芝を歩く

前回からの続きです。

青松寺を出て、愛宕通りをさらに南に進みます。
御成門小学校前の交差点を渡りたいのですが、横断歩道がありません。
歩道橋で大きく迂回しないと、道路を渡れないのです。
「不便だな~」とは思いますが、たぶん交通量の多い所なので小学生の
安全に配慮して、このようになっているのでしょうね。
そうであれば仕方がない。おっさんたちも歩道橋で上り下りします。

道路を渡ってしばらく歩くと右側にあるのが安蓮社です。
増上寺の別当寺院だった所ですが、現在は近代的な建物になっているので、
つい見逃してしまいます。山門らしきものもない。
しかし、塀で囲まれた墓域に一歩足を踏み入れると、ビックリいたします。

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ズラリと並んだ無縫塔(卵塔)の数々!
それもまたみんな、どれもこれもやたらとデカい!
ここは増上寺の歴代の僧侶方の墓地となっています。もちろん他の方のお墓も
あるのですが、半分以上は無縫塔で埋め尽くされており、圧倒されます。
入口に一番近い場所には普光観智国師という増上寺12世で、増上寺中興の祖と
云われる方のお墓がありますが、これが最も大きい無縫塔です。
この方が住持在任中に、増上寺は徳川家の菩提寺となりましたから、当然ですか。

しかし、安蓮社での幕末散策メインディッシュはこちらになります、奥さま。

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海陸軍士戦死之墓
慶応2年(1866)6月から始まった第二次長州征伐における、幕府軍戦死者の
墓碑です。
幕府はこの戦いで薩摩を頼りにしていたのですが、すでに薩摩は藩の方針を
反幕に切り替えて長州と同盟を結んでいたため幕府に協力せず、幕府は各地で
負け戦となってしまいました。
碑の側面には幕府戦死者の名前、台座にも苗字のない夫卒たちの名前が、そし
て背面には勝海舟の追悼文が刻まれています。
戦死者の葬儀は慶応2年11月25日に増上寺で行われました。大僧正ほか300
名もの僧侶が読経し、幕府陸軍・関係者10000人余りが参列したそうです。
葬儀といい、このモニュメントといい、幕府が幕府のために戦って散っていった者
たちのためにできた、最後の大セレモニーでした。

安蓮社を出て愛宕通りの突当りを御成門駅の方向に歩きます。
すぐ左手に港区立みなと図書館があります。その入口を過ぎた辺りの下を注目
してください。お金が落ちています・・・ではなく、

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何の変哲もない四角い石が置かれています。が、ただの石じゃありません。
品川台場の石垣石です。
伊豆韮山の代官であり、海防・砲術の戦略家でもあった江川太郎左衛門英龍
建議によって、台場は造られました。
全部で11の台場を造る予定がありましたが、財政難のため完成したのは第一、
第二、第三、第五、第六台場の5つだけでした。
現在、第三、第六台場だけが保存されており、他は取り壊されています。
この石は第五台場の石垣に使われていた石で、伊豆周辺の安山岩だそうです。

みなと図書館と道路を挟んだ真向いにあるのは

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御成門です。
増上寺の裏門として造られましたが、将軍が参内するときに使われたためこう
呼ばれました。元々は御成門交差点の辺りにありましたが、道路計画のために
現在はプリンスホテルの敷地内に移動しています。

御成門交差点を右折(南方向)すると、プリンスホテル敷地内にもう一つ大きい
門が見えてきます。

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左右に広目天と多聞天を配置した二天門
この二天門の後ろ、プリンスホテルの敷地は昔、増上寺の一部で北廟と云われて
いました。そこには徳川将軍第六代家宣、第七代家継、第九代家重、第十二代
家慶、第十四代家茂の各将軍と正室たちのお墓があったのです。
この二天門は有章院(七代家継)霊廟の惣門だった門です。
増上寺の木造建築物は、空襲でほぼ全て焼けてしまいましたが、この門は奇跡的に
類焼を免れたうちの一つです。

神谷町を13時にスタートした我々ですが、この時点で15時をかなりまわってしまい
ました。このコースは見どころが多い上、歩道橋を含めてアップダウンが激しい行程
なので、どうしても時間が取られます。
ワタクシの話が長いせいもあるだろって?
・・・うん。それも否定できません・・・。

で、ようやく増上寺

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カメラのフレームに入りきらない、こちらの門は三解脱門
現在は増上寺の惣門ですが、元々はこの外側にある大門から寺の敷地だった
ので、この門は中門にあたります。

増上寺の敷地は、江戸時代から比べるとだいぶ縮小されてますが、それでも
広くて見どころはたくさんあります。でも、今回は時間がないこともあって、ココ
に一極集中してご案内することにします。

IMG_0634a.jpg

徳川将軍家霊廟!!
(BGMは「水戸黄門」オープニングのジャ~~ンでお願いします)

増上寺には先ほど挙げた5人の将軍のほか、南廟に第二代将軍秀忠と
その正室(お江の方)の霊廟がありました。
戦後、それらの方々のお墓を一か所にまとめ、現在の増上寺境内に改葬
してあります。
普段は外部の人は立ち入ることができません。年に数回、公開日があるだけ
なので、見学したい場合はその日に行くしかありません。
ところが、今年は何かの記念年にあたるのでしょうか?
毎土日と祝日に一般公開されているのです!
こりゃ、見るしかないでしょう!

ただ、将軍家霊廟は16時で閉まってしまうため、すでに15時半に霊廟についた
我々としては、ワタクシが説明をするのは3つのお墓だけにして、後はご自由に
見ていただくことにさせていただきました。

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二代将軍秀忠(台徳院)とお江の方(崇源院)
の墓です。
このお二人は幕末に関係しませんが、ドラマにもなりましたので、みなさんに
馴染みも多いのではないでしょうか。
秀忠の墓は木造宝塔でした。その墓を覆う霊廟も含め戦前まで国宝に指定されて
いましたが、空襲で焼失。なんたって木造ですから。
で、改葬されるにあたって、正室であるお江の方の宝塔に合葬されることになり
ました。ということで、このお墓は元々はお江の方のものです。
まぁ、お江の方は「あンた、側室なんてつくったらボコるよ」ってくらい秀忠さんを
束縛してましたから、彼女的には満足してる形ではないでしょうか。

DSCF0893a.jpg DSCF0892a.jpg

そしてこちらです。右が十四代将軍家茂(昭徳院)、左が正室
和宮(静寛院)の墓です。
南北霊廟がこちらの場所に改葬される際、将軍の墓以外の宝塔は全て廃棄され、遺骨は
合葬されました。しかし、和宮の宝塔だけは残され、今に至っています。これは彼女が
皇女であり、明治天皇の叔母にあたるためだと思われます。当時(改葬は昭和33年)の
宮内庁から要請があったのでしょうね。
和宮の遺骨は最初京都に返されるはずでしたが、本人の強い希望で徳川家の墓域に
眠ることになったのは有名な話です。
現在、二人の墓は写真のように仲良く並んでありますが、改葬前の北廟時代も二人の
墓は並んで建っていました。実はこれって、とても例外的なコトなのです。
通常将軍の墓は地面から一段高い場所に建てられ、正室や家族の墓は将軍よりも低い
場所に建てられます。しかし、和宮の墓は家茂と同じ一段高い場所に建てられました。

さらに、二人の宝塔墓の材質に注目してください。
家茂の墓は石造りですが、和宮のは青銅製なのがおわかりでしょうか?
代々の将軍の宝塔墓は二代秀忠の木造墓を除いては、六代将軍家宣まで青銅製でした。
しかし享保の改革でおなじみの八代将軍吉宗が「お墓にそんなお金かけることなんか
ねーぜッ、経費節減だぜベイベー!」
つって、七代家継以降の宝塔墓は石造りとして
しまったんです。当然、将軍の家族のお墓だって石造りです。
しかし、和宮は皇女。しかも彼女が亡くなったのは明治10年(1877)です。政府
の意向として明治天皇に繋がる皇族の権威を強めたいという狙いがあったのでしょう。
和宮の墓が青銅製なのも、家茂と同列の場所に建てられたのもそのためでしょう。

増上寺には、和宮に関するものがまだありますので、そちらもご紹介します。

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安国殿に置かれている和宮像。等身大だそうです。
これは昭和11年(1936)に神戸の中村直吉という人が寄贈したものだそうです。
作者は三代目慶寺円長。昔よく小学校の校庭にあった二宮金次郎像の元を造った
人です。
中村さんは和宮を「日本女性の鑑である!」ってリスペクトしていたそうで、同じ
像が日本女子会館の社会教育事務室って所にもあるそうですが、ワタクシはまだ
見たことがありません。
ネットで調べると、直吉さんは神戸の3つの女学校にも和宮像を寄贈したそうです。

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もう一つがこちら。貞恭庵、和宮ゆかりの茶室です。
昭和55年(1980)に移築・改修されたものですが、江戸城にあったものではない
ようです。和宮は維新後、京都や東京麻布に住んでいたので、そちらにあったもの
でしょう。
こちら通常は一般非公開ですが、ときどきお茶会の催しをしているそうで、それに
申し込めば中で見学をしながら、お茶がいただけるようです。
ふだん「十六茶」しか飲まないワタクシには敷居が高いですが、とても興味があり
ますね。

増上寺は他にも見どころが多いので、お時間があれば行ってみれれることをオススメ
いたします。
特に12月いっぱいまでの土日・祝日は将軍霊廟が見られますから、チャンスです。
料金は500円かかりますが、霊廟の古写真絵ハガキ付きです。この中には国宝だった
秀忠の木造宝塔墓と霊廟の写真も入ってます。

増上寺を出て日比谷通りを少し南に行くと、また大きな門が現れます。

DSCF0903a.jpg

台徳院霊廟惣門です。
この奥に、かつては二代将軍秀忠の霊廟がありました。
一般的なイメージだと、初代家康と三代家光に挟まれて、秀忠さんは地味だし凡庸な
タイプと思われがちですが、増上寺に墓のある将軍の中で、江戸時代を通じて秀忠さん
だけが一人で南廟を独占しているんですよね。
このことから、草創期の将軍として、秀忠さんはかなり尊敬を集めて特別扱いをされて
いたんだろうなぁ、と想像ができます。
こちらも類焼を免れ、国指定重要文化財。門を潜って奥に見える階段を上っていくと、
霊廟水路の跡が一部復元されています。

さて、「江戸散歩」のルートはこのあと芝東照宮や芝大神宮などを巡る予定でしたが、
この時点ですでに予定時間を30分オーバー。
ということで、増上寺前で終了となりました。
希望者の方々には、浜松町駅まで寄り道しながらご案内しましたが・・・。
時間通りに進められず、ご参加の方には大変失礼いたしました。

では、最後にもう一枚。

DSCF6953a.jpg

ジャンケンで負けた方が馬に。

メガ22

ワタクシは本人だったと思いますがね。
この日に廻りきれなかった場所は、次回のブログでご紹介します。


「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」



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#936 台場と和宮
 両方とも時代を画する出来事と人物で、一気に読ませていただきました。それと共に、我が村人たちは塗炭の苦労をしていることを思い出しました。

 台場築造には、狭山丘陵の御林山の松材が用いられ、村人たちが伐り出しの人足に徴用されました。それでも、武蔵村山市に伝わる指田日記、嘉永7年2月22日に「御林山残木、一軒四把ずつ下さる」とあり、村人への還元もあったことがわかり、「ホー、村人対策も考えられたんだ」と江川さんの大変さが思われます。

 和宮江戸への道筋では、中山道大宮宿、桶川宿へ荷物運びのために、馬持ち食料持ちで出向いています。こっちは何の還元もなく、遠い道をうなだれて帰村したことが偲ばれます。
 
#937 野火止用水さま
都内の史跡を歩いていても、どこかで地元の歴史とリンクしているものですね。
そこが歴史の面白さだと思います。
台場建設と和宮降嫁のための荷物運び。村人に対してのケアに違いがあるのは、
やはり英龍さんと英敏・英武さんの違いでしょうか。
#938 乙彼佐間
タイムアウト残念でした。多人数での移動は、それなりに時間を要しますよね。
でも3時間半でこれだけ回れたなら、盛り沢山で充実した講座と思います。

静寛院宮のお墓、宮内省は豊島岡の皇族墓地に造りたかったらしい、
という説を何かで見かけた覚えがあります。
いずれにしても、ご本人の希望がかなって何よりです。

「出世の石段」の顔出し看板、前回分に写真がなかったので
無くなったのかと思ったら、健在だったんですね~よかったよかった。
#939 東屋梢風さま
文中にも書きましたが、この界隈は歩道橋も含めてアップダウンが多いので、
見た目の道のりよりも歩く距離は長めですから、ゆっくりと時間をかけて
廻りたい方は2回に分けて歩く方がいいかもしれません。

大河ドラマや小説の影響でしょうか、将軍家霊廟ではやはり家茂・和宮の
お墓の前が一番人が多いようです。

曲垣平九郎の顔出し看板。裏の方にチョコンと置かれていました。ワタクシが
下見に行ったとき、外国人の方が写真を撮っていました。外国にもああいうのって
あるのでしょうか?

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