「火事と喧嘩は江戸の華」なんてコトを言いますが、それだけ昔の日本は火事が
多かったのですね。家が木と紙で作られていて、おまけに冬は空気が乾燥する
環境ですから火事が多いのは仕方のないことだったのかもしれません。
人口の密集している都市部で火災が起きれば、大惨事となることも多かったの
ですが(明暦の大火 1657年 死者10万人 など)、江戸周辺の農村で火災が
発生したとき、人々はどう動き、どのような対処が取られたのでしょう。
文久2年(1862)10月に、蔵敷村で民家数軒を巻き込む火災が発生しました。
この一件について
「里正日誌」は細かく記録を取ってありますので、それを見ながら
当時の火災を追ってみることにします。
火事が起きたのは10月16日の早朝でした。
出火元は蔵敷村の百姓銀右衛門さん宅。
村人らがすぐに消火に当たりましたが、その日は強い北風が吹いていたようで銀
右衛門さんの物置なども焼いたほか、南にあった同じく百姓の長吉さん、市郎右衛門
さんの家まで類焼してしまいました。
鎮火後、代官所に提出された報告書は以下の通りに書かれています。
「武州多摩郡蔵敷分の百姓銀右衛門の家から、昨日16日朝六ツ時(午前6時)頃に
出火した。早速近所の者たちが駆けつけ、一所懸命に消火に当たったが、折から北風
が強く吹き消し止められず、書面の家々が類焼し焼失した。
鎮火の後で火元の様子を確認したところ、前日の15日暮れ時に、勝手土間のかまど際
より取灰して水をかけておいたけれども、火の気が残っていたと見えた。
この取灰より出火したという過失である。
人馬に怪我はなく、不審火ということはございませんが、銀右衛門はこの始末を恐れ
いって菩提寺へ入り謹慎しています。
このことを訴え奉り申し上げます。以上。
武州多摩郡蔵敷分 百姓銀右衛門
組合兼
文久2戌年10月17日 親類 百姓 市左衛門
村役人惣代 組頭 吉右衛門
江川太郎左衛門様 御役所 」「書面の家」というのは、この書状の前文に出火した家と類焼した家が書き出されている
ので、それを指します。内容は、
「火元 百姓 銀右衛門
居宅1棟 土蔵上家 物置小屋1ヶ所 木小屋1ヶ所 味噌小屋1ヶ所 下家1ヶ所
類焼 百姓 長吉
居宅1棟 物置小屋1ヶ所 穀箱1ヶ所 下家1ヶ所
類焼 百姓 市郎右衛門
居宅1棟 」書状には「焼失いたし・・・」とあるので、これらの建物が全焼したということでしょう。
かまどの火の不始末が原因のようですね。失火原因としてこのケースは多かったの
ではないでしょうか。
以前、放火の例も上げましたが、その場合は物置などに火をつけて、人々が驚いて
消火している間に母屋から金品を盗むというモノでした。火元が家の中だったので放火
ではないと判断したものと思います。
銀右衛門さんは菩提寺に入って謹慎していますが、火元となった家の主は代官所から
の裁定が下るまではこうすることが慣例化していたのかもしれませんね。
村では早速、江戸の代官屋敷に人を遣わし、現場検証(検分)の願いを訴えます。
17日に村からの書状を受け取った代官所は、高橋柳吉という手代を派遣しますが、
江戸屋敷から蔵敷村までは支配所外の土地も通るため、継ぎ立てに支障がないように
人足を差し出すなどの用意をしておくように先触れを出しておきます。
そのように手配した上で、高橋さんは18日朝六ツ時(6時)に江戸を出発します。
「(高橋様は)10月18日中野通り小川宿より夕七ツ時(20時)頃、お越しになった。
着いてすぐ火事場のご検分を済まされ、名主杢左衛門の家でお泊りになった。
その夜のうちに御検分書を書かれ、御吟味を済まされた。火事場の絵図面を差し出し、
翌19日の朝出立して御帰りになりました。」村に着いてすぐ現場検証とは、相当大急ぎです。夜の8時ではすでに暗かったでしょう
し、ちゃんとできたのでしょうか?予め事件性がないとの報告があったので、形だけ
みたいなことだったのでしょうか。
検分には高橋さんの他、銀右衛門、類焼した長吉、市郎右衛門の火災関係者。百姓代
の平五郎、組頭の半左衛門、常七、吉右衛門、重蔵ら4人、名主の杢左衛門と6人の
村役人が同席しました。
現場検証を終えると、出火元への吟味となります。
「この度の火元の銀右衛門が申し上げます。今年50歳になり、石高18石あまり、家族は
7人で農業渡世をしております。
当月15日は稲干し並びに稲こきなどで夜更けまで農作業をして、すっかり寝込んでいた
ところ、16日の明六ツ頃に怪しい物音に目覚め、立ち上がって辺りを見るました。すると
家の勝手から出火しており、驚いて「火事だ」と呼びたてると、近所の者たちが早速駆け
つけ、村内の者、村役人らが追々駆けつけ一同消火に当たりました。
しかし、折から北風が烈しく、萱葺きの家なので飛び火して消し止めることが難しく、居宅
は焼失し類焼の家もありました。
出火の原因は、夜にかまどの灰を取り、よく湿らせて家の外に捨てて置いたところ、この
灰に火の気が残っていて風が烈しく吹いたので、出火したといえます。
他に怪しいこともなく、全くの過失に違いありません。畏れ入りましたので鎮火した時から
隣村の芋久保村の新義真言宗蓮花寺へ入り、謹慎しています。」取り調べは高橋さんの宿舎となった杢左衛門さんの家で行われたのでしょう。
銀右衛門さんがなぜわざわざ隣村の寺に入ったのかといえば、蔵敷村は元々奈良橋村
の一部だったので、村内に寺がなかったからです。
続いて類焼の被害にあった二人からも調書を取ります。
「この度類焼にあった者が申し上げます。火元の銀右衛門が申しました通り間違いなく、
同人は平日より実直な人柄で意趣遺恨など受ける者ではありません。怪しいことは及ばず
全くの過失で類焼しましたので、火元に対して少しの申し分や願いの筋など毛頭もござい
ません。」ということで事件性はないことが証明され、村役人たちが奥書印形をして代官所に提出。
以上が火災が起きたときの処理の仕方だったようです。
まぁ、それほど想像していたコトと大きく離れてはいない感じでしょうか。
ところが、ここからが江戸時代っぽい話になります。長くなりましたので「続き」からご覧ください。
高橋柳吉さんは江戸に帰るときに
「当村出火の検分として宿泊した際の木銭米代(燃料費・食費)は、追って御役所
より受け取るべし。以上」と言って、木銭52文、米代164文、合計220文(ちょっと多い)を書き上げています。
かかった経費は代官所が持ってくれるんですね。
けっこう親切!
・・・なんて思ってたら。
この書上げ状の後ろに、小さい字で杢左衛門さんのメモ書がありました。
「右の通りにご検分が済んだが、出火当日より10日目に御役所へ出頭するように申し
聞かされた。
19日の朝、(高橋様が)杢左衛門宅をお立ちになったので、小川村名主の九一郎宅
へ見送りに罷り出て、同人宅でお暇を申上げて帰宅した。そのときお肴代と
して金2両、御付口金2分を差し出し申した。
10月26日、御支配御役所へ火元の銀右衛門、類焼した両人の代理で市郎右衛門
の親類の重蔵、村役人惣代で名主杢左衛門の都合4人が罷り出た。
御掛り公事方助役の三浦剛蔵様より、火元の銀右衛門へ慎んで糺すようお聞かせ
下され、一同お受けしての口書証文をお読み聞きの上、印形して勝手次第に帰村
するべしと仰せ聞かされた。
尤も、御同人様へはお肴代として金1分を差し出し申した。」・・・てことで、結局2両3分のお金を検分のお礼として、お役人に払ってるんですね。
火事の現場検証など、代官所として当然やるべき仕事だと思うのですが、こういうこと
へも心付けが必要・・・というか慣習化していたのでしょうね。
江戸時代は火事も大事ですが、その後の対応も大変です。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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このときの時代背景を考えると、NHK大河ドラマの久坂玄瑞が「廻瀾条議」を提出、松平容保が初代京都守護職に就くなど、猛烈な対外的圧力の中で、若輩の江川英武(確か9才)が韮山代官に就いています。
この事を考え合わせると、当時の代官支配の実相と杢左右衛門たちの行動が重なって見えてきて、おそらく急速に発言力を高めたと思え、とても面白く読ませて頂きました。
仰るように文久2年に英武は小学3年生くらいの年齢で代官になっていますね。父の英龍が30代半ばまで代官見習いをしていることを考えると、この代官就任はあまりにも形だけのものと言えるでしょう。
ワタクシが知りたいのは、ここから明治に至る幕末の一番重要な時期に、江川代官所はどのような命令系統で動いていたのかということです。
後に手代の柏木総蔵はいち早く新政府に接近しますが、同じく手代筆頭格の柴弘吉・松岡磐吉兄弟は榎本艦隊に従って箱館戦争を戦い抜きます。
この結果から見ると、幕末の江川代官所は少年代官を挟んで色々な思惑が乱れ飛んでいたのでしょうね。その辺りの事情をとても知りたいと思います。
おそらく、杢左衛門さんたちもその辺りを慎重に読んで、行動していたのでしょうね。
銀右衛門さんが寺で謹慎したのは、火事を出した反省に加えて、直後の興奮から
類焼した家の人達ともめたりするのを防ぐ意味もあったかもしれませんね。
現代の感覚では「役人に金を渡す=賄賂=不正」みたいに見えますけど、
持ちつ持たれつの円滑なおつきあいを期待する心理はあったにしても、
悪質性はなさそうに思えました。
武士階級は家柄や格式を誇っていても経済的には苦しかったそうですから、
領民の側もそれを察して心付けを渡した、という気がします。
田舎の祖母は生涯を通じて出納帳のようなものを付けていて、
社会的付き合いで、幾らお金を出して、幾らお返しをしたか、とかを非常に厳格に記録しています。私や親の代からすれば、ちょっと異常とも思える厳格さなんですが、昔の人には当たり前のことのようで、お返し金の相場とかも暗黙のうちに定められているんです。
海外のチップとかにも言えることでしょうが、お金のやりとりにはその時代・地域特有の流動的なルールがあり、決して今日の私たちの常識からだけでは判断できないものがあるようですね。本件はその良い例のように思います。
銀右衛門さんが寺に行った理由は、ワタクシも仰る通りだと思います。この時代の寺の有効性について、また一つ勉強した気がいたしました。
代官所に礼金を払った件ですが、まさにそうですね。
現在では、こいしたコトをハッキリと賄賂としてしまいますけれど、こういう文献を読むと日本にはこうしたコミュニケーションの取り方が昔からあったんだということがわかります。
しかし、こういうお金でも決して受け取らなかった英龍さんの時代がすでに終わっていて、手代らが仕切る代官所になっていたのだなということもこの史料からわかるということで、江川代官所の推移を知るにも恰好の文献だと思っております。
東屋さんへの返コメでも書きましたが、習慣として確かにあったのでしょうね。
ただ、江川代官所が英武の代になって変化してきていることは確実で、杢左衛門さんら村の指導者は、こういう金銭のやり取りを通じて巧に代官所がどの方向を向いているのかを探っていた可能性もあると思います。野火止用水さんの仰るトコロですね。
こうした部分も幕末の様相を表していて、面白いと思います。
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