関東取締出役事件控 博奕編

「里正日誌」は多摩郡蔵敷村を中心とした現在の東大和市の歴史を今に
伝える文書なのですが、その記事の中には東大和市域や多摩郡だけ
ではなく、もっと広範囲の地域に渡る話も出てきます。

このブログの初期に関東取締出役という、江戸時代後期に設置された
幕府の役職をご紹介しました。
「関東取締出役って・・・ナニ?」クリック!)
この役職は、水戸領を除く関東一円に、管轄の支配を超えて警察権を
持っていた、いわば江戸時代のFBIです。

「里正日誌」には、安政5年(1858)12月に取締り出役が勘定奉行に
提出した「事件と逮捕者」の報告書が出ています。
今回はそちらをご紹介して、幕末の天領ではどんな事件があり、捜査は
どのように行われていたのかを見ていきたいと思います。
ちなみにワタクシ、刑事ドラマが大好きです。

取り上げられているのは、安政5年8月から10月にかけて逮捕された
犯人らの記録です。全部で11人。事件が起きた場所は武蔵、相模、下野
と広範囲に渡っています。
報告書を出した取締出役は広瀬鐘平という人。
こんな記録が日誌に残されたのも、筆記者の内野杢左衛門さんが一村の
名主だけにとどまらず、組合で重要な役割を果たし、また江川代官と親密
な関係にあったからでしょう。

罪状は、博奕が4人、盗み・強盗が4人、追はぎが1人、強盗殺人が1人、
放火が1人となっています。
先ずは博奕から見ていきましょう。

逮捕された4人は、栄助(上州無宿)、銀次郎(上州無宿)、房吉(三州無宿)、
万兵衛(武州百姓)。もちろん、それぞれ別個の事件(博奕)で捕まっています。
無宿人多めですが、博奕は無宿人のイメージありますもんね。
実は全逮捕者11人のうち8人までが無宿人と、犯罪者の無宿人率はかなり
高いです。
やっぱりね、といった所でしょうか。
この中の一人、栄助にスポットを当ててみましょう。彼だけは万延元年(1860)
に捕縛されています。

「今年正月6日、久世大和守領内の野洲都賀郡葛生町内地において、召し捕えた
無宿栄助が、博奕をした始末を問い質しましたので左に申し上げます。
    上州籾谷村 無宿 栄助 34歳

右の者を問い質したところ、上州籾谷村の百姓惣右衛門の倅だったが、身持ちが
悪く、たびたび意見を受けたが取り合わず、去々年(安政5年)11月中に連絡も
せず出奔し無宿になった。」
(※野州は上州の間違いか)

報告書はたいてい、このような書き出しになっています。
無宿人でも自供によって、自分の出生地、親が明らかになっています。無宿となった
理由はほぼ全員「身持不宜」となっていて、個人的な素行不良で家を出たという形
になっています。これに続けて、

「久世大和守殿領分の上州都賀郡籾谷村役人へ問い質したところ、無宿栄助
の申し立てた通りに一致しました。安政5年11月中に連絡せず家出をして帰らず、
身持ちが悪くなってからはどうなったのかわからず、領主の役場へ申し上げて
帳外しにしましたことを書付けによって差し出します。」


このように、出身地の村役人から犯人の経歴のウラを取っていることがわかります。
栄助は人別帳から外されているので親類縁者とはもう無関係である、という書類が
同時に提出されたのでしょう。
そして、犯行の記録と続きます。
この栄助、現行犯逮捕された時を除いても5件の博奕を自供しています。その中で
一番最初の一件をご紹介します。

「去る(安政6年)12月24日の夜、四ツ時(22時)頃に、上州北大嶋村の河原におい
て、名前・住所を知らないもの5人で勝負をし、土台銭として5貫文を持ち出し、100
文・200文を賭ける博奕の貸元をして、寺口銭2貫文を賭けた者より取り立てた。」


時代劇など見ていると、江戸市中の博奕場は大名や旗本屋敷の中間部屋と決まって
ますが、村々での博奕場は河原とか空き地、野田といったオープンエアな場所だった
ようですね。
他者を見ても、博奕で捕まっている場合、ほとんどが貸元です。博奕を主催した者が
逮捕されるということだったようですね。

1回の寺銭の儲けが2貫文。通常、1両=4貫文(4000文)で今の価値に換算すると
10万円と言われています。しかし、幕末に鋳造された万延小判は金の含有量が低
かったので1両=10貫文で5万円の価値とも言われています。
となると、栄助が博奕1回で儲けた寺銭は1万円ほど。

「この他博奕は渡世と同様に、年月場所など確かに申し立てることは難しいとの旨を
申しますので、口書きを差し出します。」


報告書にはこのようにあって、立件したのは6件だけれど、栄助が行った博奕は何回
あったかわからないとしています。栄助はプロの博奕打ちだったのですね。
その儲けが1回で1万円とは、なんとキビしい稼業なのでしょう・・・。
もっとも、栄助は万延元年正月2日、3日、4日と場所を変えて三日連続で開帳し10
貫文余りを稼いでいます。
正月2日から博奕とは・・・箱根駅伝でも見てろよと言いたい所ですが(ないない)、それ
ほど博奕を受け入れる下地が、関東に広がっていたことが窺われますね。

博奕に関する報告書は、他の者も大抵このような形です。
ただ、4人の逮捕者のうち房吉だけは出身が三河国でした。そのため、房吉が自分の
経歴を自供したあとは

「本文の身元を確かめるべきところではあるが、遠国のため行き届き難く、彼が申し
立てたままを差し出します。」


とあって、廣瀬さんはウラが取れなかったことがわかりました。
関東一円では強い権力を持った「八州様」ですが、管轄外の土地ではなかなか思う
ように仕事ができなかったことを感じさせます。

メガ28
時代劇のウソの代表例としてよく取り上げられるのが、銭形平次の投げ銭ですね。
寛永通宝って薄くて軽いから、いくら下手人に向かって投げた所でヘロヘロ~っと
して当たりゃしません。
そこで、どうしても寛永通宝を武器にしたいという平次親分には、銭さしに通した
ままで使ってみてはどうでしょう、という提案です。
1貫文ほども繋げて使えば、「投げて良し」「殴って良し」、このスタ子ちゃんのように
「首を絞め失神させて良し」と使い方は無限大。

このネタで、マンガ1本描けるね。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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#1043 見違えました
テンプレート変更されたんですね。よそのブログに来ちゃったかと思いました(笑)

オープンエアーの博奕、「タイムスクープハンター」シーズン6の
「狙え!富くじ一獲千金」にも出てきました。道ばたの草むらみたいな場所だったかと。

イッセーさんはよくご存じと思いますが、
八州取締のために「取締組合」が設けられ、その上に惣代がいたそうですね。
杢左衛門さんなら、この惣代を務めたこともありそうに思えます。

また、惣代が八州廻りに「道案内(御用聞き)」を推薦したとか。
選ばれるのは博徒の中で顔が売れたような人物だそうですから、
例によってお詳しい方のご説明を伺えますよう楽しみにしております。

一貫文を投げたりそれで殴ったりするのは、相当な腕力が要りそうですね。
ちなみに、平次親分の投げ銭は、よく飛ぶように作られた特注品です。
ただホンモノの銭に似せすぎて町方与力に叱られてからは、
「寛永通寶」の文字を「子供銭座」に変えたそうです。ドラマには描かれませんけど。
#1044 東屋梢風さま
当ブログがスタートした時は、このテンプレートだったんです。
それが途中でプラグインがおかしくなってしまったので、前回
まで使っていたのに変えました。
ところが最近になって、あのテンプレートもマイナーチェンジ
したのか少し変わってしまったので、久しぶりにこちらに戻して
みました。プラグインも問題ないようです。
違和感がありましたらスミマセン。

さすが東屋さん。
杢左衛門さんは所沢村寄場組合の惣代を務めていますが、この
万延元年に所沢組合の「道案内」が、上総で任務中に逮捕されて
しまう事件がありました。
このとき、杢左衛門さんは惣代として「道案内」を救う嘆願書
を出しています。
このことからも、この「道案内」を推挙したのは杢左衛門さんで
ある可能性は高そうですね。
#1045 博奕打ち
日本で一番初めに博奕を行った人は、伝説では天武天皇ということになるようで。有名な網野善彦先生の『蒙古襲来』によれば、中世までの博奕打ちは「芸民」であり、遊行する職人の一種として世間に認められていたようです。それが中世後期の制度化の中で徐々にカーストの下位に押しやられていった、というのですが、私はこの説を支持しています。

そんな訳で、江戸時代の彼らの中にも、一種の芸能民としてのプライドの名残りみたいなものはあったんじゃないでしょうか。おっしゃるように、彼らの博奕のメイン会場は「野田・河原」です。大抵は小さな社のあるところで、つまり神の前で「真摯に博奕にうちこんで」いきました。日本に今日、小さな神社がこうも多く残っているのも、実は彼らの存在によるところが大きかったんじゃないか、と私は思っています。
もちろんそのことが諍いを生み、血が流れるのは困りもんですけどね…
#1046 秋津神社灯籠
連投すみません。
この時代、多摩地域で岡引になろうとする者は以下の三つのどれかの方法をとる必要があったようです。
一、組合で道案内に選ばれる
ニ、川越藩の在目明しになる
三、岡引頭・田中屋万五郎の子分になる
特に天保15年、道案内が給金制(年間八両くらい)になったため、腕に自信のある者は好んで岡引になろうとしたようです。岡引になると、芝居、相撲の興行権を得ることができました。

現在、西武線と武蔵野線が直交する秋津駅近くの、秋津神社の境内には、銀杏の木の下に古びた灯籠があり、ここに45人の名前が刻まれています。24人までは名主・惣代で、日野の佐藤彦五郎や、高松喜六などの名があります。
残る二十一人は十手持ちの親分で、川越鶴松(川越目明し)、石井伴内(坂戸市)、中藤定右衛門、所沢和三郎、師岡孫八(青梅)、高萩万次郎(日高市)といった錚々たるメンバーが名を連ねています。特に高萩万次郎は、清水次郎長の兄貴分で、武州きっての侠客です。
で、これを見ると、当時の村落の治安維持に善悪混在した様々な人が関わっていたことがよくわかるわけです。

好物の話題に完全に釣られてしまいました。しつこいコメント誠にすみません。
#1047 甚左衛門さま
知らないことがザクザク出てきます。
甚左衛門さん、ありがとうございます。

博奕打ちを現代風に「反社会的暴力装置」と解釈してしまいがちですが、打ちこわしなどがあれば、村を守るために働いたりする姿が史料にありますし、認識を大きく変える必要がありますね。
中世から近世にかけて、治世者からスケープゴートのように社会の底辺に追いやられてしまったのでしょうか?

秋津神社はワタクシの所から車ですぐですから、今度見に行ってみることにします。
これからも、いろいろとご教示ください!
#1478 秋津神社の灯籠
仁侠探訪をしている者ですが、その灯籠に刻銘してある親分二十一名の名前を教えていただければ幸甚です。一度調査しに行きたいと思っています。

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