江川太郎左衛門、代替わりする

伊豆韮山にある江川太郎左衛門英龍の作った反射炉が、ほぼ世界遺産になり
そうだとかで、このGWもかなりの人出があったようです。
こうなると、当ブログ開始直後から訴え続けている「江川太郎左衛門英龍を大河
ドラマの主人公に!」
計画も、まんざら夢物語ではなくなってきたかもしれませんな。

江川太郎左衛門英龍は間違いなく江戸時代末期の巨星です。
佐幕贔屓のワタクシだから言うのではなく、公平な目で見ても彼ほど有能な官吏、
戦略家、武器開発者は日本史上でもトップクラスであるのは明白でしょう。
惜しむらくは、その生活スタイル(極端なまでの質素倹約)と激務が祟り、55歳と
いう若さで亡くなってしまったこと。
時に安政2年(1855)。
いよいよこれからが幕末だっていう、その直前です。
英龍が生きていれば、幕末史は幾分違ったものになっていたのではないでしょうか。

以前にも書きましたが、江川家は世襲代官という家柄のため、英龍の息子の英敏
が太郎左衛門の名前を継いで代官の任にあたります。
つまり、日米修好通商条約、安政の大獄、桜田門外の変、和宮降嫁、といった出来事
があった頃は、江川代官所は英敏の代だったということです。

そして。

「御代官江川太郎左衛門様のことであるが、去る文久2戌年11月中にお亡くなとり遊ば
されたので、御弟の江川籌之助(ちゅうのすけ)様が御順養子になり御家督を相続
することを同年12月27日、その筋より仰せ付けられた。
今年文久3亥年2月29日に、先代までの通り御鉄砲方兼御代官を仰せ付けられ、
江川太郎左衛門様と御改名遊ばされた。
ついては御支配所の村々は、御支配請に印形を持参して罷り出るように、御廻状を
以て仰せ触れられたので、3月21日御役所へ罷り出るよう御請書を仰せ付けられた。」


代官を継いだ秀敏さんですが、24歳の若さで亡くなってしまいます。
死因については本やネットで調べてみても「急逝」としか書いてありません。恐らく病死だと
思うのですが・・・。
文久2年(1862)といえば「幕末の伝染病と、杢左衛門の表彰」クリック!)でご紹介
したように、麻疹とコレラが一緒に流行した年です。英敏さんは、このどちらかでなくなった
のかもしれません。

英敏さんには跡を継ぐ子供がまだいませんでしたから、「里正日誌」の記述にあるように
弟が順養子となり江川家の相続と、代官職を継ぐことになるのです。この籌之助(名を
改め英武)はこのとき、9歳。
今で言うなら小3です。

ワタクシのような多摩・狭山丘陵地域の住民からすると、江川太郎左衛門の幕末政策と
いうと真っ先に農兵を思い浮かべるのですが、幕府から農兵取立の許可が降りたのが
文久3年(1863)ですから、その時の代官は9歳の少年だったのです。

江川英龍の農兵政策は、元々は外国からの侵入に対して沿岸を守る、という目的のため
でした。しかし、当時は「兵農分離の大原則に反する」とのことで実現はしなかったのです。
文久3年に農兵が取り立てられたとき、その目的は、外敵よりも無宿人らによる治安の悪化
や、一揆に対抗するための自衛的措置に変わってしまいました。
それでも、江川代官所が積極的に農兵策を進めたのは、これが英龍以来の悲願だったから
と、当時の代官所は手附・手代が全てを仕切る体制になっていたからではないでしょうか。

「里正日誌」には文久3年2月18日に御役所前に張り出されていた写しとして、代官所の
手附・手代衆のリストが載っています。

「松岡正平 中村清八 柏木総蔵 上村井善平 斎藤友助 根本慎蔵 細野久蔵
●雨宮新平 梅澤貞助 三科鎮太郎 稲垣繁一郎 ●針谷昇司 増山健次郎 ●伴猪兵衛
●川崎俊平 飯塚鉄太郎 増尾賢蔵 ●吉田五三郎 三浦剛蔵 細野雅之助 ●村越永太郎
鯨井俊司 高橋柳吉 ●小池松之助 山崎兼吉 針谷豊三郎 田口鑛三郎 山田豊次郎
斎藤左馬之助 小板真之助 富沢正右衛門 秋山弥一郎」


●がついている人は「鋳立場出役」の添え書きがあります。この人たちは「湯島大小砲鋳立場」
で大砲や小銃作成の任務に就いていたものでしょう。
松岡正平は筆頭手代で韮山詰め。
中村清八は手代で、天保10年(1839)の江川英龍による江戸湾備え場巡察に、松岡正平、
斎藤弥九郎と共に随行しています。また、嘉永6年(1853)には湯島での大砲鋳造御用掛に
任命されています。
柏木総蔵も中村と同じく、嘉永6年に湯島の大砲鋳造御用掛に就いていますが、江戸詰めの
筆頭格で英龍の秘書的な存在でした。
上村井善平は書かれてある史料を見いだせなかったのですが、「里正日誌」には「手附元締」
と彼のことを書いてあります。
おそらく、この4名が文久3年時の代官所のリーダー格だったのではないでしょうか。

松岡正平の長男は柴弘吉(同じく韮山詰め手代の柴家の養子に入る)、次男は松岡磐吉
いいます。
彼ら二人は英龍の小姓として教育を受け、長崎の海軍伝習所に派遣され、その後幕府海軍
に進みます。維新後は弘吉は長鯨丸、磐吉は蟠龍の艦長となり、榎本武揚と共に北海道へ
渡りました。
つまり、この兄弟は最後まで旧幕方として戦ったのです。

一方、柏木総蔵は鳥羽・伏見の戦いで幕府方が大敗を喫すると、いち早く新政府に恭順。
江川家を存続させるために奔走しますが、その甲斐あって維新後には支配地がそのまま
韮山県として新政府から認められることになりました。
言葉は悪いですが真っ先に幕府を切り捨て、新政府についたことになります。

松岡兄弟は手附・手代一覧表に名前が無いように、この時期にはすでに代官所を離れ
幕府海軍の所属になってはいましたが、元々英龍の家臣という立場は柏木と一緒です。
しかし、彼らが維新後に全く違う道を歩んでしまうことになるのは、柏木の行政官として
の立場と松岡兄弟の幕兵としての立場との違いはあるでしょうが、代官所が英龍の時代
から大きく変わっていったことが影響しているのではないでしょうか。

すでに過去記事でご紹介したように、賄賂なども通るようになります。
江川家に与えられた「世襲代官」という特別ルールが、この文久あたりを境に江川代官所
を変えてしまったと言えるでしょう。
このことは支配地域へも大きく影響します。
文久から維新にかけての、まさに幕末クライマックスのとき、江川代官所はどうだったの
か?支配地の村々は代官所をどう見ていたのか?今後をどう予測し、どう対処していった
のか?
それがわかれば、幕末期江戸近郊のリアルな世界が見えてくるでしょう。
まだまだ追ってみたいと思います。

・・・さて。最後にもう一つ別の話題。
一覧表に斎藤左馬之助という名前があります。
これがちょっと、気にかかる。
幕末がお好きな方、「江川英龍を大河ドラマに」運動を繰り広げていらっしゃる方はご存知
のことと思いますが、神道無念流「練兵館」を開いていた剣術家の斎藤弥九郎は、英龍と
親交があり、彼の手代となって活動していましたが、その手代として名乗っていたのが
斎藤左馬之助という名前なのです。
ということは、この一覧表に出ている左馬之助は弥九郎のことなのでしょうか?

安政年間に(おそらく英龍が亡くなった後)弥九郎は長男に弥九郎の名前を譲り、隠居して
篤信斎と名乗るようになります。このとき、まだ別名として左馬之助を名乗っていたのかが
わかりません。
もし仮に一覧表の左馬之助が篤信斎だったとしたら。寛政10年(1798)の生まれですから
文久3年には65歳になっています。
手代を勤めるには、ちょっと高齢かな・・・とも思うのですが・・・。

どなたかわかる方、教えてください!

メガ36

9日、10日と東京都日野市では恒例の「新選組まつり」でした。
・・・が、今年はワタクシ都合が悪く、見に行くことができませんでした。
Twitterなど見ると、パレードはまた一段と盛り上がっていたみたいですね~。
見たかったなぁ・・・。

ただ、9日の「歳三忌」にはなんとか時間を作って、参加することができました。
石田寺でご焼香もして参りました。
次回、ご報告いたしマス。

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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#1170 剣術砲術経世家
江川英龍さん主役で大河ドラマをやったら、きっと面白いでしょうね。
実際の活躍がすごすぎて、すべてを1年で描くのは難しそうですけど。

文久3年には、斎藤弥九郎は手代を退き、篤信斎を名乗っていたでしょう。
「左馬之助」を長男以外の子が継いだ、というわけでもなさそうですよねー…
篤信斎は、退職後も洋式砲術の訓練を行なっていたという話ですから、
江川家とも相談役のような立場で協力関係が続いており
そのため形式的に籍を残してあったのかも…などと想像しました。
戊辰戦争の時、彰義隊からの勧誘を断わったそうですし、
そうした面でも江川家と同調していたような印象を受けました。
#1171 東屋梢風さま
英龍さん主役の大河なら、水野忠邦、鳥居耀蔵、阿部正弘、佐久間象山、高島秋帆、川路聖謨・・・とキャスティングも賑やかになると思うのですが。

その中の一人、斎藤弥九郎です。
仰るようにワタクシも代官が代わっても、弥九郎は代官所に関わっていた可能性が高いように思います。もしかしたら、英龍から遺言のような形で後を託されたのかもしれませんね。
そーなると、ますますドラマに描いて欲しくなりました。
#1173 斉藤弥九郎
私も江川太郎左衛門のドラマ化は賛成です。彼の存在が後の維新にどう影響した、とかまで、無理に広げなくていいので…とにかく彼とその周辺の個性豊かな人々をコアに、淡々と取り上げてもらったりしたら、私的には最高に嬉しいです。
江川太郎左衛門については戸羽山瀚の研究がやはり一段早く、また正確だと思います。この中で斉藤弥九郎先生のことにかなりのページ割かれており、たしか晩年まで江川家の手代をしていた、とか書いてあったような気もします。よってこの「左馬之助」は弥九郎本人じゃないかな、と私は思うのですが。
いずれにせよ弥九郎先生、晩年の写真がいかにも達人って感じで絵になりますね。
#1176 甚左衛門さま
情報ありがとうございます。やはり、斎藤左馬之助は弥九郎(篤信斎)である可能性が高いようですね。
英龍が亡くなったとき、英敏はまだ十代。弥九郎は手代とはいっても剣術の兄弟子ですし、ブレーンとして残ってくれるように頼んだとしても頷けます。

江川太郎左衛門てドラマに脇役ででも出たことってないですよね。少なくともワタクシは知らないのですが、なぜでしょう?
知名度がないから?
吉田松陰の妹よりは、ドラマを作れると思うのですが・・・。
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