高札~江戸のルール~

以前当ブログで高札について取り上げました。
明治新政府になったので、新しい高札を立ててくださいと村がお願いをしたと
いう一件です。「新しい高札」クリック!)
この時には、新政府が立てた高札は幕府が立てた高札と中身が変わってない
じゃないか、ということをご紹介いたしました。
幕府は庶民が守るべきルールとして、正徳、享保、明和の三期に渡って4つの
高札を立てています。明治元年の「里正日誌」では、高札の具体的な記述が
書いてありませんでしたが、万延元年の「里正日誌」には高札の内容が詳しく
書かれてありましたので、それをご紹介したいと思います。
江戸時代の庶民が守らされてきたルールとは、いかなるモノだったのでしょう。

万延元年(1860)4月4日、蔵敷村では高札が古くなり文字が読みにくくなって
しまったため、役所へ持って行き書き替えを願い出ました。そして10日に高札
はリニューアルされて返ってきたようです。
その文面が日誌に残されています。
杢左衛門さんは几帳面なので助かります。写メじゃなくて、ちゃんと手書きなん
ですからね。
まずは正徳元年に出された2枚。

「きりしたん宗門は累年ご禁制である。自然と不審なる者があるときは申し出る
こと。ご褒美として
 ばてれんの訴人  銀500枚
 いるまんの訴人  銀300枚
 立ち返り者の訴人  同じ
 同宿ならびに宗門の訴人  銀100枚
右のとおり下される。たとえ同宿・宗門の内であるといっても、申し出る内容に
よっては銀500枚が下される。匿っている他所から見つかった場合については
そこの名主五人組まで一同共に罪を着せられることになる。」


これはキリシタン禁令に関するものですね。
「ばてれん」「いるまん」は司祭や宣教師のこと。キリシタンの者はどれくらいの
量刑を受けるよというよりも、密告した場合のご褒美の値段が詳しく書かれて
いるのが特徴です。
江戸時代の農村は、五人組などお互いがお互いを監視する体制が基本でした
が、それがよく生きている文面だと思います。

「一、火をつける者を知ったら早々に申し出ること。もし、隠しておけばその罪は
重い。たとえ同類であったといえども申し出たときはその罪を許され、きっと
ご褒美をくだされることである。

一、火をつける者を見つけたらこれを捕えて早々に申し出ること。見逃したり
しないこと。
 附 怪しい者がいれば探って早々に奉行所に召し連れてくること。

一、火事が起きたらみだりに集まってこないこと。
ただし、役人や指図をする者は特別である。

一、火事場へ下々の者がやってきて、理不尽に通ることはご法度であることを
申し聞かせ通すな。承知しない者は搦め捕えよ。万が一異議に及ぶ者がいたら
討ち捨てるべし。

一、火事場その他いずれの場所にても、金銀金めのものを拾ったら奉行所まで
持参すること。もし隠して他所から出てくることがあれば、その罪は重い。たとえ
同類であったとしても、申し出た者はその罪を許されご褒美をくだされる。

一、火事のとき、地車・大八車に荷物を積んではいけない。鎗・長刀・刀・脇差
などは抜き身にしないこと。

一、車長持は停止とする。たとえ誂えたものがあったとしても作るべからず。
一切売り買いしないこと。」


こちらは火災についてのものです。江戸時代は火事が多かったので、火災に関
する注意はこと細かく書かれています。
前半は放火についてですが、やはり密告を奨励しています。共犯だったとしても
申し出れば許された・・・というかご褒美までもらえるというのはホントでしょうか?
後半の火事場泥棒についても、同じことが書かれています。
注目するのは避難時についての注意。
地車は四輪、大八車は二輪の荷車ですが、火事のときはこれらで荷物を運ぶこと
を禁止しました。
三田村鳶魚の「江戸の白波」によれば、明暦の大火のときにこれらのものが往来
の妨害になったからだとしています。
車長持とは、同じく鳶魚によると大長持というデカい箱に車輪がついたモノのよう
です。これは地車や大八車よりもかさばるし、さらにこの車長持に火がついて火災
が広がったという前歴もあり、製作自体が禁止されました。

享保6年の高札を見てみましょう。

「各所にて、もし鉄砲を撃つ者がいれば申し出ること。ならびに、御留場内で鳥を
取るものを捕えるか見つけたならば、早々に申し出ること。きっとご褒美をくだされる
ものである。」


鉄砲と、禁猟地域についての規制です。
そして最後に明和7年の高札。
こちらは明治元年の日誌では詳しい中身が語られていませんでしたが、万延の日誌
で詳細がわかりました。

「何ごとによらずよろしくない事に、百姓が大勢申し合わせをして徒党を唱え、徒党
して請い願いごとを企てることを強訴という。あるいは申し合わせて村を立ち退くこと
を逃散と申す罪により御法度とする。右のことがあれば居村・他村に限らず早々に
その筋の役所へ申し出ること。ご褒美として
 徒党の訴人  銀100枚
 強訴の訴人  同じ
 逃散の訴人  同じ
右のとおり下される。その品格により帯刀苗字を許されている間、たとえ一旦同調
しても、発言者の名前を申し出ればその罪を許され、ご褒美を下されることである。

一、右のように訴人する者がなく、村々が騒ぎ立てたときに、村内の者を差し押さえ
徒党に加わらせず、一人も差し出さない村があれば、村役人で重職の者はご褒美
の銀を下され、帯刀苗字を許されている者でもそうであれば、それぞれご褒美を
下されることである。」


「新しい高札」のブログを書いたとき、明和の高札は強訴・逃散の禁止を書いたもの
ではないかとのコメントを読者の方からいただきましたが、その通りでした。
さらにココでも密告をした場合のご褒美価格を明示して、奨励しています。

こうした基本ルールが高札に書かれ、村民は守らされました。
と同時に、村の中で村民同志がお互いを監視しあうというシステムで幕府は村々を
支配していたんですね。

メガ18


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#888
今 久々に司馬遼太郎を読んでます。空海の話なんで、関係ありませんが、
そういえば 司馬遼太郎ってアンチ家康 アンチ江戸時代のきらいがあったよなあ思って、たぶんこの辺の事言ってるんだろうなと思います。
日本人の和を尊ぶ国民性の裏に 矮小排他的な陰湿さがあるとして、
江戸時代の農民政策と結びつけて考えてる節があるみたいです。
相互監視 連帯責任 密告奨励ですからね
苦労人の徳川家が日本の農民を知り尽くした上での
政策だから長く続いたともいえるので、
卵か鶏かは 分かりませんが、
関さんの好きな解放的な町民文化とは 少し違いますね
今でも地方って そういうとこありますけどね
#889 真善美の探究
【真理と自然観】

《真理》

結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。



《志向性》

目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。



《思考》

『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』

思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)

『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』

『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』

考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。

愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。

しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」

神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。


善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活活とした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


#890 taffyさま
確かに幕府の農村対策は「陰湿」だったかもしれませんが、それはあくまで現代的
視点で見るから、そう映るのだと思います。
徳川幕府は軍事・独裁政権ですから世の中を力で抑える必要があったと思います。
これは現代人から見れば前近代的でしょうが、当時の視点に立てば一番先進的な
統治方法だったのではないでしょうか。

町人文化が開放的だったかというと、ちょっと違うと思います。
度重なる改革の度に規制の対象になるのが町人文化でした。その規制の死角を
なんとかかいくぐって新しいモノを作るのが、江戸の町人文化だったのだと思います。
規制されたからこそ、さらに進化したと言えるのかもしれません。
#891 高札
高札ってけっこうカッコイイと思いません?大きさといい、字の上手さといい。
なんというかオブジェとして、家に欲しいくらいですわ(嘘)。
私が上京して一番はじめに見たのは、埼玉の高麗の巾着田のところのやつで、やっぱりキリシタン禁制のことが書いてありましたが、すごく周囲の景色とマッチしてました。
密かに穴場なのが伊奈町郷土資料館。ここは古民家の中に史料が自由に並んでいて確か無人だったと思うのですが、高札をはじめとした状態の良い品物が多くあって、見放題。しかも無料です。

ところで「銀百枚」とかって、貰えても、きちんと買い物とかに使えたんですかねえ?この時代の金銭価値って本当わかりません。
#892 万延元年の高札書きかえ
江戸時代のお役人さまといえば、時代劇では百姓に威張りちらすムカつくオッサンとしてよくご登場なさいますが、こうして「ちょっとコレ見にくいんですけど」「はいはい、すぐ書きかえますね~」みたいに、ちゃんと行政サービスもしていたのかなぁと思うと、なんだか微笑ましいような…。
いつもおもしろい記事をありがとうございます。
#893 甚左衛門さま
高札を家の玄関とか門の前に堂々と立てて、「許可なく立ち入る者は獄門のこと」
とか書いておいたら、防犯効果があるかもしれませんね(笑)
このブログの舞台である蔵敷地域には、高札そのものは残っていませんが、高札場
は残っていますので、なんとなく往時を偲ばせます。

銀〇〇枚、という単位がどれほどなのかワタクシにもよくわかりません。
一般的に銀貨は秤量貨幣だといいますが、実際に史料にはこのように数量で書かれて
ある場合もあって、江戸時代のお金はホントに複雑ですね。
#894 御次さま
たぶん代官所によっても違うのでしょうけど、江川代官所では仕事そのものは
キッチリとやってくれている印象です。
幕府の財源は農村からの年貢が頼りでしたから、ドラマにあるような悪代官や
ブラック役所はそれほどなかったのではと思います。
元禄元年(1688)には農民の訴えをいいかげんに扱ったとして、西山六郎兵
衛という代官が閉門。貞享4年(1687)にはやはり代官の雨宮勘兵衛が農民
の争論の際に不手際があったとして切腹させられています。
現代の役人より、よっぽどハードな仕事かもしれません。
#895 頭寒足熱健康法?
高札の実物を見なくても全文を確認できるのは、
『里正日誌』第八巻が出版されたおかげでしょうか。良かったです。

「相互監視」とか「密告推奨」とか、なんとなくコワイ感じがするものの
よく考えると、官憲の数をやたら増やしてビシバシ取り締まるより穏便かも。

余談ですが、先般放送された「世界一受けたい授業」で金谷俊一郎先生が
日本で知られているフランシスコ・ザビエルの肖像は間違い、と指摘してましたね。
イエズス会の宣教師はトンスラ(頭頂を剃る髪型)の習慣がないんだとか。
#896 東屋梢風さま
おぉッ、ザビエルのアノ絵は間違いだったのですか!?
水戸黄門のヒゲ以上に、ザビエルのあのヘアスタイルはザビエルらしさの
象徴ですからね~。
むしろどんな目鼻立ちを描いたって、あの頭を描けばザビエルになるのですから。

「里正日誌」は全12巻が刊行予定ですが、18年かかって7、8,9,10巻が
やっと出版。先が長いです。

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