文久2年支配替え騒動②

間に2回、新選組漫画を入れてしまったので、ワタクシも「里正日誌」のどこを
読んでいたのかわからなくなってしまいました。
以下を見て、ちょっと復習。

「文久2年支配替え騒動」クリック!)

文久2年8月に代官の江川太郎左衛門英敏が亡くなると、翌9月に代官支配地
支配替えの噂が立った。その対象地域となった狭山丘陵の村々では、江川
代官支配の継続を願い、代官はもとよりその上官である勘定奉行に張訴まで
して訴えたのだった。
(ナレーション:遠藤憲一)

では、その続きから。

張訴の効果もなく、10月に入っても支配替えの噂はさらに広まっていったようです。
居ても立っても居られなくなった村々の名主たちは、所沢村の名主宅へ集まり
緊急の対策会議を開きます。
そして書き上げたのが、次の願書です。

「恐れながら書付けをもって願い上げ奉ります

江川太郎左衛門御代官所である武州入間郡・多摩郡の村々役人一同が申し上げ
奉ります。
私ども村々では、往古より天領でございます。現在の御代官江川太郎左衛門様が
御支配になり、御役所より御取締りとして衣食住その他について質素倹約するよう
仰せ渡され、全てにおいて御心のある御扱いをしていただきました。
段々と村々の人の心も和み、出入り筋(民事事件)での訴訟事もなく、村での経費も
減り自然と村人が仲良くなり、平穏な時が続きました。

これらはすべて、御支配様(江川氏)の御仁恵のある御取扱いのおかげと、村役人
どもはもちろん小前の百姓たちも皆で、ありがたいことだと存じております。
そのようなことなので、このままずっと御支配が離れぬよう皆が心から願っている
ほどでございます。

そんな折、今年の8月江川太郎左衛門(英敏)様が大病で、養生のため韮山へ御
引きこもられたと承りました。村役人ども小前百姓に至るまで驚き歎き恐れいること
でございました。
万が一御支配替えになりましては、これまでの御恩に報いることができなくなり、
嘆かわしく存じ奉ります。
未だ何のご沙汰もないので、御時節を見越して願い上げ奉ります。このことを幾重
にも恐れ入り奉りますが、これまでのとおり支配替えをせず、江川御支配所に据え
置いてくだされますよう願い上げ奉ります。

何とぞ格別の御慈悲をもって、今まで述べたとおりにお聞きくだされば、大いなる
御憐憫とありがたき幸せに存じ奉ります。よって、村々一同の連印をもって願い上げ
奉ります。以上。」


所沢村名主宅に集まった村の代表は、なんと41ヵ村!
一つの村で3人の村役人が出席したようですから、120人を超える人数です。
そんなに多くの人が入れる部屋があったのか!とツッコミを入れたくもなりますが、
本題に関係ないので、そこはスルーしときます。

その41の村々とは。
武州多摩郡 芋久保村 蔵敷分 奈良橋村 高木村 後ヶ谷村 宅部村 廻り田村
野口村 清水新田 日比田村 久米川村 南秋津村 野塩村


武州入間郡 所澤村 上新井村 北野新田 中北野新田 氷川村 上安松村 打越村
町谷村 岩岡新田 菩提木村 山口堀之内村 北野村 堀兼新田 神谷新田 北野新田
三ケ嶋新田 三ケ嶋堀之内村 北秋津村 三ケ嶋村 城村 坂之下村 南永井村
大岱村 下安松村 北永井村 久米村 平塚新田 本郷村


現在の東大和、東村山、所沢市域にあたる地域で、狭山丘陵一帯の村々が支配替え
の対象だったことがわかります。

さて、41の村々が書き上げた支配所据え置きの願書。
これを彼らはどこへ、どのように届け出たのでしょうか?
「里正日誌」にはその経緯が書かれています。

「右は文久2戌年10月16日に、多摩・入間両郡41ヵ村の村役人一同が所澤村の名主
助右衛門宅に集まった上で、願書を書き、1ヵ村につき三役人の連印を捺して4通を
用意した。
村々の惣代として、御老中板倉周防守様へ所澤村名主助右衛門・上新井村名主。
市右衛門、松平豊前守様へ下安松村名主新助・三ケ嶋村名主次郎左衛門、井上河内守
様へ蔵敷分名主杢左衛門・岩岡新田名主民右衛門、御勝手御勘定奉行
川勝丹波守様へ北永井村名主重左衛門・野口村名主勘左衛門。
都合、御老中3方へ6人、御奉行へ2人のしめて4ヵ所へ右の8人が、10月21日に江戸へ
出て、同24日に一同御登城前の駕籠訴をいたした。」


なんと、杢左衛門さんたち、御老中の方々が登城するときに駕籠訴に出て訴えたと
いうんです。
時代劇なら、間違いなく死罪モノの場面!
杢左衛門さんたち、どうなってしまったのでしょう?

「翌25日に御支配所御代官へ御沙汰が下ったので、御手代の高橋柳吉様が津田近江
守様御役所へ呼び出され、村役人らの身柄がお引渡しとなった。
26日御支配所御役所へお呼び出しとなって、公事方(訴訟・裁判担当)の根本慎蔵様
より、重役方へ駕籠訴したことについてのことが言い渡された。御勝手勘定奉行の津田
近江守殿からのご沙汰であり、一同引き取ったのである。
これからは右のような越訴をしてはならない。
だが、御代官様はご満足に思われている、とのことを仰せ
聞かされ、一同帰村を言い渡された。」



「もう、こういうコトはするなよ」と注意をされただけで釈放になったようです。
かなり軽い処分です。
さらに杢左衛門さんは代官所の手代・根本さんから「今回のことで御代官はご満足で
おられるよ」との言葉をいただきました。
跡を継いだ代官の英武さんはまだ9歳ですから、この「ご満足」は彼一人の感情ではなく、
江川家、家臣ら代官所皆の思いだったと思われます。

この箇所から想像されるのは、村々は条件の良い江川家の支配を継続して受けたいと
願い、江川家もまた広大な支配地域を維持したいということで、両者の思惑が一致
していたのであろう、ということが一つ。
さらにもう一つとして、幕府も代官所や村々に対して強硬に支配替えを行えない事情が
あったのではないか、ということです。
おそらく、代官所から「この度の支配替えは領民の納得するところではない。彼らの
言い分も聞き、寛大な処置を」とでも進言があったのではないでしょうか。

この頃の世の中はどんなだったのかというと・・・。

江川英敏が亡くなった文久2年8月は、薩摩藩の行列を横切ったイギリス人が斬り殺され
生麦事件が起きました。
9月には、長州・土佐・薩摩が攘夷を決行するよう幕府に命じてくれと、朝廷に働きかけ
ます。そして10月、朝廷の勅使として三条実美が江戸に下向。幕府に攘夷実行の督促
を伝えるのです。

翌文久3年2月には、14代将軍徳川家茂が朝廷に説明するため上洛するという、幕府
にとっては先の読めない時代に入っていきます。

この流れを頭に入れてもう一度この支配替え騒動を見てみると、幕府、代官所、村々の
それぞれにどのような思惑があったのかと、いろいろ想像できて面白いですね。

メガ41
名主の家って、襖とか取っ払うと部屋がつながって大広間になるので、
このようなホールを用意しなくても50~60人くらいは入ることができた
でしょうね。
でも、120人を超えるとなると、そうとうギチギチに詰めないと入りきら
ないんじゃないかと思います。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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コメント一覧

#1226 No title
こんにちは。

江川代官所の人気絶大ですね。江川家側の当時の文書などと照合できるともう少し様子がわかりそうですが、まだ整理中で非公開の部分が大きい様ですね。相模国とも関係の深い代官所ですし、閲覧可能になると色々と新たに明らかになることがありそうですが、いつ頃になるのでしょうね。

1畳に座布団2枚並ぶと考えると、120人を収める座敷は少なくとも60畳、30坪のスペースを確保しないといけない計算ですね。互いの肩がぶつかる程度まで詰めればもっと小さなスペースでも何とか入りそうですが…。あるいは前庭で立って集会とかですかね。
#1227 小松菜?京菜?
お早うございます
物書き(作家)でも
絵描き(漫画家)でも
ある程度のレベルに達しますと
必ずや『時代もの』を手がけます
貴ブログで納得しました
掘り下げようとしましたら
いくら深く掘っても
限ががありませんですもね
新選組がこんなにも深いとは
新鮮でありました・・・?
オラの武器は
恥を恥とも思わないことでしゅ・・・?。
#1228 kanageohis1964さま
韮山は休日ともなると観光客でいっぱいだそうですね。
反射炉が世界遺産に登録になりそうだからでしょうが、江川英龍の功績を考えると、今までドラマや映画はもとより日本史の授業でも取り上げてこなかったことがおかしいんですよね。
実際に世界遺産に登録されれば、代官所の史料も研究・公開が一気に烝のではないでしょうか。
ていうか、期待します(笑)

以前当ブログでご紹介した青梅新町の吉野家は畳座敷が5部屋計48畳でした。これに囲炉裏のある板の間を入れて60畳くらいありますかね。助右衛門さんの家がこのくらい広ければ集会ができたということですね。
ただその時、助右衛門さんの家族はどこにいたんでしょうか?
親戚の家にでも行かされていたのかな。
#1229 江川家文書
江川家文書は立川の国文学研究史料館を通じて三分の一程は、ネットでも閲覧ができます。貴重な史料、情報があってとても面白いですが、正直これ以上は期待できないと私は思います。

現状でも静岡県から江川亭へ金銭的協力は出ていません。建物の保存も文書などの保管も、まして研究費もです。こういった学術に対する行政のお寒い現状は、なかなか変わるもんじゃないでしょう。反射炉に多少の協力はしても江川亭の研究事業はスル―というのが答えなんじゃないでしょうか。

所沢の助右エ門家の文書は散逸しています。あれば第発見でしょうが、こちらも望み薄なのがツライです。ただ助右衛門家に、これほど大勢の人が集まったとは…土地にすんでいながらこの記事を読むまで全く知りませんでした。
毎回ながらたいへん勉強になります。
#1230 ウナさま
こちらにいただいたコメントは、総司忌の講演の「史実とフィクション」についてでしょうか。

学問としては史実を掘り起こす作業が大切ですが、作家は読者や視聴者を満足させることが大切なことです。史実をどの程度残すかは作者のこだわりの部分であって、受け手が満足すればフィクションなのですから真田幸村の髪がムラサキだろうが、沖田総司が女であろうが全くOKになるのですね。

新選組のように熱心なファンが多い世界だと、どんなに細かいネタを題材にしても読者が追い付いてきてくれる(たとえば中島登ネタとか)分、イメージを崩さないこと(たとえばダンダラ羽織を着せるとか)も大切かなと思っています。

返事のテーマがズレていたらすみません!
#1231 甚左衛門さま
いつも明快なコメントをありがとうございます。
そうですか、代官所文書の件、よくわかりました。ワタクシなどは英龍時代もさることながら、英敏・英武時代の代官所の動きが知りたいのですが、あまり過度の期待はできませんかね?

そうそう、ぼちぼち古文書を読めるように勉強を始めているところであります。

所澤村は組合の寄場でしたから、重要な史料も残されていたでしょうね。どこかの蔵にでもあるといいのですが。
#1234 みごとな連携
駕籠訴と張訴の件で、過去記事にてご紹介いただいた
元治2年3月の支配替え騒動を思い出しました。
その時も根本慎蔵さんが登場し、しかも張訴の手段や訴状の内容まで
アドバイスしたのですよね。
そうした密接な連係は、少なくともこの文久2年の時からあったんだな~と思いました。

文久3年の浪士組上京後、
清河八郎が壬生の新徳寺に一同を集めて演説したという話がありますね。
234人が入れたのか、入れたとしてどんな状態だったのか、考えてしまいます。
#1235 東屋梢風さま
よくぞご指摘いただきました。
そうなんです。支配替え騒動のときに重要な役割を果たすのが根本慎蔵さんなんですよね。
元治2年の騒動のとき、張訴のアドバイスをしたのは、今回ご紹介した支配替え騒動での経験があったから出たアドバイスだったことが、これでわかりました。
文久2年が幕府・代官所・村の支配構造の大きな転換時期だったことが、ここからも想像できると思うのですが、いかがでしょうか。

1969年公開の映画「新選組」(監督:沢島忠 近藤勇が三船敏郎)では、清河八郎が新徳寺で演説をするシーンで、本堂の中は主だった浪士たちが入り、他の者たちは外で待たされているという描写がありました。
浪士の中には祐天仙之助みたいな侠客もいたし、そういう人の子分たちは映画のように外で待たされていたんじゃないでしょうか。
ちなみに映画では左之助や新八っつぁんも外で待たされていましたが(笑)

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