老中、阿部正弘がやってきた、ヤァ ヤァ ヤァ

日米和親条約はなんとかこちらのペースで乗り切った江戸幕府でしたが、
次いでやって来たハリスは通商条約を結ぼうと、俄然ヤル気です。
「こんな半島の先っぽじゃあきまへん。江戸へ行って話し合いまひょうや
おまへんか?」

この頃、今後の日本の未来を左右する大事件が、お隣の中国で起きていました。
「アロー号事件」です。
アヘン戦争後に清と南京条約を締結させたイギリスでしたが、港以外の内地に
入ることを制限されていたこともあり、目論見ほどの利益を上げてはいなかった
んですね。
で、「もう一回戦争でも起こして、こっちにギガ得する条約押し付けちゃおうゼ」
というトンデモない理屈ででっち上げられたのがアロー号事件です。
結局、この事件をきっかけに清はイギリス・フランスと戦争になり、ボッコボコ
にされて北京条約を結ばされ、九竜半島を割譲されてしまうんですね。

ハリスは言うわけです。
「幕府はん。外国と商売するのがイヤや言うても時間の問題でっせ。イギリス、
フランス見てみいな。清に対してえげつないことしてからに。ほっといたら
日本もあの手でやられまっせぇ。
でもワイは軍人やない、商人だす!ワイが総領事でいる間なら、アメリカと
平和に通商条約を結べるんだす!
ココは考え時やないでっか、なぁ、幕府はんッ!」

アロー号事件のことは長崎奉行を通じて、オランダ理事官からも情報が入って
きました。ここにきて幕府は通商拒否という基本ラインを見直さなければ
ならない状況に追い込まれたのです。

そんな幕府が大変なとき、幕閣の主要な人たち・・・つまり政府の首相・大臣
クラスの人たちが不思議な行動に出たのでした。

安政4年(1857)4月21日、老中・阿部正弘が幕府閣僚・役人およそ
500人を引き連れて、玉川上水羽村堰の検分にやってきたのですよ。
一行は青梅橋を通り、現在の西武線東大和市駅前から桜街道を経て羽村に
向かいました。
検分の理由ってのは、前年の大嵐の影響で破損した堰の修理状況を見るための
ものだったんですが、しかしそれにしても政府のトップ連中がみんなして行く
ってのは、どうよ?しかもこの時期にさぁ・・・!

「里正日誌」にはこのように書かれています。
「御老中阿部伊勢守様(正弘) 久世大和守様 内藤紀伊守様
御若年寄鳥居丹波守様 遠藤但馬守様 酒井右京亮様
寺社御奉行 安藤対馬守様
大御目付 伊澤美作守様
町御奉行 池田播磨守様
御勘定御奉行 松平河内守様 川路左衛門尉様 水野筑後守様 石谷因幡守様
御目付 鵜殿民部少輔様 永井玄蕃頭様 岩瀬伊賀守様

御勘定組頭 御勘定吟味役 奥御祐筆組頭 奥御祐筆 御普請奉行

御老中御三方 御侍以上36人 中間40人
御若年寄御三方 御侍以上24人 中間30人
ほか御役人衆18人 御侍以上30人 中間80人

右の御人数264人 ほかに御付きの人有り
御通行の人馬 およそ500人 乗馬90疋」


どうです、そうそうたるメンバーでしょ。
上水の検分に三奉行や大目付、奥祐筆まで行かなくてもいいんじゃね?
そう思いません?さらにお供の数を入れての大人数。
で、御一行様の当日の行動はと言いますと、

「夜四ッ時(22時)お屋敷を出発。内藤新宿北側の大宗寺で待ち合わせ。
暁八ッ時(2時)出発。夜が明けて田無村で朝食。
五ッ時(8時)小川村の名主・九一郎方で御休息。
昼前四ッ時(10時)羽村に御到着。鮎猟を見て昼食。出立。
御帰りの道中は、御老中と若年寄のお方は砂川村通りの名主・源五右衛門方で
休息。ほかのお役人衆は小川村で休息。
田無村でお弁当を食べ、御帰館」


あの・・・検分というよりも、鮎猟を見て飯食ってきただけ、みんなして
ピクニックに行ったようにしか、見えないンすけど・・・。

ちなみに、当時の多摩川は鮎が名産でして、特に羽村~日野あたりにかけての
川の中流で獲れる鮎が一番美味しいと言われたそうです。将軍家にも献上された
ようですから。
でね、鮎猟はお川狩りといって鵜飼中心の猟だったようなんですね。
多摩川の鵜飼は、長良川のように夜篝火をたいて船から鵜を操る方法ではなく、
日中に鵜匠が川に入って鵜を操る「歩行使い(かちつかい)」という方法だった
そうです。
多摩川鮎猟のメッカだった日野には、徳川将軍も何度も来て見物していったとの
ことですから、この時の阿部老中御一行さまもこの鮎猟を見たのでしょうか。

実はこのピクニック、上水の検分という表の理由の他にもう一つの影の理由が
あったのでは、と言われています。
この頃、幕府は外国問題ともう一つ大きな問題を抱えていました。
次期将軍を誰にするか、という将軍継嗣問題です。
現時点での将軍は13代家定さんですが、病弱な上に子供がいない。
そこで御三家の紀伊家から慶福さんを養子に迎えようという一派と、御三卿の
一橋家から慶喜さんを養子にという一派が幕府内で対立していたんですね。
阿部さんは慶喜さんを推すグループ(一橋派)でした。
このピクニックは、一橋慶喜擁立協議を同意見の人と図るためのカモフラージュ
だったのでは、というのです。

里正日誌の筆者、蔵敷村名主の内野杢左衛門さんは御一行接待のために、他の
村名主たちと前日の20日から小川村(小平市)に来ていました。
これだけのメンバーが大行列をなして「おらが村」にやって来るなんてことは
前代未聞のことでしたから、そりゃもう、大緊張だったようです。

しかし、休憩中の阿部さまたちはご機嫌よろしく、名主たちによる茶菓の給仕など
も終始なごやかなムードで進んだ模様です。
まぁ、影で同じ派閥同志の密議が交わされていたとしても、日ごろの激務・心労
からほんの一時でも解放されて、幕閣の方々もリラックスしていたのかもしれない
ですね。

20120904.jpg

ところがこの2か月後、阿部ちゃんの身に思わぬ
事態が・・・!!
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#73 Kさま
ありがとうございます。
ひとつ謝らなければならないのは、この阿部一行の視察の背景に将軍継嗣問題があると
書いたことについてです。これは、そのような事が書かれている資料から持ってきたもの
ではなく、あくまで私の推論であるということです。
誤解を招くような記述になってしまい、大変失礼いたしました。

ただ、私が資料としております「里正日誌」を読みますと、阿部老中一行の人選や
道中の和やか過ぎる様子を見ても、裏があるようにしか思えません。
玉川上水の取水口は大事でしょうが、あの時期に老中が先頭となって視察に行かねば
ならい程なのか。さらに、その2か月後に阿部は病死していることから、相当体調は
悪かったはずです。
阿部が病苦を押してまで、井伊などのいない場所を作りたかったのはなぜ・・・と考えて
みた次第です。

以後、誤解を与えるような記述には十分注意いたします。

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