和宮さま御下向す!

「里正日誌」もいよいよ文久年間に入ります。
文久は3年間あるのですが、「里正日誌」ではこの3年間のまとめ方がちょっと特殊に
なっています。

●文久元年里正日誌  文久3年間に起きたことの記載
●文久2年里正日誌  組合、他村に関する記載
●文久3年里正日誌  農兵に関する記載(明治まで含める)


このように、その年の出来事を書くというよりも、各テーマについての記事を振り分けて
記載する、というようなまとめ方をしています。
ただ、これも完全に分けているというものでもなく、文久3年の農兵の話題が元年の日誌
に載っていたり、以前ご紹介した元年の「由五郎事件」クリック!)も2年の日誌に
書かれているといった具合。
現在は「里正日誌 第8巻」として万延~文久までが一冊にまとめられていますが、一つ
の事件・テーマが飛び飛びに書かれているため、シロートのワタクシだと見落としが出て
くるかもしれません。そのあたり、ご了承くださいませませ(さだまさし風)。

さて。
文久元年最大のイベントといえば「家茂将軍と和宮様のロイヤル
ウェディング」
、これに尽きます。
当ブログでも「ロイヤルウェディングは助郷で」クリック!)で、その行列のために助郷に
駆り出された村々の様子をご紹介しました。
ただその時点では「里正日誌 第8巻」が発売されていなかったため、他の史料を当たって
記事を書いたのですが、現在はその部分が「里正日誌」の中から読めますので、追加として
史料をご紹介したいと思います。

前回のブログ記事では、助郷を出すようにと宿場から送られてきた廻状実際に助郷に出した
人数・日数など
を書きました。
今回は、助郷を出すに当たって杢左衛門さんたち各村々の名主たちが話し合いを持ち、とり
決めた「議定書」がありましたので、こちらをご紹介します。

「一、(和宮様が大宮・浦和に来られる)14日の前々日より、御公卿様方が御通行されるので、
人馬を触書の通り用意させ、遅刻のないように召し連れて勤めるべきこと。

一、前日は桶川に入られる。当日は担当の人馬はなるべく壮健の者を選んで、少しも遅れる、
ことのないように召し連れて参ること。
食糧は握り飯を持参。差しさわりのないよう取り計って矢来(柵のこと)に詰めるので、才領
(監督官)村役人は時々見廻って取締りを怠ることのないよう、お指図の通りに取り計るべき
こと。

 人足10人につき才領は1人、村役人も人足の数に応じて付き添い、差配すべきこと。

一、泊まる宿で人馬が相部屋になったらお互い詰めて、騒ぎを起こさないように才領は付添
い、板橋宿まで大切に勤めるべきこと。
人馬札は志村坂の最寄りで取り立て、1人ごとに携えること。この札を引き上げない者は
勤められないので、追ってきっと改め申すべきこと。

  右の札を落とした場合は、上り札がなければ勤めることはできない。
  相部屋の後で、または途中で逃げ去った人足がいれば、逃げ去った当人より過怠銭と
  して2貫文を取り立てる。そのときに共犯の人足は何人いようとも逃した始末不行届き
  につき1人につき500文を取り立て、助郷で出された人馬へ残らず割り当てるべきこと。

  桶川より出した馬が途中で足を痛めたり病気になった場合は、立合い改め、宿々で
  置いてある馬の中より引き替えるべきだが、仮病を使って言って来ても容易に代りの
  人馬を差し出さないこと。」
  

長いので一旦区切ります。
なにせ2万5000人という大行列です。和宮様がいる本隊より2日も前に公卿隊の行列が
浦和入りをすることになっていたようですね。
人足の宿泊場所については、村ごとに宿が決められていたようで、別の史料によると
東大和市域では蔵敷村の人足34人・才領3人が星野屋新助、芋窪村の人足74人・才領
7人が升屋藤吉となっています。中藤村(武蔵村山市)のように人足224人・才領25人もの
助郷を出している村では人足が会津屋高吉、才領が丸屋兼次郎、森萬の3軒に分かれて
泊まったようです。
逃げ出した人足への罰金を自分たちで決めていることにも注目ですね。

「一、人馬が詰めているときに御法度と決められていることはもちろん、別に火の元は十分
注意すること。

一、この度仰せ付けられた当分(臨時)助郷の村々は何れも遠村なので、示談の上で人足
ばかりを差し出し、馬については定助郷の村で差し出すはずである。このことにつき馬士の
他は荷押し1人を差し出し、都合1疋は人足4人に代わるつもりである。

一、御時節前々より街道は通行止めになっているので、人足と村役人分の1人づつ御支配
御役所が御判鑑をお渡しになるので、御用が済んだら取り揃えて返上仕るべきこと。

一、石高100石につき凡そ馬8疋の割合で差し出すので、人が足りない村は最寄りの手空
きの村々より調達し、触当て通りに差し出せないことなどないようにいたすべきこと。

一、中山道往還の村々では、御時節のお繰越しのお荷物通行のときは、たいまつを持参して
いるので、洩れ火などは消し止め火の元は入念に心得申すべきこと。

   1村につき兼てお達しの通りたいまつは30~40本を用意し、夜越しの荷物へ差し出す
   べきこと。

一、御用が済むまでは人足、村役人に至るまで禁酒をし、無礼や手違いなどないように慎んで
勤めるべきこと。

   御支配御出役中様並びに八州御取締御出役中様がお見廻りなどをしているので、兼て
   心得違いの無いように人馬へ申し渡しておくべきこと。

一、人馬を召し連れているときは、1村ごとに到着したら名前を半紙横帳へ認め差し出すべき
こと。才領と村役人の名前も末書きに認めるべきこと。

右の通りに取り決めたので、いささかも間違いなく大切に勤め申すべきこと。これによって
議定連印いたし置くこと件のごとし。

  文久元酉年11月4日    蔵敷村 名主 杢左衛門   」


狭山丘陵一帯の村々は浦和からは遠いですから馬は出さず、その代りに馬1頭につき4人
の人足を出すことにしたようです。
蔵敷村の生産石高は215石しかありませんが、中藤村は1400石もあります。ですから人足
を224人も出すなんてことになっちゃうんですね。

それにしても、狭山丘陵一帯からなぜ浦和・大宮という遠い場所へ助郷に行かされることに
なったのか?
この距離的に無理のある村々への助郷が、どうしても解せません。

この議定書は11月4日に作られました。
公卿一行が浦和に来るのが12日。蔵敷村では11日から助郷に入っていたようです。
そんな中、こんな史料もありました。

「大至急廻状をもってご承知ください。
ついては荒川渡舟のことについて、再々御支配所御役所よりつとめてご嘆願を仰せ立てられ、
ようやく兼てお渡し申した御判鑑を持っている人は、渡舟場改めを受け舟に乗り渡れるとの
御下知が下ったとのことを仰せ渡されました。
とりあえずこのことをお伝えいたします。各村々へ洩れ落ちることのないように、早急にご連絡
ください。以上。
   酉11月9日 辰上刻(午前8時)    浦和宿  星野権兵衛

下里村 蔵敷村 小川村 大沼田村 鈴木新田 所沢村 右御村々 御名主中
                          廻し刻を付けて順にお達しのこと   」


浦和に行くのに荒川を舟で渡ったことがわかりますが、9日という直前になっての連絡です。
遠隔地に当分助郷を任せた計画からくる慌てぶりが見えますね。

メガ31


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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コメント一覧

#1097 時代の変わり目
和宮は、激動の時代に生まれてきました。
しかしその大行列のための助郷があったとは!! 
駆り出された村々も不運をかこっていたに違いありません。そんな暇もなかったかも。
#1098 助郷
私もなぜ浦和の助郷を狭山から出すのかわかりません。
それでも、素人なりに恥を恐れず考えてみると…東大和から浦和までの間に「川越藩領」や「高崎藩領」があるからじゃないか、とも思います。
所沢西部や藤久保、大井宿が川越藩領。新座の野火止、大和田、志木が高崎藩領に含まれ、これらの地域は東大和、浦和間に位置してます。この地域は藩に随ったんじゃないでしょうか。全く的外れかもしれませんけど。
むしろ、この問題、本気でその理由が知りたいです。
#1099 夜明け前
当分助郷を命じられた村々の緊張が伝わってくるようです。
それでも、必要なことをてきぱきと決めていく名主諸氏、
彼らの有能さはいつもながら素晴らしいですね。

ご存じのとおり、この降嫁行列の規模が前代未聞で、京都側1万人、
江戸側警護1万5千人、荷物運びなど5千人余と、メインだけで合計3万人余。
ひとつの宿場を通過するのに4日かかったというのも、わかる気がします。
この他に12藩による行列警護、29藩による沿道警護、現地調達の人足も加わったとか。
また、事前の道路整備工事、食事・宿泊の準備もハンパなく大事だった様子。
近郷近在がこうした対応に大わらわだったため、
助郷を遠隔地へ要請しなければならなくなったのかも?と想像しました。
#1100 降嫁 和宮様の腕
いやぁ 本当に家茂公と和宮様の降嫁行列は、素晴らしく豪勢だったようですよね。篤姫以上だったとは!
しかも、沿道の人にタダで助けて!私達、セレブじゃん?て、なんか理不尽な感じが、やはり時代を感じます。

ところで、この和宮様は左手が無かったという噂は本当なのでしょうか?
増上寺の和宮様の像にも左手はありませんし、残されている肖像画も見事に左腕がありません。

家定公の2番目の奥様も足の長さが揃っていなかったようですし、公卿や皇族方は近親での結婚が多いのか、公卿独特のダイエットのせいなのか、お身体が不自由なイメージがあります。
#1101 はんのすずさま
助郷はあまり知られていませんが、江戸時代の農村にとってかなり負担となっていた制度でしょうね。
江戸の庶民たちは200年以上も将軍家が一番エライと思っていましたから、天皇家というもう一つの権力の存在をこの時初めて知った者もいたようです。
#1102 甚左衛門さま
狭山丘陵一帯の村々は成木道(青梅街道)に面しています。この街道は甲州道中の裏街道という位置付けでしたから、助郷は府中などの甲州道中に出されるのが通常です。
これがなぜ中山道まで行かされたのか、ですよね。

ワタクシは江川代官所・・・つまり安政2年に英龍が亡くなったことから、幕府ー江川家ー支配地の関係が微妙に変わってきたことが影響しているのかもしれないとも考えています。
というのも、ご存知の通り安政5年にはこの地域が細川家の預所となりました。再び代官領に復帰されるときに、村民から復帰反対運動が起きています。これは何を意味するのか?
そしてさらに代官が代替わりした文久3年からは、江川家悲願の農兵制度がスタート。しかしそれは、英龍が当初イメージした外圧への対抗策としてではなく、一揆・賊徒対策という国内向けのものでした。

これらのことは全て関係しあっているのではないか・・・と妄想している次第です。
ぜひ、色々な方からのご意見・ご考察をお伺いしたいと思います。
#1103 東屋梢風さま
当時の名主たちの有能さは仰る通りで、ワタクシも従来の「作物だけ
作ってりゃいいだ」みたいなイメージは捨て去るべきだと思いました。

なぜ狭山丘陵の村から助郷に?という疑問についてのワタクシなりの
考えは甚左衛門さんのコメ返信に書きましたので、ご覧になってくだ
さい。
狭山丘陵の村々が出たかに関わらず、このときの行列は想像を絶する
規模だったのでしょうね。
「国史大辞典」によれば、当分助郷が各種助郷の名称と結合しない
厳密な意味で一般化したのは幕末であるとし、この和宮の行列を挙げて
いますから、やはり当時の常識も超える規模だったのでしょうね。
公武合体に賭けた関係者の思いが伝わります。

#1104 琴乃さま
助郷は対価のある「仕事」ではなく、肉体労働による「税」なので、そこが
辛いトコロですよね。経費も村負担ですから。

和宮の墓が改葬されたのは昭和33年。これによって、和宮の体格などが
わかったのですが、白骨化した遺体からは左手の先がなかったと言いますね。
増上寺の和宮像は昭和11年に作られたものですから、その結果を知らずに
作ったものと言えます。しかし、天璋院の写真を見てもわかりますが、当時の
高貴な女性は左手を袖の中に入れたままだったようですから、これだけでは
なんとも言えません。

ところが近年になって、降嫁行列の途中で休息した信州の小坂家から軍配型
の額に入った和宮の写真が発見されました。
これは検索すればすぐに出てくると思いますが、見ると左手の指を確認する
ことができます。つまり、江戸に来るときまでは左手はあったということに
なります。まぁ、この写真が別人だとする説もあるようですが。
検索すると、洋装姿の和宮という写真も出てきて、コレは見事にバッチリ
左手が写っていますが、信憑性となると・・・・?です。

#1105 No title
そうそう、増上寺の改葬の件を書き忘れていました。
改葬の際に、幾ら和宮様の左のお手を探しても、見つからなかったそうですよね。

そして軍配の写真ですが、たしかに指らしきものが写っていますが、やはり何となく指の形が怪しい気がするのは、私の考え過ぎなのでしょうか?
洋装の写真にはたしかに左腕が写っています。

でも、和宮様の洋装の写真と軍配の写真ともに、余りにも印象が違うために、どちらかが別人なのでは??と勘ぐってしまう私。

でも、写真では何れも手が写っているわけです。

では何故改葬の際に左手が無かったのか???とても気になります。
#1106 No title
こんにちは。

まぁ、上の方としては兎に角必要な労力を確保しなきゃならない、でも近在の村々からだけでは過重になってしまうから、ではより範囲を拡げて…の結果が遠方の当分助郷という理屈なんでしょうが、その意味では幕府の形を変えた「歳出超過」状態ではあったのでしょうね。その超過分を載せられる村々はたまったものではなかったでしょうね。
幕府や奉行所などの力関係も、そうした超過分が自分の村に振りかかるか否かで考えるとまた違って見えるのかも知れませんね。
#1107 琴乃さま
有名な話として、和宮が抱いていた写真の扱いを間違ってワヤにしてしまった、というのがありますよね。穿った見方かもしれませんが、どれくらい丁寧に遺体が扱われたのかちょっと疑問には思っています。
例の洋装の写真は出処がわからないので、和宮本人かというと疑問が残りますけどね。
#1108 kanageohis1964さま
和宮の降嫁は公武合体を形で現わすものですから、幕府としては大きく世間にアピールする必要があったのでしょうね。その行列も前例がないほどの大がかりなものになれば、幕府の権威も示せますし。
しかし、仰るように幕府内部でもこの降嫁をどう評価するのかという部分では、それぞれの思惑があったと思います。
#1109 管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます

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