文久3年(1863)の春、江川代官所から奇妙な取り調べがありました。
江戸から10里以内の支配地にある身元よろしき者の居宅を調べて、その書上げ帳を
提出せよというんです。
「先だって命令しておいたことであるが、江戸10里内における支配所の村において、
村役人はもちろん小前の者たちの中で、身元が確かな者の居宅を取り調べるという
ことだが、目安がなくてはまちまちになってしまう。
身元が確かかどうかにかかわらず、家の畳数が20畳くらい、部屋数
3間より広い家を取り調べるつもりと心得なさい。
また、最近は諸家の家族や江戸の町人たちが立ち退いて、そこを話し合いで借り受け
ていることもあると聞くが、この分は除いて、それらを確認して別紙の雛形のとおり半紙
竪帳2冊にして差し出しなさい。
ただし、先だって言ったとおり、絵図面は差し出さなくて良い。
一、宿場、旅宿屋などの中で手広の所があっても、旅行休泊もあることであり、全ての
宿方は取り調べるに及ばない。
一、寺院は本寺の触頭で取り調べるはずなので、これもまた取り調べるに及ばない。
右の通り心得て、最も早く取り調べたことを差し出すべきこと、以上。
亥(文久3年・1863)4月3日 御役所日付 」
※触頭・・・本寺配下の寺に寺社奉行からの命令を伝える役目の寺村々の中で、広い間取りのある家を報告しなさいというんですね。
どういうコトでしょう。
渡辺篤史がロケに来るんで、セレブな邸宅を用意しておけとでもいうのでしょうか?勘のスルドい読者の方なら想像がつくかと思いますが、違います。
村民の土地といっても、旅籠として営業している家や寺院は入れず。また、江戸市中に
借家権を持っている家も入れず。村々にある住居そのものだけが対象のようです。
蔵敷村でも杢左衛門さんたち村役人が中心となって、村内のセレブ邸宅を書き出します。
といっても、そんなに広くない村ですからそう多くはありません。
「手広住居書上げ帳
武州多摩郡 蔵敷分
一、12畳敷 10畳敷 8畳敷 3間畳数30畳 組頭 重蔵
一、8畳敷 8畳敷 8畳敷 3間畳数24畳 同 吉右衛門
一、12畳敷 8畳敷 8畳敷 4畳敷 4間畳数32畳 名主 杢左衛門
これは話し合いにより、御書院番朝岡重三郎様のお立ち退きでお貸し申し上げて
いる分です。
一、10畳敷 8畳敷 6畳敷 3間畳数24畳 百姓 武左衛門
これは話し合いにより、伊賀衆御家人深沢栄之助殿のお立ち退きでお貸し申し
上げている分です。
右に書上げ奉りましたように相違ございません。
文久3亥年4月 右村 百姓代 平五郎
組頭 重蔵
名主 杢左衛門
江川太郎左衛門様 御役所 」 村には4家の条件にあう住居がありました。当時のことですから、当然洋間などないわけ
で、あとは囲炉裏のある勝手があるくらいでしょうか。
杢左衛門さんと武左衛門さんは、幕臣の江戸にある屋敷と交換して彼らに家を貸していた
ようですね。彼らはどんな人物でしょう?
書院番とは幕臣の中でも旗本が勤める、五番方と呼ばれる将軍の直属常備軍の中の一つ
です。五番方には大番、書院番、小姓組、新番、小十人組の5つがありますが、その中でも
書院番は小姓組とともに両番といい、最も格式が高かった部署です。
通常は江戸城内の門の守備などをして、将軍が出かけるときには護衛につきます。
定数は10組(時代によって前後)で、各組に番頭1人、組頭1人、番士(組衆)50人が
いました。番頭の役高は4000石、組頭は1000石と相当な格式です。
朝岡重三郎さんには役職が書いてないため、平番士かと思われますが、それでも役高は
300俵。およそ120石に相当しますので、やはりエリートです。
伊賀衆とは、伊賀出身の郷士で幕府に仕えた者をいいます。伊賀ものともいって、諜報
活動をしていた者たちです。深沢栄之助さんも御家人とあるように身分は高くありませんが、
大奥の警備などもしていました。
ちょうどこの頃、東禅寺事件(文久元・2年)、生麦事件(文久2年)など外国人を日本人が
殺傷する事件が相次いだため、江戸では外国との戦争になるのではないかとウワサが
立ち、何か地方に縁故のある者は家族を疎開させていたんですね。
このことは以前にもブログで書きましたので、参照してみてください。
「文久を駆け抜ける!」(

クリック!)
朝岡さんも深沢さんも番方・・・つまり役方(役人)ではない軍人系の幕臣ですから、いざと
いうときのために家族を蔵敷村に疎開させていたのでしょう。
・・・っと、話がそれてしまいましたが、江川代官所からの「手広住居書上げ」。
いったいどのような目的があってのことでしょう。実はこれには、前年・・・つまり文久2年に起きた、ある騒動が絡んでいたのですが・・・
それは、次回のお話で。


これは青梅市新町にある
「旧吉野家住宅」です。
囲炉裏のある板敷の勝手を含めると6間ある「整形6ツ間型」。
蔵敷村の住居はこれよりも小さかったかもしれませんが、幕末期の代表的な
名主住居です。


お知らせ

ワタクシこの度、他のブログでもマンガを描かせていただくことになりました。
東大和市の広報活動をする市民サークルのブログ
「東大和 市民ネット」(
入口) です。
ワタクシの他にも、東大和市民の方が情報をたくさん載せていますので、ぜひ
遊びに来てくださいね


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


にほんブログ村
にほんブログ村
人気ブログランキングへ
スポンサーサイト
この時の疎開について、小野路村・小島角左衛門さんの日記、3月13日によると
江戸表では武家・町人らに至るまで厳重のお触れがあったそうです。
旗本に対しては「それぞれ自分の知行所へ引き取りなさい、
蔵米取りの者や知行所が遠い者は親類に頼みなさい」と命じた模様。
そして、小野路村では地頭山口氏の家を建て始めています。
鹿之助さんは、塩を大量に買い集めて「戦時の必需品であるし、
万一不足して地頭様にご迷惑をかけて不忠の極み」といったことを書いています。
当時の人々はかなりの危機感を持っていたようですね。
江戸の様子としては「武江年表」に3月初旬のこととして、嘉永6年のときのように皆恐れて、老人や女子供を遠くの僻地へ去らせ、家財道具は郊外の親戚知己に預けた・・・と書かれています。
ただ、4月にはこの噂も治まったようで「各安堵して本処へ帰れり。」と書かれています。一つの情報に右往左往する様子は、昔も現代も同じかもしれません。
コメントの投稿