りました。
責任をとって堀田さんも老中を罷免させられてしまいます。

ここで、さらに岩瀬さんを窮地に追い込む情報が飛び込んできます。
アロー号事件で清国に圧勝したイギリス、フランスが5日のうちに日本へ来て通商
条約を迫るっていうんですよ。モチのロン、圧倒的武力を背景にね。
焦った岩瀬さんはハリスに言います。
「今、アメリカと条約を結べば、英仏が何を言ってきてもアメリカが間に入ってくれる?」
「当たりマエダのクラッカー。責任もってお約束しまっせ!」

堀田正睦に代わって岩瀬さんの上司・・・つまり幕府トップ(大老)に就任したのが
あの井伊直弼です。彼は「勅許なしでの条約締結は絶対反対」でしたが、一方で
緊急のときは現場の判断に任せるとの命令も出していました。

「条約は江戸城で起きてるんじゃないッ。現場で起きてるんだッ!」(by 青島&岩瀬)
ってことで、岩瀬さんはGO!
安政5年(1858)6月19日、ついに勅許を待たずに日米修好通商条約が締結
されました。

さぁ、この勅許ナシの条約締結が、大きな問題を引き起こすんですね。

攘夷派のモーレツな抗議活動です。
で、幕府・・・井伊直弼はこれを徹底的に押さえつけにかかる。
ここから有名な「安政の大獄」が始まるわけですね。
岩瀬さんも責任を取らされ、左遷さらに蟄居を命じられてしまいます。
そして大獄はやがて「桜田門外の変」を呼び、幕末の動乱へと続いていきます。

結論から言って、この条約締結は失敗だったのでしょうか?
勅許を待たずに調印したことは、攘夷派の闘争心にさらに火をつけることになり、
特に長州藩などは文久3年(1863)欧米艦隊を砲撃し下関戦争を起こします。
この責任を幕府が負うことになり、結果として慶応2年(1866)に関税税率は
20%から5%まで引き下げられ、ここに事実上の不平等条約が成立するんですね。
こう書くと、条約締結は岩瀬さんの先走りのようにも感じます。

しかしですよ。
もしハリスと6月19日の段階で条約締結していなければ、どうだったでしょう?
恐らく、英仏からもっと不利な条件を押し付けられ、断れば国内の攘夷派の影響も
あり戦争になっていたでしょう。
結果フルボッコされて、植民地にされていた可能性が高いと思います。
事実、1850年代からアジアで植民地化されてないのは、日本とタイだけでしょ。
それを考えると、岩瀬さんの判断は「オールOK」とは言えないだろうけど、日本を
植民地の危機から救い、世界デビューさせた功績はとても大きいと言えます。

しかし、岩瀬さんは蟄居を命じられてから2年後の文久元年(1861)、失意の
うちに41歳で亡くなりました。

さて、今の日本に岩瀬忠震を知っている人が何人いるでしょう?
ほとんどの人が知らないでしょ。当然ですよ、だって学校でも教えてくれないもの。
前にも書きましたけど、やはり薩長の作った歴史の中では「優秀な幕府役人は知ら
なくていい」ということなんでしょうね。
でもね、明治新政府は岩瀬さんに相当世話になってるんです。
岩瀬さんがその設立に関わった講武所は日本陸軍の元になります。同じく長崎海軍
伝習所は日本海軍に、蕃書調所は東京大学(帝大)へと繋がっていきますから。

岩瀬忠震という人が、いかに日本の将来を見つめ、近代化の礎になったか。
このブログを読まれた方。
岩瀬忠震という人物、これを機会に覚えてくださいね。

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時代は安政5年・・・そろそろキチンとした新選組漫画を
描かなければ・・・!!








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#53 GHQが確認した信濃守様への手紙
安政6年頃に荘園時代から代々所有し守る氏神様で家訓律令に下ずき
第35代目愛宕守太子大里陛下
(頚飾、菊花、桐花、旭日、宝冠、瑞宝、金鶏大綬/少尉任官.大元帥/藩主・文政8年生)など
若宮桃園信濃守太子家(源.本家/葛野藩)が
文化5年、文政8年、天保13年に通き産土宮(御殿)と若宮(御殿)を新調し
藩.法度(軍役)に下ずき
庄屋組、庄屋、5人組、戸主・長男・次男と弓や槍刀に烏帽子・白丁を新調し
家訓法度に下ずき禊を清せた長皇子(睦仁親王)と各・親王家.長子が集り
源氏最大の伝統祭事の
若宮様(第37代目葛野守太子大里陛下/頚飾カラ金鶏大綬/少尉任官.大元帥)
ご誕生の礼式は厳かに執り行れ
晩秋頃には藩.法度(軍役)道理に
=大根焚と(粕汁)冬の味覚の接待会=が華やかに行れたのを御存知ですか。



昭和20年迄は日本の戸籍、旅券も国際標準で民族・身分欄が有
君主国家に相応しく
昭和22年迄は主権者(国家元首)に対する罪(大逆・不敬)も有ったのを憶ていますか。

京都市内に皇族専用の火葬場が有のを御存知ですか。

明治に編成された陸・海軍から刑務官の階級章は桜で有ったのを覚ていますか。

世界中で献血、臍帯血を行と藍綬褒章に天皇陛下から叙されるのを御存知ですか。

=民族に平民以上か移民と賤民、賤民朝鮮籍が分無い国は存在し無い筈です=

サウド家のサウイアラビヤ、ウィーザー家のUK、井上家の日本等は国際常識です。

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