文京学院大学生涯学習センターの「江戸散歩」。
高輪界隈を歩いております。
二本榎交差点から桂坂を下って、
東禅寺までやってきました。

ここに最初のイギリス公使館が置かれたのですが、文久元年(1861)5月28日
深夜、水戸浪士14人(一説には18人とも)が公使・オールコックを暗殺せんと
襲いました。これが
第一次東禅寺事件です。
なんで彼らがそんな暴挙に出たかというと、オールコック一行が東海道を旅行した
からなんだそうです。彼らに言わせると「神州を汚した」ことになるんだそうで・・・。
ただ、彼らはオールコックの寝室が分からず目的は果たせませんでした。幕府の
警備兵や郡山、西尾藩の護衛兵らの防戦により、ほぼ全滅してしまいます。
公使館側では、職員の英国人2名が負傷しました。
この事件で東禅寺の警備はさらに厳重になり、幕府、大垣、岸和田、松本藩兵ら
数百人でガードするという、まるでマイケル・ジャクソン来日並の(もっとか!)警備
体制になったのですが、文久2年(1862)5月29日深夜、賊が侵入し見張りの
イギリス人2名を殺害するという事件が発生してしまいました。
これを
第二次東禅寺事件といいます。
これほど警戒が厳重な中、よく犯人が忍び込めたと思いますが、それもそのはず。
なんと犯人は警備している松本藩の伊藤軍兵衛という23歳の若い藩士だったの
です。彼もまた銃弾を受けて負傷し、翌日自決しているのを発見されています。
伊東の動機は、外国人のために日本人同志が殺し合うことや、警備のために松本
藩の出費がかさみ、自分が問題を起こせば警備から外されるだろうと考えたから
だそうです。
史跡を紹介する本などによると、「寺の建物は当時のままで、事件があった時の
刀傷や弾痕が玄関の柱に残っている」と書かれています。
実際、柱を見ると柱に傷があったり、丸い穴が開いています。
ところが、お寺の方に聞いてみると、90年ほど前に建て替えてあるらしく、
柱の傷は
事件を再現したフェイクだって言うんですよね。なにもそこまでやらなくても、と思い
ますが、お寺の方が仰るのだから本当なのでしょう。
東禅寺は禅宗の大寺院でしたし、開山した嶺南禅師という方は兵法の見識があった
ので、その影響か12家の大名が菩提寺としました。
今でもそのお墓が残っているのですが、墓地へは関係者以外立ち入り禁止なので
見学はできません。残念!
東京都日野市高幡不動にある新選組顕彰碑
「殉節両雄の碑」の撰文をした、漢学者
大槻磐渓のお墓もあるので、ぜひ見学したいのですけどね~・・・。
東禅寺を出て、桂坂を引き返します。現在は消防署出張所まで真っ直ぐに伸びる道路
ですが、江戸時代の切絵図を見ると坂の途中から鍵形に曲がっていることがわかりま
す。その旧道は今も残っていますので、せっかくなのでそちらの道を歩いてみましょう。
坂道に面して江戸時代には4つのお寺があったようですが、現在は清林寺というお寺
しか残ってないようです。
再び「高縄手道」に戻ってきました。すぐ目の前にお寺があります。

門扉がなく柱だけの入口なのでわかり辛いですが、
黄梅院という曹洞宗の
お寺です。
上行寺の前にあった二本榎はここに移されたと云いますが、お寺の方に聞くと
榎の木はすでに枯れてしまい、今は残ってないそうです。
しかし、こちらのお寺。とあるパワースポットとして評判なんだそうですよ!

それがこちら。境内にある
高輪銭洗不動さまでございます!
中央の珠から湧き出る泉でお金を洗うと、あら不思議!金運が上昇しお金に
困らなくなるのです!
銭洗いと言えば鎌倉の銭洗弁天が有名ですが、こちらも同じ効果が期待できる
ようですね。ちょうど時期的に、ここで洗ったお金で宝くじを買いたいと言う受講生
の方が多くいらっしゃいました。
めでたく高額当選された暁には、ワタクシに情報提供料のご寄附をお寄せくださ
いませ。首を長くしてお待ちしております!
黄梅院を出て、少し北へ行くと日蓮宗のお寺が見えてきます。
承教寺です。
正安元年(1299)に芝に創建され、承応2年(1653)にこの地へ移転してきま
した。後に日蓮宗大学が置かれ、現在の立正大学の母体になっています。
山門の前には
二本榎の碑があります。榎の木が移された黄梅院にあったもの
のようですが、石碑だけこちらに移されたようです。

ここの山門・仁王門・鐘楼は承応2年に建てられた当時のものが現存しています。

シンプルですが、なかなか立派な仁王門です。
そして本堂前には、ひと際目立つお墓があります。

江戸時代中期に活躍した画家、
英一蝶の墓です。
狩野派に学びながら、風俗画で人気を得た画家ですが、「生類憐みの令」に
逆らって魚釣りをした、あるいは「朝妻舟図」という絵で綱吉と側用人の柳沢
吉保を風刺したという罪で、12年も三宅島に流されてしまった人です。
承教寺には、とても変わった「あるモノ」があることでも有名なようです。
それがコレ。山門の前の両側にあります。


ね、何でしょうコレ?
頭は鼻から牙の生えた人のようにも見えますし、胴体は足に蹄がある牛のよう
に見えます。
ネットでは「変わり者の狛犬」などと紹介しているモノもありますが、ここはお寺な
ので狛犬を置くことはないでしょう。
一説には
件(くだん)像と云われています。
件というのは、人の頭に牛の体を持った妖怪の一種です。
世の中に異変が近づくとき、母牛の体内から生まれて、近い将来に起こることを
予言して死ぬと云われています。江戸時代から昭和初期まで目撃例があり、
読売(瓦版)に記録されたほか、剥製にされて博物館に陳列されていたという
話もあるようです。その件は日露戦争開戦を予言したんだって。
実は牛がある病気になり、小牛が奇形で生まれると頭部が人間のような形をして
生まれることがあるんだそうで、剥製にされた件の正体はソレなんじゃないかって
今では言われてるようです。
でもそうなると、予言した話はどうなのよ?
やっぱり、「妖怪のせいなのね、そうなのね」ってコトにしといた方が面白くない?
世の中、不思議なことがあった方が楽しいでしょ、ってワタクシは思います。
ちなみにこの件像は、先代の住職の頃に檀家の方が中国から持ち帰ったモノの
ようです。ところが、それからあまり良くないことが続いたため、お寺に持ち込んで
供養してもらい、ここに置いてあるとのことです。
承教寺を過ぎると、東海大学高輪キャンパスがあります。
その前から桜田通りへ降りていく坂道があります。そこを下ります。
この坂道は、かつて南側に菅原道真を祀る祠があったそうで、天神坂という名前が
ついています。
桜田通りの大きい交差点に出ました。
道路を渡らずに、少し南に歩くとお寺があります。

現在、工事中でフェンスに囲まれていてわかり辛いですが、曹洞宗のお寺
源昌寺です。(この写真は道路の反対側から撮りました。)
ここには、幕末の冒険野郎とでもいうような、とても興味深い方のお墓があります。

それがコチラ。
増田甲斎の墓です。
甲賀流の忍者かと思うような名前ですが、違います。
甲斎さんは掛川藩を脱藩した浪士でしたが、天下国家を論じるとかいうのではなく、
博徒の仲間になったり、放浪したり、仏門に入ったり、また放浪したりと、自分探し
の旅をしたフリーマンでした。70年代でいうならヒッピーですかね。
安政元年(1854)に伊豆下田で大地震が発生し、大津波が起こります。この影響
で、沖合に停泊していたロシア艦のディアナ号が難破してしまいます。ちょうど伊豆
に滞在していた甲斎は、艦の修理で逗留していたロシア人通訳のゴシケヴィッチと
仲良くなり、なんと彼の手引きで密出国してしまうのです。
ロシアに渡った甲斎は、名前をロシア風にウラジミール・イオシフォヴィッチ・ヤマトフ
と改めて、
ロシア政府の通訳官になってしまいます。そして、ゴシケヴィッチと共同
で、初の日露辞書となる
「和魯通言比考」という本まで作成。ロシア政府内ではかな
り優遇されていたようです。
当時、外国への密航は大犯罪でしたから、甲斎も帰国は考えてなかったようです。
しかし明治の世となり、同6年(1873)にモスクワを訪れた岩倉具視ら一行から、
もう罪には問われない旨を聞き、54歳で約20年ぶりの帰国を果たします。
その際には、ロシア政府は甲斎に日本までの旅費と年金を支給したって云うんです
から、よほど大事にされていたのでしょう。
帰国してからは芝に住み、ロシア情報通として政治家や学生らが頻繁に彼の元を
訪れ、家は私塾のような賑わいだったといいます。
日本史の教科書にも出てきませんし、あまり知られていない人物ですが、ドラマ化
でもしたくなる面白い経歴の方でしょ?
桜田通りを挟んで、源昌寺の向いにあるのが
覚林寺。加藤清正の位牌や像が祀られていることから
「清正公」とも呼ば
れています。
寛永8年(1631)に日延上人によって開山されましたが、この日延という方は
文禄・慶長の役で清正が半島から連れてきた朝鮮の王子だと、寺の説明には
あります。清正は熱心な法華経の信者で、王子はその影響を受け、成人した
後に出家してこの寺を開山したというのです。
しかし、別の説もあるようです。
当時、李氏朝鮮は内部抗争があり、日本に接近したい一派が王子を拉致して
清正に差し出したというのです。清正は王子を丁重に扱いますが、秀吉から
返すように命令が下り、王子は王の元に帰ります。
日延は当時、朝鮮から連れてこられた者に間違いはないだろうが、その話が
混同されて伝わったのではないか、というものです。
日延は水仙を栽培する名人だったので、この覚林寺の土地も元々は水仙畑と
して幕府から拝領されたものだといいます。花を栽培する名人というと、王子
よりも後者の方が、正しいのかなという気がしてきます。

本堂を横から見ると、手前から拝殿・幣殿・本殿からなることがわかります。
これを
権現造形式といいます。東照宮に見られる建築様式です。
本殿は土蔵造になっていますね。
さて、覚林寺を見終えた時点で辺りはすっかり暗くなってしまいました。
実はもう1箇所廻りたかったのですが、タイムオーバー。
門を閉められてしまい、見学できませんでした。
そこで、下見のときに行った写真を載せますので、当日ご参加された受講生
の方は参考になさってください。
立行寺。時代劇などで「天下のご意見番」としてお馴染みの、
大久保
彦左衛門が寛永7年(1630)に創建したお寺です(当時は麻布市兵衛町・現
六本木)。なので大久保寺ともいいます。
山門がピンクなのが、なんでかな~と思うのですが・・・。

こちらが
大久保彦左衛門の墓です。
この鞘堂の中に宝塔があるのですが、大きいのでお堂の屋根を突き抜けて
います。周りは大久保家代々の宝塔が並んでいます。
お話では、彦左衛門には常に一心太助という正義感の強い魚屋が側にいて、
彦左衛門の右腕となって活躍いたします。
当然、これはフィクションの世界のお話です。
・・・と思っていたのですが、

大久保家のお墓の隣に、
一心太助の墓があるんですよね~。
彼は実在の人だったのでしょうか?
中がよく見えないのですが、墓碑はけっこう古そうでしたよ。
後で検索などかけてみたのですが、一説に太助は大久保家の草履取りだった
という話もあるようです。
以上、「江戸散歩」高輪編でした。
ご参加された受講生の方々、最後までお付き合いいただきありがとうござい
ました。廻りきれず、ごめんなさい。
文京学院大学生涯学習センターのTさま、小学館江戸文化歴史検定協会事務
局のUさま、お世話をおかけしました。
来年も、やっちゃう?

「妖怪ウォッチ」に、件て出てる?

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


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2回にわたる講師、お疲れ様でした。
東禅寺から先は、泉岳寺や薩摩藩蔵屋敷跡へおいでになるかとも思ったのですが、
田町まで歩くとなるとちょっと遠いし、時間も足りませんよね。
東禅寺で、安政7年1月7日の英国公使館付き通弁・伝吉殺害事件を思い出しました。
門前に立っていたところを何者かに刺され、犯人はわからずじまい。
オールコックが攘夷派の顰蹙を買った理由は、東海道の旅と、富士登山でしょう。
頂上で英国旗を掲揚、ピストル21発発射、万歳三唱、シャンパンで乾杯してます。
ヤマトフ=増田甲斎(橘耕斎)、仰せのとおり、もっと注目されてよい人物ですね。
岩倉使節団の前にも、幕府の遣米使節団とワシントンで出会っていたと聞きました。
件(くだん)の伝承は、日本各地にあるそうですが、中国にもあるのでしょうか?
中国の伝説上の存在「饕餮(とうてつ)」について、何かで読んだことがあります。
顔は人、体は牛or羊、角や牙があるとか。でも、この石像の正体は謎ですね~。
承教寺のすぐ裏が泉岳寺なんですが、道路がないんですよね。
今回はテーマが高輪だったので、東禅寺から高輪に戻りました。
ボーイ伝吉には殺害された場所が東禅寺と泉岳寺と二つの説があるようで、
東禅寺の方に聞いてみたのですが、伝吉殺害自体をご存知ないようでした。
建物を建て替えてある話が伝わっているのに、門前での殺人事件が伝わって
いないのも不思議なので、伝吉の殺害場所については機会があればもう少し
調べてみたいですね。
福島の牛さんたちは、ある意味件なのではと思ってみたり??
伝説っていつの間にか拡大されて、とんでもない一大スペクタクルなお話になっているおとが多いですよね。だから、きっと時代の転換期にそんな牛さんが生まれたのかなぁと、考えてみたり。
考え過ぎですね。スミマセヌ。
江戸時代の読売を見ると、件が現れた年は豊作になるので縁起のいい動物で
ある、と書かれています。これが明治以降になると戦争を予言したりする
不吉な妖怪になっているんですね。
時代背景とともに解釈が変わっていくというのも、人々の不安な感情の現れ
が件を借りて表現されたのかもしれません。
蛇足ながら・・・
水木しげる先生のお描きになった件はメチャかわいい小牛姿です。
ところが剥製と称した写真はチョイグロで、お子様閲覧注意です。
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