今回から時代がちょっと遡りまして、
「万延・文久編」となります。
安政7年(1859)は江戸城が火事になったり、大老の井伊直弼が暗殺されたり
(桜田門外の変)したので、「縁起悪りぃーや」ってことになったのでしょう。
3月に「万延」と改元されます。
その年の正月、狭山丘陵の村々に次の廻状がまわってきました。
改元前ですから、安政7年1月ということになります。
「御鷹場ご案内より例年廻状
御鷹合札や小鳥札、その他諸々の鑑札を改め、かつ例年の通り御鷹場御法度
証文を申し付ける。そこで、村役人は印判を取り揃えて、来る18日の朝四ツ時
(午前10時)に間違いなく持参いたすべきことである。
廻状は早々に順番通り送り、最後の村よりその時に返すべし。以上。
御鷹場御預御案内 村野源五右衛門
申正月13日
宮澤新田 殿ヶ谷新田 中里新田 (以上立川市)
箱根ヶ崎村 石畑村 殿ヶ谷村 (以上瑞穂町)
岸村 三ツ木村 横田村 中藤村 (以上武蔵村山市)
芋窪村 蔵敷村 奈良橋村 高木村 後ヶ谷村 清水村 宅部村 (以上東大和市)」※村名は現市町村ごとに並べ変えました。
多摩地域は幕府の直轄である天領と、旗本らに与えられた私有地が入り混じって
いることは以前にも書きましたが、その他に
尾張藩の鷹場と指定された
区域がありました。
万延(まだ安政7年だけど)に入って1パツ目の史料は、その鷹場についての史料
です。
東大和市を含む多摩地域が尾張藩の鷹場に指定されたのは、江戸時代もかなり初期
の頃です。
寛永10年(1633)に3代将軍徳川家光が御三家に対し、江戸の西側にあたる多摩・
入間・新座郡を尾張藩、北側の埼玉・葛飾郡を紀伊藩、東側の下総を水戸藩に鷹場と
して与えました。
幕府ができてから30年。徳川政権は安定期に入ったものの、関ヶ原や大坂の陣を
知る者、敗れた者がまだ生きている時代です。御三家に江戸周囲を鷹場として与えた
のは、治安維持と万が一の防衛ラインを考えてのものだったと思います。
ややこしいのは、これらの地域は年貢徴収や裁判は代官(天領)や地頭(私有地)が
行うわけですが、その中でも鷹場に指定された区域は御三家の鷹役も支配するという
二重支配を受けたことです。
これが村々にとっては大きな負担となりました。
たとえば・・・。
寛永21年(1644)に尾張藩主・徳川義直は鷹狩りをするために多摩郡前沢村(東久
留米市)にやってきますが、まさか殿さまがダチと2,3人で来るなんてコトはないワケで。
東大和市史によれば、「付家老の成瀬正虎(犬山城主・3万5000石)ら家臣95人と
中間、足軽など1000人以上が供に加わっていた。このため、前沢村では80軒の
百姓が宿に指定されたのである。」とあります。
「この鷹狩りに使用される荷物を運搬するため、多摩・入間郡53ヶ村は1166人の
人足を出すように命じられた。東大和市域から清水村・宅部村が30人、後ヶ谷村・
内堀村が20人、高木村が7人、奈良橋村が20人、蔵敷村が15人、芋久保村が40人、
合計132人が徴発されたのであった。」
鷹役と呼ばれる役人は、尾張藩から派遣される人と村の中から選ばれる人の2種類
がありました。
前者は
鷹匠と
鳥見という役職。
鷹匠は殿さまの鷹を訓練する調教師ですね。時代劇でもよく出てきます。村の娘に
目をつけて手籠めにしようとして、反抗されると「お鷹さまにキズをつけた!」とか
難クセつけて斬り殺しちゃう。戸浦六宏とか菅貫太郎とかが嬉々として演じてくれる、
ヒドイ奴と大抵は相場が決まっています。
まぁ、最後は念仏の鉄にノドの骨を折られちゃうんですけどね。
しかし、実際に村々と大きく関わったのは鳥見の方でした。日常的に鷹場を管理し、
村と尾張藩の連絡を取り次ぐ役目を果たしていたからです。
一方、村民の中から出されたのが、鷹の餌を調達する
餌差と、鷹場を管理し藩との
連絡を調整する
御鷹場預かりです。
冒頭の廻状に出てくる村野源五右衛門さんは砂川村(立川市)の名主ですが、この
ような地域の実力者が御鷹場預かりになりました。
「里正日誌」の解説によれば、「区域内の村々は、毎年正月に鷹合札・小鳥札などの
鑑札が改められ、鷹場の御法度を記した証文を鷹場預案内に提出しなければなら
なかった。」とあります。
御鷹場預かりは、支配地域の中でかなりの権限を持っていたことが予想されます。
次にご紹介するのは、その「鷹場の御法度を記した証文」です。
「御鷹場内の村々の例年の請け書
御鷹場に住む百姓たちの家を建てる願いについてです。古来からある本家をはじめ、
自分勝手に一旦取り片づけておいて、追って何年か過ぎて元の場所に家を建てたい
と願い立てをする者もあります。何年も久しく空き地、または木々などが生えた場所
に願い立てをすることもあると聞き、ふさわしくないことです。
以来住居向きをはじめ、一旦取り壊した場所へ、期限を決めて10年間空き地同様
だった場所へ以前のような建物を建てたいというときでも、新しい土地に家を建てる
ときと同様に心得て願い立てるべきことです。
期限内に由来の通り建てることは、これまで通りと心得て願い立て申すべきことです。
一、新しい土地に家を建てることをはじめ、建てたいことを前もって願い立て聞き請け
ることは、すでにしばらく期限も経った上で取り立てたこともあると聞き、これもまた
ふさわしくないことです。今後3年間は許していただけますが、右の期限を過ぎれば
新規同様と心得て願い立て申すべきことです。
一、家を建てる願いを、以前勝手に普請に取り掛かったこともあると聞き、心得違い
のことです。これからは右のようなことがあれば、速やかに建てた家を取り払うべき
ことです。
万延元年申正月 村々(名主・組頭・百姓代)連印
御鷹場御案内
村野源五右衛門殿 」 村の中で家を建てるときも、鷹場役人の許可が必要だったということです。
なかなかうるさいコトを約束させられています。
この他、村々が守らされた御法度にはどんなモノがあったのか?
延宝7年(1679)という古い時代の記録ですが、尾張藩鳥見と当時の御鷹場預かり
だった田無村の下田孫右衛門に、小川新田の名主・市郎兵衛が提出した請書が
あります。東大和市史に書いてあるその内容を要約すると・・・
尾張藩以外の者が鷹狩りをしないようにするため、鷹狩りをする者が証拠に持つ
合札を確かめること。
鷹を持って通行する者がいれば、誰の鷹であるかを調べて鳥見に報告する。
鷹狩りの際は脇道に至るまで清掃し、道や橋を修繕する。
鷹狩りの際は犬、猫をつないでおく。
鷹の餌にする小鳥を保護するため、鳥の追いたて、飼育、罠を禁止する。
鹿やムジナも追ってはならない。
餌差であっても、ウズラ、ヒバリ、キジを取ってはならない。
冬田に水を入れてはいけない。
もし鉄砲を撃つ者がいたら、住所姓名を聞きだし、鳥見に報告すること。
村々に預けてある合札は厳重に保管すること。
鷹場御用の廻状が来たら、昼夜を限らず直ちに必要の所へ届けること。こと細かに、様々な制限や負担が掛けられたようですね。
現在の東大和市ではさすがに鹿や猪はいませんが、江戸時代はガンガンいたみたい
です。それらの動物は田畑を荒らすわけですが、鷹場に指定された村では勝手に
駆除することができなかったのです。
鷹場は生類憐みの令によって元禄6年(1693)に廃止されますが、享保2年
(1717)に再興されます。そして毎年のように村々は「里正日誌」にあるような請書
を御鷹場預かりに提出していたんですね。
鷹場制度がなくなったのは慶応3年(1867)のことでした。





鹿やムジナ(穴熊)、猪はいなくなりましたが、タヌキならまだ東大和市に生息して
います。モチロン、野生。
これがまた、ウチの庭によく来るんですよ。すぐ近所に多摩湖があるので、その周り
の林からやって来るみたいです。
我が家の大幹部・ポンちゃんと、窓越しににらみあってます。

お互い威嚇するワケじゃなく、見てるだけ。
ネコとタヌキだと種類が違うから、縄張り意識とかは起こらないのでしょうか。
ちなみにリアルだと、こんなカンジ。

案外ホッソリとしています。
ところで、住宅地で見かけるタヌキって、体毛が抜けている場合が多いのです。
この写真のコもそうでした。
だからホッソリと見えるのですね。タヌキというより、チュパカブラに近いビジュアル
でしょう?
郷土博物館の方に聞いたのですが、タヌキがドッグフードやキャットフードを食べ
ると疥癬になってしまうのだそうです。
毛が抜けてしまうと、冬の寒さに耐えきれず死んでしまいます。
良い子のみなさん、野生のタヌキを見かけても、エサをやらないようにしましょうね。

「なんだー。このボタンちょっと押してみるんだな。うーん、なんだー。」


にほんブログ村
にほんブログ村
スポンサーサイト
こんばんは。
訪問ありがとうございます!
応援ポチさせて貰います!
冬田に水を入れられないなら、天然のスケートリンクはムリということですね。
なのに名古屋勢は真央ちゃんをはじめスケート王国ではないですか。
尾張藩めー!今日あるを予見していたかー!?
ありがとうございます。
こちらこそ、よろしくお願いいたします!
こちら、拙いカットと漫画ですが見ていただけると嬉しいです。
江戸時代に「氷の上を滑って遊ぶ」という考えがあったか?考えてみると
面白そうですね。
尾張藩は御三家の中でいち早く新政府側に付きましたからね。それくらいは
考えていそうです(笑)
鷹狩りは特権階級の楽しみであり、
将軍家康は大名や公家の鷹狩りを禁じ、自らが独占したとか聞いたことがあります。
家光の代になって、御三家にその権利を分け与えたんですね。
御三家の鷹場のほかに、宗家の鷹場も葛西筋やら目黒筋やらあちこちにあるので、
江戸近郊は鷹場だらけだった、みたいな感じがします。
農民にしてみたら、いい迷惑でしょうねー。
当地にも野生のタヌキが出没します。
農作物を荒らしたり、ペットの食べ残した餌をあさったりしているようです。
半年くらい前に近所で見かけたタヌキも、ほっそりしていました。
また、やせ細ったタヌキ親子が死んでいた、という目撃談も聞きました。
やっぱりペットフードのせいで皮膚炎を起こしていたのかも……
当地は郊外住宅地で、畑や林がいくらか混在していますが、
昨今は町場のほうに進出した個体もいるようですね。
なんとか人間や他の動物と平和に共存していってくれれば、と思います。
仰るように家康は征夷大将軍に任じられると、諸大名や公家の鷹狩りを禁止して、
自分だけは川越、忍、岩槻などの関東近郊で鷹狩りをしたようですね。
この鷹狩りには支配地域の現状把握の目的があったようです。
後に徳川と特別な関係にある有力な大名には鷹場を与えるなど、鷹場を政治的な
手段として利用しますが、指定された地域の農民は義務が増えるばかりで迷惑
したでしょうねぇ。
郷土博物館にタヌキの剥製があるのですが、それは自動車事故にあって死んだ
タヌキだそうです。多摩湖は都の飲料水用貯水池なので、周囲の雑木林は人の
立ち入りができないのです。できれば、タヌ吉くんはその林から出てこないで
平和に暮らして欲しいと思います。
コメントの投稿