江川太郎左衛門の死と多摩支配 文久2年支配替え騒動

韮山にある「江川太郎左衛門の反射炉」が、世界遺産に登録されるのも間近だと
いうので、土日などは観光客が大勢訪れているようですね。
江川太郎左衛門といえば、ふつうは江川家36代当主・江川英龍(坦庵)のことを
いいます。
このブログで何度もご紹介しているように、黒船来航前後の日本で、最も有能だった
日本人の一人です。

しかし、現在クローズアップされている反射炉は、英龍が工事に着手したものの、
完成させたのは息子の英敏のときです。そこはお間違えなきように!
英龍は反射炉の完成を見ないまま、安政2年(1855)に亡くなります。

英龍は天保6年(1835)に亡父の跡を継ぎ、世襲代官の地位につきます。
「江川坦庵全集」によれば天保9年(1838)の段階で、彼の支配地域である多摩郡
の中に東大和、東村山、武蔵村山市域などの狭山丘陵一帯の村々は含まれて
いません。
嘉永3年(1850)の記録で、それらの地域は江川代官所の支配地域として出て
きます。
つまり、狭山丘陵一帯は英龍の功績により加増された地域といえるのではないで
しょうか。
このことは、地元の史料からも裏付けを取りたいのですが、「里正日誌」の天保から
嘉永年間にかけてがまだ出版されていないのです。追々待ちたいと思います。

ナニが言いたいのかというと、狭山丘陵一帯は幕末に江川代官所の影響を非常に
多く受けた地域であり、それは英龍の時代から始まったのだけれど、幕末もいよいよ
激動の時代を迎え、徳川支配が怪しくなってきたときには英敏・英武の支配時代だった
ということなんですね。
つまり、最幕末期の多摩を追っていこうとしたら、英敏・英武時代の代官所に注目
しなければならないワケです。

安政2年に英龍の跡を継いだ息子の英敏ですが、彼もまた文久2年(1862)8月に
若くしてこの世を去ります。おそらくこの年に流行した麻疹かコレラによるものではない
かと思われます。いずれにしても急病のようです。
その翌月、狭山丘陵一帯の村々にただならぬ噂が流れました。
それは9ヵ村を江川代官所から他の支配所に「最寄替」するという話でした。
つまり、支配替です。
対象となった村は、小川村、芋久保村、蔵敷分(村)、奈良橋村、高木村、宅部村、
後ヶ谷村、廻り田村、野口村。東大和市域を中心として、一部東村山、小平市域を
含んだ一帯です。

村々では驚くと同時に、一斉に反対運動を起こします。
これら対象となった村々が、いかに江川代官所によって救われ、今後も同じ支配を
受けたいかを、嘆願書に切々と訴えたのです。

「恐れながら書付けをもって御歎き訴え申し上げ奉ります。

江川太郎左衛門御代官所の支配である、武州多摩郡小川村ほか8ヶ村の役人ども
が申し上げ奉ります。
私ども村々は旧来、右太郎左衛門支配所の支配を仰せ付けられてからは、同人方の
取締り向きも行き届いております。
元来、狭山つづきの田畑なので禽獣が多く出て、作物を食い荒らします。殊に武蔵野
続きの薄い土地で麁(あら)い田の場所なので、いたって難渋しております。
元々貧しい者が多い村々でございますが、結局支配所の取締りが行き届いたので、
だんだんと貧しい者たちが立ち直り、潰れる家や落ちぶれて他所へ行くことも凌いで
家族とも無難に助け合っております。このことは明けても暮れても忘れません。

右の仁政を慕い、永く太郎左衛門支配所に居続けたいと兼て村々一同、心から願って
おりましたところ、この頃、太郎左衛門支配所が近々最寄替(支配替)を仰せ付けられる
との噂を聞きました。
これにより私たちの村々もどのようになるのかと承り、一同驚き入り、自然と右のご沙汰
に至り、ほかの支配所に支配替えとなってはとてもこれまでの支配御役所と比べても、
御取締りも行き届かないと心得ます。
そうなっては村々が衰微してゆく元となり、小前末々に至るまでみな悲嘆にくれており
ます。恐れ多いことも顧みず、このことを御嘆願申し上げ奉ります。
何とぞ格別のお慈悲をもって、前に顕しました始末をお聞きくださり、これまでの通り
太郎左衛門支配所に据え置いてくだされますようお願いします。右願いの通り仰せ
付けられました上は、私ども村々一同安心できることこの上なく、御仁恵と重々ありがたく
幸せに存じ奉ります。以上。

 文久2戌年9月  江川太郎左衛門御代官所 
                   武州多摩郡    小川村
                               芋久保村
                               蔵敷分
                               奈良橋村
                               高木村
                               宅部村
                               後ヶ谷村
                               廻り田村
                               野口村
                               右村々 役人共
     御勝手方
    御支配所様                                           」


我々の村は元来貧しい村であったけど、江川代官の支配になってからは仁政のおかげで
立ち直ることができました。これで支配替えになったら、村が衰退してしまいます。
こう言っているんですね。
次に支配する代官、どんだけ無能だと思われてるんだか・・・(笑)
まぁ、それほどまでに江川代官所と村々の結びつきは強かった、ということでしょう。
この9ヵ村のうち小川村だけが天保9年の江川家支配地域でしたが、後の村々は嘉永3年
の記録に出てくる支配地域です。(野口村は含まず)

ご紹介した嘆願書は、ほぼ同一の内容が書かれた2通がありました。
1通はそのまま江川代官所に差し出されましたが、問題なのはもう1通。
このもう1通について、「里正日誌」には杢左衛門さんの注意書きがしたためてあります。

「右は文久2戌9月20日、村々で相談の上、杢左衛門・勘左衛門の両人が代表となって
出府し、21日御支配御代官御役所へ書面を差し上げ、その上勝手方御奉行の芝愛宕下
川勝丹波守様・牛込軽子坂津田近江守様・小石川御門外竹内下野守様のお三方へ、22
日の夜、両人が前書の通りの書状を日向半切に書き半紙で上包みして
  『御奉行様 武州多摩郡村々』
と上書をして、表御門の柱に張訴いたした。
もっとも、このことの仔細は御代官江川太郎左衛門様が、今年8月に御病死
したことから端を発し、支配替の話も出た
のだとの風聞もあり、
取り計らったことである。」


勝手方奉行とは、代官の上司である勘定奉行のことです。
勘定奉行には財政・民政を担当する勝手方勘定奉行と、訴訟を担当する公事方勘定奉行が
いました。
これら幕閣の方々の門柱に、張訴という強行手段に出たというのです。
支配替えに対する村民の強い拒否反応がわかります。

そして、気になるのは最後の一文。
英敏が病死したので支配替えの話が出た、ということです。
江川家は世襲代官なので、次に家督を相続した者が代官職と支配地を引き継ぐことになります。
英敏には子供がいませんでしたので、弟の英武が養子になりましたがこのとき9歳。
幕府は英龍が亡くなった後、その功績を讃えるために支配地をそのまま相続させたり、芝
新銭座に大小銃砲の調練場を作ったりしました。
つまり、江川家に対してかなりの優遇をはかっていたのですね。

しかし、英武が代官に就任するにいたって、幕府はその優遇を一部解除し、支配地の削減を
考えたのではないでしょうか?
世襲代官という名誉はそのまま継承させるものの、支配地域は英龍より前の時代に戻す・・・
というようなことが幕閣の中で話し合われたのかもしれません。
まぁ、あくまでも「風聞」ということになってはいるようですが・・・。

英龍、英敏と相次いで代官が亡くなったことから、狭山丘陵の村々は大きな渦に飲み込まれ
ようとしていました。

メガ40

杢左衛門さんらが張訴した3人の勘定奉行は、川勝広運(ひろかず)、津田正路、竹内保徳。
竹内は前年の文久元年(1861)に、ヨーロッパへの最初の使節団である文久遣欧使節の
正使に就任している人です。この使節団には後にジャーナリストや劇作家となる福地桜痴、
慶応大学をつくる福沢諭吉、外務卿となる寺島宗則らがいました。
こんな方の屋敷の門前に張訴をするんですから、杢左衛門さんたちもよほどの覚悟だった
のでしょうね。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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#1210 目まぐるしく
安政年間には熊本藩細川家の預所になったと思ったら外されたり
慶応3年の終わり頃にも江川代官所の支配から外される話が出たりと、
なんだか行き当たりばったりの政策に振り回されて続けている印象が否めません。
しかし、支配替えは領民にとって死活に関わる重大問題で
とても黙ってはいられなかったのでしょうね。

マンガは、張訴というよりキョンシー封じに見えます(笑)
#1211 東屋梢風さま
当時の農村にとっては、仰るように直接の支配者が誰になるかで、ずいぶんと生活が左右されたでしょうからね。村役人たちの必死さも伝わってきます。
多摩・狭山地域の、これらの支配替え騒ぎは、やはり根をたどると江川英龍の死に行きあたるような気がします。彼が早く亡くなってしまったことは、多くの所に影響を及ぼしていると考えざるを得ません。
#1216 いよいよわかりにくいところへ
 この時代は、狭山丘陵周辺の地方史を調べる者にとって、一番やっかいなところですね。
 天保9年(1838)は、英龍が江戸湾の備場の巡視役に選ばれた年で、川路に認められると同時に以後、鳥居耀蔵との複雑な関係が始まるようです。
 天保3年(1832)から同12年(1841)までは山本大膳支配地(狭山の栞)で、この時代、東大和市域の村々はどのようになっていたのか、興味津々です。
 天保12年3月28日に山本大膳から狭山丘陵周辺は江川家に、「当分御預かり所」と変わります(東村山市史資料編7p452)。仰るように、江川の功績が認められたことが推測されます。
 同時に、江川は高島秋帆の門人になって、砲術伝授者になっていますから、老中水野の軍制改革に合致したのだろうかとも推測しています。
 この時代に取り憑かれると、寝ていられませんね。又々、面白い話を聞かせて下さい。
 
 
#1218 野火止用水さま
江川英龍が沿岸警備の重要性を認識しだすのが天保年間ですから、幕末はすでにその頃スタートしていたといえるのでしょうね。
そして、仰るように砲術を習得したり、実際に銃の生産に乗り出したりする頃、狭山丘陵がその支配地域に入るわけで、この辺りの村々と代官所との関係を詳しく知りたいところです。
加えて興味があるのが、英龍亡きあとの代官支配地域です。
かつての村々から、もっと史料が出てきて、いろいろな裏付けがそろうと面白いのですが。

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