勘定奉行 川路左衛門尉

前回のお話の続きです。

外交やら将軍継嗣やら問題が山積する中で、幕閣御一行様のまるでピクニックに
行くかのような行動。
こういった事は教科書にも出てきませんから、もうちょっと詳しく「里正日誌」を見て
みましょう。

この玉川上水御検分は当初4月13日に予定されていたようです。
2日前の11日に、江川太郎左衛門さんの支配所から次のような廻状が田無村から
羽村までの、通行ルートにあたる村々に出されています。

「御老中や若年寄の方々が、羽村の上水取水口の御検分としてお越しになる際、
一里の間ごとに馬口の洗い水を差しだすようにしなさい。
ただし、五間ほどの間隔で四斗樽の醤油樽や手桶に柄杓をつけ差し出すこと。
新品の桶を用意などはしなくてよい。
一、御通行の時は御先払人足、鉄棒引、破竹箒持人足らを差し出すことは決して
しないように。
一、御休所以外の場所に村役人が罷り出て来ることは必要ない。
一、御馬通りの橋の手入れや穴を塞ぐ必要のある時は、わざわざ人足を雇わず
そこに住んでいる者が行い、橋に手すりを付けたり砂盆その他を取り繕う事は
決してしないこと。
一、曲り道が分かりづらいところは、仮に不要の道に縄を張っておく。もっとも、
道行く人々の差支えがないようにするべきこと。
ただし、曲がらずにすむ場合は横道にまで縄張りをしなくてもよい。
一、小荷駄馬も通行することに差支えはない。もっとも、一行がお通りの間は
邪魔にならないよう控えるように、村内の馬持ちに申し渡しておくようにしておくこと。
一、道筋での商売はもちろん、屋根を葺くことなど休むには及ばない。もっとも、
御一行のお供の者へ酒を売ってはならない。


時代劇に感化されちゃってますと、お殿様が通る道筋では庶民は微動だにせずひれ
伏して、気がつかずにヒョコヒョコ出てきた婆さまが「無礼者ッ」って斬り殺されちゃう
場面しか想像できないんですが(その後、残された孫娘が仕事人に復讐を依頼)、
けっこう事実はそうでもないんですね。
むしろ、庶民に気を遣っているような印象さえ受けます。

村民たちは道路の補修など済ませて御一行を待っていたんですが、生憎13日は雨に
なってしまいました。で、21日に順延となったわけです。

東大和市蔵敷村の名主・内野杢左衛門さんや他村の名主は、前日の20日にルート
途中にあたる小川村(小平市)に集まり、江川太郎左衛門の手代から御一行が
休憩中のお世話をするよう指示を受けます。

「支配所のお手代衆は草鞋のままで外縁、あるいは土間へ手をついて敬礼を尽くして
いた。
給仕の者は草履だったので、お座敷に上がり茶菓の給仕をいたしていると、お言葉も
あり、御勘定奉行はすべて江川とお呼びなされた。当方は御老中・若年寄様方へ
越後なきよう気を付けるべく仰せ聞かされていたが、お手軽であった。
御老若様方は表白裏金の陣笠をお召しになり、堅付御着用で馬に乗っておられた。
御付きの衆も御乗馬が多く、お役人方は何れも懐中時計をご持参になり、最早何時に
なったかと聞かれ時計と引き合わせ、あるいは里数をお尋ねになるのでお答え申し
上げると腰から扇子を御取り出しになり、裏表とも内藤新宿から羽村までの道筋・
休憩所の村名・里数・橋・枝道まで絵図面に顕し、その摺板の扇面とお引き合いなされ
るので、言い漏らしのないようにしていた。」


青梅橋5
老中阿部正弘御一行さま方が通っていった青梅橋の現在です。
青梅橋は野火止用水に掛る橋でしたが、用水は暗渠となり横断歩道の下になりました。
当然、橋はなくなりましたが、地名だけが残されています。

青梅橋2

青梅橋1
案内板に書かれている江戸時代当時の青梅橋の様子です。
「御嶽菅笠」という当時の旅行案内書に描かれた絵です。


東大和市駅前
青梅橋は現在、西武拝島線東大和市駅前となっております。
写真奥に見え辛いですが赤信号があります。ココを左折すると桜街道です。
御老中さま方は、この道を羽村へと向かいました。

杢左衛門さんの日誌を読むと、かなり和やかなムードが漂います。
扇子の両面に通行ルートが細かく書かれているなんて、なんか遠足の栞みたいじゃない
ですか。あるいは江戸時代のカー(馬)ナビですか?
面白いのは、みなさん懐中時計をお持ちのこと。早速、舶来品を手にしていたので
しょうか。それをわざわざ取り出して見たりして。私も腕時計とか嫌いじゃないんで、この
気持ちわかりますね~。ホントは時間を特に確認したいわけじゃないの。時計そのものを
見て悦に浸りたいワケですよ。
男の子の趣味は今も昔も変わらんな~。

「ここに一奇談がある。御勘定奉行の川路左衛門尉(聖謨・としあきら)様がお立ちになり
御乗馬されるので御馬脇に付き添い、青梅橋方面にご案内したところ、色々とお話しした
際に、これからサンホクまで何里あるのかとお尋ねになる。羽村まで御通行の道筋に
サンホクと申す村名・地名はありませんと申し上げると、例の扇面をお見せになり、ここに
正に記してあるがどうか?と仰せになるので拝見すると、三ツ木村の内、字サンホリ(残堀)
の間違いでございますと申し上げた。すると、なるほどサンホリのリとクの書き損じ。筆者の
間違いとハッキリした、と手を打ってお笑いなされた。
その方の心遣い満足した。これまでのこと大義に思う。早々帰り、跡乗の役人へも右の趣
申し伝えよとのことで、お暇をいただいた。

実に承応年間、武蔵野嚝野、御掘割以後、今度のような大通行は未曽有のおとであった。
この日幸い晴天で都合よく、無事に夕方までに御用を済ませ、出張のお手代衆も大喜びの
由と申された。かつ、日帰り行程のことだったので、お荷物は前日少々ばかり継立があった。
しかしながら、小川村では人足600人あまりも遣い払ったようだ。」


川路聖謨さんて人は一般にはマイナーな存在ですが、幕末史を見ていく上ではかなりの
重要人物です。どれ位かって言うと、ジャイアンツなら山口くらいデキル男です。
元々は豊後(大分県)日田の下級役人の子でしたが、幼少の頃御家人の川路家の養子に
入ります。しかし、川路家は小普請という窓際中の窓際族。フツーは出世を見込める家柄
ではないんですが、彼はそこからガンバったんですね。
努力を重ねて旗本に取り立てられると、勘定吟味役、佐渡奉行、大坂町奉行、勘定奉行と
ジャパニーズドリームを邁進します。佐渡奉行として赴任するときは、大名並みの行列で
行くことを許され感激の涙を流したと言います。一生涯を幕府に捧げると誓った39歳の夏。
彼の一番の大仕事といえば、安政元年(1854)にロシアと日露和親条約を締結させた事
でしょう。若い頃に江川太郎左衛門や渡辺崋山らと、尚歯会で蘭学を学んだ経験が生きた結果
でしょうか。

でもね。こんなこと聞いたって歴史ビギナーの方にはちっとも面白くないでしょ。
わかってますよ、ダンナ。このブログならではのトシアキラ情報。

「彼ったら、とってもブサイク」

もうこの頃の人って写真とかあるから、ホントにわかっちゃうんですよね。ビジュアルが。
川路さんはそう言っちゃなんですが、ブサイク・オブ・ザ・イヤー(幕末編)受賞クラスの
見事なファニーフェイスです。
御子孫の方がいらっしゃったら、ゴメンナサイ。
あ、顔写真はご自分で探してくださいね。このブログ、私が自分で撮った写真かイラスト
以外は載せないのさぁ♡ うひょひょ。

ただ、川路さんのエライのはここからですよ。
彼は自分のブサイクを知ってて、それをネタにしてたんですな。
先ほど書いた日露和親条約交渉でのこと。ロシア側が記念にと川路さんの写真を撮ろうと
したところ、
「いやー、僕みたいなブサイクが日本の顔の代表だと思われたら困るんで、勘弁して」
と言ってロシア人たちを笑わせたそうです。
このように、ユーモアあふれる一面を持ち合わせていたんですね。
杢左衛門さんの証言からも、そんな川路さんの人柄が覗えませんか?

残堀2
現在の武蔵村山市残堀(ザンボリ)。桜街道を西へ進んだ方角になります。
この写真は残堀川に掛る橋の上に立って撮りました。
残堀川は、瑞穂町の狭山池から武蔵村山市、立川市の昭和記念公園内を通って多摩川へと
流れています。ちょうど、立川断層に沿っていると考えていいそうです。

21120911.jpg

幕末のアツき男・川路聖謨。
彼も後には悲劇の最期を迎えることに・・・。





御岳菅笠の青梅橋
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