文久2年(1862)7月、江戸では大事件が発生します。
21世紀の世界から一人の脳外科医が、タイムスリップしてきたのです!ウソです。
でも、今回はあの漫画(ドラマ)「JIN」に関係のあるお話。
この年は2月に、長崎に来航したヨーロッパの船から
麻疹(はしか)が流行し
出します。これが4月に関東にも伝わり、アッという間にお江戸パンデミック。
文化・文政のときにも麻疹は流行したようですが、文久2年の麻疹はそれよりも強い
ものだったようで、江戸では数千人の死者を出しました。
ちなみにこの時、後に新選組幹部となる
沖田総司も剣術を教えに行った小野路村
(町田市)で麻疹にかかり、馬に乗せられて布田宿(調布市)まで送られています。
小野路村では、江戸に奉公にでていた村の娘数人がこの麻疹で命を落としていたので、
沖田の身も非常に案じられたようです。
この麻疹の流行が終息しないうちに、さらなる災難がやって来ます。
それが
暴瀉病の流行です。
暴瀉病とは現代でいうコレラのことですね。
この病気は安政5年(1858年)にも流行しています。当ブログでもご紹介しましたので、
よろしければお読みください。
「暴瀉病流行す!」(

クリック!)
文久2年の暴瀉病流行は、江戸でどのような被害をもたらしたのでしょうか?
「武江年表」にその記述がありますので、ご紹介します。
この部分はワタクシがヘタな訳をするよりも、原文のままの方が緊迫感が伝わると思い
ますので、そのまま書き出します。
「七月の半ばよりは暴瀉の病にまさりし急症やむ者多くこれあり。こは老少をいはず即時
兆し、吐瀉甚だしく、片時の間に取詰めて救薬すべからず。死後惣身赤くなるもの多し。
その中には麻疹の後食養生おこたりて再感せるもありしとか。又霍乱(かくらん)の類も
ありと聞けり(麻疹鳥獣にも迨《たい》して、牛馬鶏犬の斃れたるもあり)。銭湯、風呂屋、
髪結床、さらに客なし。花街の娼妓各煩ひて来客を迎へざる家多かりし。」麻疹で体力が弱くなっていたところに暴瀉病。
これが流行に拍車をかけてしまったようですね。
江戸での暴瀉病の流行は、すぐに周辺の農村へも伝わります。
日付けは未記載ですが、
「里正日誌」にはこのように書かれています。
「文久2戌年7月頃より暴瀉病が、江戸はもちろん在方までも流行し、死亡者も少なくは
ないと聞く。村々の小前一同も心を痛めていたところ、御支配御代官様の御役所より
暴瀉病の薬に関する御廻状をお触れなされた。
これによると、この薬とは上品の桂枝、同じく益智、乾姜の3種を粉末にして等分に調合
し、薬名を芳香散という。
この薬を、目方100匁(375g)ほど江戸より求め、村方の家ごとに1帖づつ施薬した。」この「芳香散」こそ、JIN先生のつくった特効薬!
・・・というなら話は早いんですが、サスガにそうではないようです。
この薬、安政5年の流行のときにも使われた薬です。
原材料が書いてあるので見てみましょう。
桂枝は月桂樹の皮。益智(ヤクチ)はショウガ科の植物で、種子が漢方に使われます。
乾姜はそのまま乾燥生姜のこと。
つまり、漢方薬ですね。
「芳香散」は現在も発売されているようです。
原材料もほとんど変わっていないようですが、効能としては胃もたれ、むかつき、胸やけ
など。コレラの特効薬ではありません。
ま、当然といえばとーぜんです。
蔵敷村名主の杢左衛門さんは、この芳香散を江戸から取り寄せて村中に配ったようで
すが、これが次のような結果を生むことになりました。
「恐れながら書付けをもって申し上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷分小前の村役人惣代組頭の重蔵ほか2人が申し上げ奉ります。
私どもの村では、石高215石7斗4升6合4夕にして、家数は54軒あります。これまで永年
に渡り御支配所から御恩沢を承り、一同冥加を長く感じ、ありがたく幸せに存じております。
(中略)
なおまた、今年8月に暴瀉病が流行して村人一同が安心できなかったときも、杢左衛門は
村中の家々残らず芳香散を施薬いたし、症状が治まるまで丁寧に諭し、とても親切に面倒を
みてくれました。
そのほか今月16日に村で火事があったときも、早速駆けつけて消防をそれぞれ指揮し、鎮火
の後には火元・類焼人たちへ相当の見舞いを送りました。
右の品々誠実の取り計らい、ことに日頃正直に実意を尽くし、村のため一心に心がけ、御用
向きのことはもちろん、その他のことも言い加減にすることなくまじめに励んでおります。
そこで、前書の取り計らいは聊かながら、このことをお届け申し上げ奉ります。以上。
文久2戌年10月26日
武州多摩郡蔵敷分 小前村役人惣代
百姓代 平五郎
組頭 半左衛門
同 重蔵
江川太郎左衛門様 御役所 」名主の杢左衛門さんが暴瀉病のときに村人みんなに薬を施したことに村人が感謝し、表彰
してくれと代官所に申し出たのです。
感謝したのは暴瀉病のときだけではありません。
その後の火事の話は
「幕末 火事の後始末」(

クリック!)のときのこと。
中略の部分はこういったことが書いてあります。
代官所が支配地域の80歳以上の高齢者を表彰したことがあり、蔵敷村では3人の高齢者が
所沢村で報奨金をもらいました。しかし杢左衛門さんは70歳以上の女性も1人加え、自宅に
呼んでポケットマネーで報奨金を出したというのです。
この村人らの申し出に、代官所も即座に反応いたします。
「申渡し
武州多摩郡 蔵敷分 名主 杢左衛門
その方の勤めぶりは正直であり村の取締りも宜しく、今年秋の異病流行のときには施薬して、
それぞれ窮民へ手当などをいたしたことは奇特なことである。追ってその筋へも達しお聞きに
なること、ますます精勤いたすべし。
戌(文久2年)12月 」杢左衛門さんは代官所から表彰されることとなりました。
優秀な名主として、公に認められたことになります。
実はこのとき、表彰された名主は杢左衛門さんだけではありませんでした。
「申渡し
武州多摩郡 日野宿 名主 彦五郎
その方の宿場の取締りは厚い心がけであり、今年秋の暴瀉病流行のときは施薬して、
男やもめと未亡人などの孤独者を憐み、米銭などを施したことは奇特なことである。
追ってその筋へも達しお聞きになること、ますます精勤抜きん出るべし。
戌12月 」日野宿の名主、佐藤彦五郎さんも同時に表彰されていました。
みなさんご存知、
土方歳三の義兄です。
さらに相州津久井の日蓮村の名主三右衛門という人も、窮民に施しをしたということで同じく
表彰されています。三右衛門さんには
「これにより褒美として銀1枚、これを遣わす」と代官所
は言っていますので、杢左衛門さん、彦五郎さんにも同額の褒美があったのでしょうね。
文久2年8月15日に江川太郎左衛門英敏さん、つまり当代の代官が亡くなっています。
12月は江川家の家督を継いだ弟の英武さんが代官になったばかり。
わずか9歳の代官です。
この名主の表彰は、一見すると村々と代官所の関係がとても良好であることを示している
ように感じますが、裏を読めば双方の心理戦が行われているようにも受取れます。
麻疹、コレラと幕末の日本を襲った伝染病。
そこに代官の交代劇が絡んで、村々では病気とはまた別の緊張感が漂っていたとするならば、
それもまた地方史の興味深い1ページとなりますね。

代官所から彦五郎さんへの表彰状を読むと、独身男女の面倒も見ていたようです。
原文は
「鰥寡(かんか)孤独を憐、」となっています。
深読みすると、経済的な支援だけじゃなくて結婚・再婚の世話までみていたんじゃない
だろうか?なんて思ってしまったりして。
肝心の「佐藤彦五郎日記」は文久年間のところが、今のところ未発見。
きっと、この表彰についても書かれてあったことでしょう。

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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内野・鈴木コンビは江戸市中への農間稼ぎでもばっちり行動をいつにし、固い絆で結ばれていたことが伝えられます。
長・土・薩による攘夷決行建議など、大きな動きを前に村人は、頼りになる者が揺らぎ始めている実態を肌で知ったのではないでしょうか。
イッセイさんの仰るとおり、代官・村人の心理戦のただ中で、何が起こっても、と村人達が結束固めをしている様子を想像します。
この時期に気になるのが、狭山丘陵辺りに住んでいた人たちが、どのくらい京都などでの情報を得ていたのか、ということです。
日野辺りであれば、かなりの速さで入ってきたことがわかりますが、東大和あたりだとどうだったのでしょう?同じ代官支配地として情報を共有することがあったのか、その辺りがわかるとさらに当時の村々の様子が興味深くなりますね。
沖田総司が布田宿まで馬で送られたと記録が残っているのは
馬の費用を小野路の人々が負担したから、のようですね。
その先はどうやって帰ったか記録が見つかっていないだけと思われますが、
あるマンガでは重症で動かせなくなり、布田で療養したことになってました。
地震に関連して「なまず絵」が出回ったのと似たような感じで、
当時「はしか絵」が大量に出回ったことを興味深く思います。
予防法・治療法も記載され、啓蒙的な役割もあった様子。
もっとも「梅干し・椎茸・そらまめは食べないほうがいい」とか
根拠不明の対策も多いみたいですが。
自分が江戸時代の人間で、かつ年寄りや幼い子供がいる家だったと想像してみると…この流行病の怖さが身を持って感じられます。
同時に杢左衛門さんがとった行動の素晴らしさも理解できます。名主が、与えられた職責以上の仕事をした誠に輝くべき瞬間でしょう。彼のような人こそ後世まで讃えられるべき英雄です。
歴史的な有名人にばかり目が向きますが、150年も後世の地元の人が、こうして取り上げてくれて本人もきっと嬉しいことだと思います。
ちなみに文久のコレラは安政のコレラほど名が通っていませんが、私の好きな博徒親分・竹居吃安の死因は、巷間言われるような毒殺や暗殺ではなく、牢内にまん延した、この年のコレラだったと私は思っているんです。
沖田さんて剣はメチャ強かったろうし、だから運動神経も優れていたと思うんですが、やや虚弱体質の気があったのではなかろうかと思います。どうでしょう?
「武江年表」を読むと、あるお屋敷で麻疹のまじないをしたら、群衆が山のように押し寄せたとあります。現代人は病気の解決策は医療が100%と考えますが、わずか150年前はまじない事も大きな解決策だったのですね。
こんな時代にJIN先生が現れたら、そりゃ神ですね。
ちょっと調べただけなのでわからなかったのですが、代官の江川英敏が亡くなったのも、この麻疹かコレラじゃないかな・・・と思うのですが、どうなんでしょう?
今年も発生するかもしれないと、都内ではデング熱を警戒しているようですが、医療の発達した現代でも恐ろしい伝染病。当時はまさに死と隣り合わせの心境だったでしょうね。
全国の地方史に、どれほどの偉人がいるのだろうかと思います。そのほとんどの人が埋もれてしまっているのでしょうね。地方史を勉強していくのは、こういった人を発掘していくことに楽しみがありますね。
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