戊辰戦争終結前後の東大和

明治2年(1969)5月、箱館戦争終結をもって鳥羽・伏見の戦いから続いた
戊辰戦争がようやく終わりました。
この間、新政府は江戸幕府の政治機構からの脱却を目指し、改革を進めて
きました。当ブログでは、金札発行を巡る国や国民の右往左往ぶりをご紹介
しましたが、この他にも戸籍やら宗教やら、慶応3年からほんの2年足らずの
間に進められた改革はいくつもありました。

しかし、旧幕府軍との内戦は続いていたわけで、日本の中央も地方もまだ
安定するには至っていない状況だったのです。
多摩地域でもこの時期、戦闘こそなかったものの、その不安定要素はまだ
まだあったであろうと思います。
「里正日誌」には、当時の村の様子をどのように書いてあるのでしょう。

「  覚え
一、金6両2分と224文       合薬5貫目 雷管3000

右は去る辰年(明治元年)中に非常時の手当として、お手元より御買取り
下されたものです。お陰で農兵調練にそれぞれ使いました。
そのことですが、前書の代金については村方のために金を出していただき
ましたが、その割合には及ばないと申し聞かされ誠にもったいないことです。
小前の者にも、ご親切にお考えいただいたことを互いに話し合うよう、申し
聞かせます。以上。
 明治2巳年4月20日             百姓代 平五郎 印
                           組頭   常七  印
                           同    半左衛門 印
                           同    吉右衛門 印
                           同    重蔵  印
     名主  杢左衛門殿  」 
     
         

多摩の村々では、旧幕時代から引き続き農兵訓練が行われていました。
そしてその費用は名主が負担していたようですね。
この年の1月晦日、杢左衛門さんは韮山県の役人に呼び出され、翌日の
2月1日に田無村に向かっています。
そして翌日から4日にかけて、役人は農兵を連れて各村々を回り、無宿や
無頼の者が立ち回らないように指導しているのです。

冒頭書いたように、戊辰戦争の結果、旧幕側からは多くの浪人が出たことで
しょう。さらに、慶応2年(1866)に「武州世直し一揆」 クリック!)を引き
起こした飢饉・凶作は明治に入ってからも続いており、浮浪人も多かったよう
です。
3月15日には品川県が浮浪人取締りについての布告を、4月24日には韮山
県も脱籍浮浪人取締りの廻状を出しています。
浪人や浮浪人が一揆や打ちこわしをしかねない・・・政府も警戒をしていたので
しょう。
しかし、各村々の防犯体制は、江戸時代から続けて農兵による自衛に任されて
いたことが、日誌の記述でわかります。

さて、ここでちょっと遡るのですが、文久2年(1862)に多摩郡の村々(廻り田村、
後ヶ谷村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、宅部村、芋窪村、中藤村、横田村、
三ツ木村、岸村、殿ヶ谷村、殿ヶ谷村新田、石畑村、箱根ヶ崎村)が申し合わせた
証文が「里正日誌」に書かれています。
ナニが書かれているのか・・・ちょっとご覧になってください。

「近年、浪人らしき者が村々へ多数立ち入ってくる。合力してくれと強請ったり、
あるいは宿泊を願ったりする。百姓家へ泊まっては家の様子の良し悪しなど
わがままを申し、態度も増長して困るが、帯刀もしているし甚だ迷惑をしている。
そこで、この度相談の上取り決めたことは、組合村々のうち月行事を立てて、
一人につき8銭を渡して余計な合力など決してしないことにする。
もっとも、合力を小さいことで色々と多く申し、どのような異変があろうとも、浪人の
身分によって入用などがあった場合には、組合村々の割り当てにして村高に応じ
銭を差し出すべきこと。
尚且つ、月行事が銭を出した合力や銭割合は毎年10月中のうちに寄り合い、
これを以て割り当て分を出銭するべきこと。後日のため、村々で議定証文よって
件の如し。」


多摩の村々では、合力をさせられる替わりに浪人たちに銭を渡す、という協定を
結んでいたようですね。
一揆や打ちこわし等に備えて農兵の訓練は怠らなかったのでしょうが、浪人らの
強請り程度のことは金で解決していたようです。

そして、明治2年に戻ります。
「里正日誌」3月には、次の記事が書かれています。

「浪人賄い料仕切り証書の写し

   覚
一 金3両也   但今年巳年の浪人賄い金として

右は我ら世話人の決めたことで、仕方なくお頼みすることをお世話申し上げます。
然る上は、浪人たちについては今年一年間、村に立ち入れさせません。
切り替えの時は来年午の年の春3月14日を限りに切り替えるべきこと。
念のためこのことを確認いたします。以上。
   明治2巳年3月     浪人世話人 伊原 登
                     森村要人之輔
        蔵敷村御名主中様

右の通り、巳年3月14日に両人に会い、仕切り金を渡し申したところ、左の通り
役宅へ張り紙をしてくれるよう聞いた。その書付を左に書く。

    口述
最近、当村々では浪士の休泊などの当番になった所へは格別のご迷惑を申され
ました。拙者どもは右の世話人でございますので、今年は当村方へは仕切りで
済ませることにしましたので休泊はもちろん、足料たりとも今年は相模国荻野村の
東屋方にて相談の上、配分いたします。
左の通りご承知なされますように。 以上。
    巳3月日       世話人  伊原 登
                   木(ママ)村要人之輔
      浪人方一統へ 」 
   

文久2年の協定が、明治2年にも生きていたようです。
文久2年には、村の中から代表(月行事)を決めて浪人たちと交渉していたよう
ですが、明治に入ると「世話人」なる者が登場して交渉の仲介をしています。
つまり、7年ばかりの間に「浪人トラブルは仕切り金で解決」というシステムが
完成されていた様子が伺えますね。
伊原、森村の両名が何者なのか気になりますが、現時点ではわかりませんでした。
たぶん、浪人らのリーダー格かなと思うのですが・・・。

おそらくこれらのことは韮山県役所(江川代官所)も黙認だったのでしょう。
役人が農兵を連れてのパトロールも、一揆の抑止効果はあるにせよ、半分は
パフォーマンスといったところかもしれません。
村々はお上に頼らず、自らを守る道を模索していたのでしょう。
以前名主たちが金札の相場で儲けようとした可能性のあることをご紹介しましたが、
一方で農兵訓練にかかる経費、一方で浪人たちへの仕切り金と、「お金の必要性」
もこれらのことを考えるとさらに理解しやすくなります。

メガ12

旅行中のマジ・エピソードです。
もちろん使用不能になるし、一緒に行ってた姪が
「iPhoneはバックアップしてないと、データ取り出せないんだよね~」
とか言うし。
えぇ、バックアップ取ってなかったんです・・・。
旅行の後半、ずっとブルーでしたスよ。

ワタクシの水没iPhoneは、はたしてどうなったのか?
そのお話は次回のブログで。


「このボタンは人間の脳ミソをトコロテンにする機械だよ、和登サン」


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#812 出費は嵩むよ
同時期の『佐藤彦五郎日記』を見ると、
金札相場のこと、年貢皆済のことが頻出しています。
納税義務を果たすにも、待ったなしでお金が必要ですよね。

余談ですが、4月には横浜の「津久井屋新三郎」に
金札で納税する相談を持ちかけている様子なので、
田無村・下田範蔵さんのお話に出てきた「津久井屋」と同じ屋号なのが
ただの偶然だとしても面白いと思いました。

iPhone水没、ご愁傷様です。
PCもスマホやケータイも、日頃のデータバックアップは必須ですね。
#813 浪人対策組合
 里正日誌には、浪人対策として、文化4年(1807)に、狭山丘陵南麓の村々が共同して対処することを決めたことが記されています。関東取締出役が設置されて2年後であり、まだその実力が伴わなかったのか、この頃の村は自力対応を求められたものと思われます。それが、明治まで続くとは、当時の代官支配の実態をがっちり調べる必要がありそうです。
 野火止用水
#814 東屋梢風さま
この頃の農民としては、金札問題はかなりの重大事であったことが、他の
史料からもわかるようですね。

iPhone水没は焦りました。
詳細は次回、ご報告いたします!
#815 野火止用水さま
八州廻りにどれだけの実力があったのか・・・中央の記録だけではなく、地方の
記録も当たって検証されると、より実態がつかめてくるでしょうね。
金で解決をするという手段もいつ頃、誰が言い出したのでしょう。
仰るように、代官支配地の認識が改められるような気がして、興味深いです。

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