愛宕山・芝をもっと歩く

前回まで2回に渡って愛宕山周辺と芝の「歴史散歩」ルートを書きましたが、
当日は時間の関係で廻りきれない場所がありました。
受講された方には申し訳ありませんでした。
フォロー・・・ということにはならないかもしれませんが、ご案内しきれなかった
場所や他にも面白そうな所をブログでご紹介いたします。
ちと長くなりますが、最後にマンガも用意しましたのでご覧ください。

先ずは愛宕下からです。
愛宕山の北側、愛宕通りに面して建っているのが

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真言宗の寺院、真福寺です。
老朽化などのため、建物は近代的なビルに建て替えられ、歴史ファンとしては
「・・・」なカンジなのですが、幕末エピソードはいいモノを持っています。
修好通商条約のために来航した、オランダのクルチウス、ロシアのプチャーチン、
フランスのグロ
ら使節の宿舎に使われたのが、この寺です。

また、愛宕神社の尊像だった勝軍地蔵は明治以降、ここに移されましたが、関東
大震災で焼失してしまったということです。
しかし、昭和9年(1934)に造られた銅製の勝軍地蔵が、敷地内に建っていて
見ることができます。

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勝軍地蔵菩薩像。このように馬に乗っております。

増上寺では将軍霊廟しかご案内できませんでした。
他にも見どころはありますので、ご紹介しましょう。
三門(三解脱門)を潜ると、すぐ目の前に現れるのはこの大木。

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グラント松です。写真が暗くて申し訳ないっス。
南北戦争北軍の将軍で、アメリカ合衆国第十八代大統領のグラントが明治12年
(1879)来日した際に植樹したものです。
ま、それはいいんですが、この木「グラント松」って呼ばれていますが、ヒマラヤ杉
なんだそうです。
「えっ、松じゃないじゃん!」という声が聞こえてきますが、実はヒマラヤ杉ってのが
スギ科ではなくマツ科の植物なんだそうで。
なんか、ややこしいですね。

三門を背にして右の奥に行くと・・・

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め組供養碑があります。
享保元年(1716)建立。増上寺門前の町火消し「め組」の殉難者・物故者の供養
のために建てられた供養碑です。
供養碑はココにありますが、増上寺はお寺なので寺社奉行の管轄。もし火事に
なれば町火消しではなく、大名火消しが出動しました。

すこし奥に行くと鐘楼堂があります。

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この梵鐘は東日本最大。直径1.8m、高さ3.3m、重量は約15tもあるとか。
さすがに造るのが難しかったらしく、延宝元年(1673)7回目の鋳造でようやく
完成しました。
デカいだけあって音も大きかったのでしょう。その鐘の音は遠く木更津や熊谷までも
響いたといいます。ホントかね(鐘だけに)?

増上寺の通用門にあたる黒門の近くにあるのが

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経蔵という建物です。お経を保管する倉庫ですね。
慶長10年(1605)に創建され、天和元年(1681)に改築され、この場所に移
されたのは享和2年(1802)です。
国の重要文化財である「三大蔵経」を収蔵しています。

増上寺を出て南へ進みます。台徳院霊廟惣門の前をさらに行くとここに来ます。

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芝東照宮です。
日光、久能山、上野と並んで、四大東照宮の中の一つです。
かつては家康を祀る廟として、増上寺安国殿と呼ばれていました。つまり、増上寺
の一部だったのです。しかし、明治の神仏分離令によって増上寺から分かれ、
東照宮を称しました。

この参道に大イチョウの樹があります。

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このイチョウは、寛永18年(1641)に三代将軍家光が植えたものと伝えられて
います。
そしてこのイチョウのそばに一つの大きな石碑があります。

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武田竹塘(ちくとう)先生顕彰碑です。
武田竹塘とは、本名・武田斐三郎という蘭学者です。
伊予大洲藩士でしたが、江戸に出て伊東玄朴や佐久間象山に学び、象山の
推薦で幕臣に取り立てられます。その後、英仏の航海・築城・造兵について
学び、後に戊辰戦争最後の舞台となる箱館の五稜郭や弁天台場を築きました。

ちょっと寄り道をして、増上寺の裏側に廻ります。
東京タワーの真下に行きましょう。芝公園四丁目交差点の交番の前の道路を
タワー方面に歩いていくと、お寺が見えてまいります。

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ここは金地院
家康、秀忠、家光と3人の将軍に政治顧問として使えた、高僧・金地院崇伝が
開いた寺院です。
幕末ファンなら、ぜひともここでお参りしたいのが・・・

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天然理心流三代目近藤周斎の墓です。
新選組局長近藤勇の父ですね。
周斎は武州多摩郡小山村(町田市)の出身。元の名を島崎周助と言います。
天然理心流二代目近藤三助の門下生となり、三助が亡くなった後に近藤姓を
継ぎました。
しかし、当時三助には高弟が何人もいて、周助が特にズバ抜けて実力が高かった
というわけではなかったようです。
なのになぜ三代目を名乗ることができたのか、というのは謎とされています。
ただ、他の高弟たちが本業(千人同心など)の傍らで剣術を教えていたのに対し、
周斎は道場経営を本業としていました。つまり、剣術のプロだったんですね。
さらに、江戸、多摩地域と門人を集め、その門人らは名主などの富裕層が多く、
収入もそれなりにあったことが、三代目を名乗れる理由の一つにあったのでは
ないかな・・・と思います。

再び増上寺の三門前に戻り、日比谷通りを渡ります。
通りに沿うように公園がありますが、その一角に向かい合うように二つの記念碑が
置かれています。

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一つはコレ。ペルリ提督の像
日本開国百年を記念して、1954年にペリーの出身地であるロードアイランド州
ニューポート市から贈られたものです。なぜか「ペリー」ではなく「ペルリ」となって
います。ペルリの方がちょっとカワイイ。

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もう一つ、ペルリさんの首の向いにあるのは、万延元年遣米使節
記念碑
です。
万延元年(1860)1月に、日米修好通商条約の批准書交換と視察のために、
幕府は外国奉行・新見正興、村垣範正、目付・小栗忠順らをアメリカに派遣する
ことを決めました。彼らはアメリカ艦ポーハタン号で太平洋を渡り、条約批准を成し
とげたあと、議事堂、造船所、天文台などを視察して8ヶ月後帰国しました。
この碑は昭和35年(1960)日米修好通商条約百年を記念して、建てられました。
ただ、この視察団に先だって、幕府は「オレたちの海軍もどれだけやれるか力を
見せてやろうゼ!」ということで、オランダ艦の咸臨丸を日本人クルーで操縦させ
、見事太平洋横断に成功させます。

結果的にこっちの方が、後世有名になっちゃいました。

このまま浜松町駅まで歩いていきます。

途中に廣度院という寺院があります。
増上寺の子院がこの辺りには、当時たくさんありました。

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このお寺の塀が練塀といって、芯柱を用いずに、土と瓦を交互に積み上げていく
構造をしています。現在は使われない工法だそうで・・・まぁ、耐震的にヤバそうですし。
でも江戸時代当時はこういう練塀が、ズラリと続いていたのでしょうね。

廣度院の向かい側には、安養院というお寺。

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こちらは明治11年(1878)に発足した、芝区の芝区役所が最初に置かれた
ところです。
でも、幕末的なポイントはそこじゃありません。

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こちらは海援隊二代目隊長を務めた長岡健吉の墓です。
長岡健吉は土佐藩医師の家に生まれますが、修行先の長崎で坂本龍馬に出会い
ます。海援隊では通信文書の作成など事務処理を一手に受け持ち、龍馬からの
信頼は大きかったといいます。
龍馬が後藤象二郎に示した「船中八策」を成文化したのが、長岡です。
龍馬が亡くなったあと、慶応4年(1868)4月からは海援隊の隊長を務めました。

このお寺は土佐藩関係者のお墓が多くて、こんな方々のお墓もあります。

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高知藩留学候補生の墓
明治2年(1869)土佐藩は、5人の若者を留学生として西洋に派遣することを決め
ました。しかし、その中の4人が遊郭に遊びに出かけたところ、警備中の金沢藩士と
ケンカになり、数名を殺傷してしまいます。これが藩同志の遺恨にならぬよう、4人は
藩命により切腹させられてしまいました。
このお墓はその4人の留学候補生のお墓です。手前から2つめの墓石は震災の
ためにふたつに割れてしまっています。

大門の交差点を超えて、少し横道に入ります。

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芝大神宮があります。
江戸時代は「飯倉神明」「芝神明」と呼ばれていました。
文化2年(1805)この神社の境内で行われた勧進相撲が原因で、相撲取りと
火消しの鳶衆が大ゲンカとなりました。これが、歌舞伎にも取り上げられた
め組の喧嘩です。
このお芝居の正式な名題(題名)は「神明恵和合取組」といいます。
読み方は「かみのめぐみわごうのとりくみ」。歌舞伎の名題って分かり難いね。

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境内には、こんな石碑も建てられています。
このお芝居はいかにも江戸っ子らしい喧嘩がテーマの世話物芝居ですが、
脚本が書かれたのは明治23年(1890)のこと。河竹黙阿弥が明治5年
(1872)に先行して書いた脚本をベースに、弟子の竹柴其水が完成させ
ました。

このまま真っ直ぐ歩いていけば浜松町駅ですが、駅手前を新橋方面に少し
歩いていくと港区立神明小学校・幼稚園があります。

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この構内に福沢・近藤両翁学塾跡の碑があります。
慶応4年(1868)に福沢諭吉がこの地に慶應義塾をつくります。そして明治4年
(1871)慶応義塾が三田に移ると、福沢は教育者仲間の近藤真琴にこの地を
譲り、近藤がそこにつくったのが攻玉社でした。
つまり、この場所が慶応義塾、攻玉社、両学校発祥の地となります。
攻玉社は当時、海軍士官になるための予備校のような学校で、卒業生から15人
の海軍大将を輩出し、うち4人が連合艦隊司令長官になっています。

浜松町駅のガードを潜ると、新橋寄りの一帯は再開発のため大きな工事が行われて
います。すでにマンションや複合ビル、公園など整備されている場所もありますが、
この場所が江川太郎左衛門調練場跡です。

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この場所はかつて、寛永通宝の鋳造所があったことから「新銭座」と呼ばれました。
江川家第三十六代当主の江川英龍は、海防策や農兵の建議、洋式軍隊の訓練
などで幕府に貢献します。彼の死後、その功績を讃えて息子の三十七代当主英敏
に与えられたのが、この調練場です。
8217坪の敷地は海にも面していたので、小銃はもちろん、大砲の実弾射撃まで
できたといいます。
門下生は幕臣に限らず、諸藩からの若者も多く3700人を超えました。その中には
井上馨、黒田清隆、大山巌といった維新の大物もいました。
ただ、現在は案内板の一つも置かれていないというのは、寂しい限りです。

というワケで、「江戸散歩 愛宕山・芝編」を番外編まで含めてお送りしました。
一か所でも気になった場所があれば、またゆっくりと廻ってみてください。

20141209.jpg

いつもコメントをいただいている東屋梢風さんから以前に、周斎先生は妻が9人に
妾が7人もいたという話を聞きまして・・・。そんな人なら、きっとこんなことも言いそう
だなぁ・・・と。
周斎先生が映画やドラマで扱われたのって、ワタクシは大河ドラマ「新選組!」の
田中邦衛さんしか記憶にないのですが、他にどなたか演じられましたか?
邦衛さんは、けっこう周斎先生のキャラにハマっていると思います。
・・・あくまでも「五郎」じゃなく、「青大将」の方向で。


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#940 江川調練場跡
 画像を見て、ビックリしました。自分が訪ねたときの写真と見比べて、再開発が進んで見違えるようです。
 この頃の英龍は病んでいたようです。旧暦ですが、安政元年(1854)12月13日、幕府からの出府要請に病をおして上京したと伝えられます。もちろん日時は違いますが、12月11日、優れた我が代官の事績に導かれたような気がして、拝読しました。
#941 野火止用水さま
この写真は駅前すぐのところ、旧芝離宮恩賜庭園の道路を挟んだ向かいです。
この奥にマンションがあり、さらに公園が続いています。公園あたりに行けば
何か「調練場跡」を示す案内板でもあるかと思い、行ってみましたが何もなくて
ちょっと寂しい思いをしました。
#942 フデさん出番です
咸臨丸の太平洋横断、往路はジョン・ブルック大尉ほか
アメリカ人乗組員の手助けが大きかったそうですね。
復路は日本人だけで航行できるよう、出発前に訓練を受け、見事に実現させたとか。

周斎先生の逸話は、子母澤寛が「露宿洞雑筆」に書いているのですが、
近藤勇五郎に取材して聞いたことのようです。
先生も、自分の行状がこんなふうに後世に伝わるとは思わなかったでしょう(笑)

前回の顔出し看板の件、海外でも目撃例があるとか。
ただ、国内よりは少なそうな雰囲気です。
#943 東屋梢風さま
咸臨丸が後年有名になったのは、勝海舟の影響が大きいのでしょうね。
「オレが乗ったんだから!」みたいな無理やりオーラ全開で。
船中ではけっこうゲロゲロだったようですけどね。

海外の顔出し看板、見てみたいです。
以前、イタリアのなんとかいう教会に行ったら、その教会をつくった聖人の
等身大パネルがありましたが、顔の部分は丸く空いてませんでした。
・・・惜しい!

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