太政官札は信用が低く、正金よりも低い価値でしか取引きされない状態が
続いています。
由利公正に替わってこの問題に対処することになったのが、
大隈重信です。
当時、日本の通貨は江戸時代から続く「両」をそのまま使っていました。
鋳造技術も旧幕時代そのままでしたし、偽造貨幣も多く貿易先の外国からは
しょっちゅうクレームが入ります。
大隈は通貨の大リニューアルをしなければならないと考えたのでした。
「まず、わかりにくい4進法から10進法へ改めるだろ。それと一分金とかって
四角いけど、アレって貿易なんかで大量に使うと角っコが摩耗しやすいらしい
んだよね。西洋の通貨ってみんな円形だよね。やっぱ、お金は円い方が
キテるってかんじ?」
こうして、日本の通貨が「円」となるのですが、それはまだチョイ先の話。
金札の信用も高めなければなりません。
「ちょっと聞いてくださーい。太政官札と正金の引換えを一旦禁止しまーす。
でね、今、政府では新しい時代に合わせた新貨幣を作る計画なの。それが
できたら、太政官札と新貨幣の引換えはOKにするから。ここはそれまで
待って金札を使ってくださいよ。」
こうして政府が正金を発行して、金札もそれと等価で取引できるという信用を
含ませて国民を納得させようとしたワケです。
「 巳(明治2年)4月29日に出た金札についての廻状
金札御発行については、先頃仰せ出されたとおり、厚い憐れみの御趣意をもって
筋道を御施行されたところ、戦乱の際に自然と通用しないようになり、広く使われない
ようになった。ついには正金と金札の間に相場が生まれ、庶民の商売にも難渋し
たので一時止むを得ぬ場合より、相場を認めて通用いたすべしとの御布令が
あった。
今日に至って日々の相場の高下は際限なく、庶民は困難になり、中央から遠く
離れた府藩県で正金同様に通用している場所までも金札に疑惑を生じ出した。
このことにつき、金札の通用期限を兼て立ち置かせた。
この度、新貨幣を鋳造することになった上は、改めて引換えの筋道を立てられるので、
今後はキッパリと相場はやめて、正金同様に通用させるべしと仰せ出された。
京都・東京・大坂を始め中央から遠く離れた土地に至るまで、厚く御趣意を謹んで
いただき、広く通用いたすべし。万が一、心得違いをする者があれば厳重にあるべし
との御沙汰である。
4月 行政官 」このような通達が出されてすぐのこと。
杢左衛門さんをはじめとする、蔵敷村組合の村役人たちへ一通の書状が届きます。
差し出したのは柴井町の定宿、和泉屋健蔵です。
「 巳5月朔日(ついたち)昼12時 和泉屋健蔵
蔵敷村組合御役人中様
なお、申上げました金札について、今日の市中では39、8~40匁くらいで取引き
され、金持ちは多くの利益を上げています。あなた様においても早く御買入れに
なられますよう直接に申し上げます。
また、先日のお手紙の一件はそれぞれに申し上げておきます。さらに、あの様子が
わかりましたらちょっとお聞かせいただきたく存じます。早々に飛脚を立ちかけます。
以上。 」金札の相場に手を出して儲けろ、と言っているようです。
この和泉屋というのは、蔵敷村組合など東大和市域の村々が江戸に行くときによく
使う公事宿です。以前も当ブログで
代官領の支配替え(

クリック!)の記事を
書いたときにも出てきましたね。
村と役所の間に入って、なにかとアドバイスをくれる所です。
その公事宿が、表向きは禁止されている相場で儲けなさいよと言っているのが
面白いですね。
元々、江戸時代の通貨形態は複雑で、金貨・銀貨・銭貨がそれぞれ独立していました。
円とドルとユーロが一つの国内に流通しているようなものです。
ですから、その時々の相場を読んで財テクに励む・・・というようなことは今の人よりも
ずっと身近だった可能性があります。(

クリック!)
前々回の金札の記事で、村々の名主たちが26000両もの金札を拝借しようとして
断られた記事をご紹介しました。
断られた理由は地域の地場産業への投資だけで、大規模な事業計画が示されて
いないからというものでした。
しかし、コメントでもご意見が寄せられましたが、名主たちに実際の事業計画などは
なく、もしかしたら相場でひと山当てようという魂胆で、役所もそれを見通していた
ということかもしれませんね。

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旧幕府の通貨鋳造技術は、非常に優秀だったそうですね。
小栗忠順がアメリカ造幣局に小判3枚を持ち込み分析させたところ、
3枚とも金の含有率57.2%と千分の一単位で誤差がなく驚かれた、とか。
それなのに、新政府が慶応4年4月、旧貨幣の粗製濫造を行なったために
内外の商取引に支障を来たしたり、贋金が横行したり、大混乱を招く結果となりました。
ちなみに、太政官札の贋札騒ぎもあった模様。
通貨改定の際に利鞘を稼ぐ行為自体は、珍しくなかったようですね。
例えば三野村利左衛門は、天保小判から万延小判への引き換えを事前に知り、
天保小判を買い占めて大きな利益を上げたそうですし。
また、富農が投機的取引で利益を得ることも、普通だったでしょう。
燃料や穀物を安い時に多く買い、価格が上がったら売る、という例なら聞いています。
これまでご紹介のとおり、幕府から新政府から、果ては胡乱な浪士から献金要求されて
それなりに応じることができた彼らの資力財力というものは、
そのような活動によって培われていた、と考えられます。
政府は、同じ5月、金札と正金を引き替える時に、「打」=割増金?をとった者には、その「打金」だけの罰金を取る旨の回状を出したそうです。これでは、主催者が制度そのものの破綻を認識し、小手先で解決しようとするに過ぎず、したたかに育ちつつある村長達は鼻であしらったことと思います。
どこかの村に眠っていると思われるのですが、きちんとした資料でこの辺の事情と結末がわかる発見があると面白いですね。
野火止用水
イッセーさま、こんばんは^^
なるほど、明治初めの混迷期、そんなにも多様な貨幣が出回っていたのですね。
イッセーさまの
>円とドルとユーロが一つの国内に流通しているようなものです
の説明、さすが正鵠を射たご指摘で大変わかりやすいです。
丸い形への通貨の大リニューアルも大隈先生のアイデアだったとは。
メガ博士の言うとおり、角のない貨幣のほうが何かと外国ウケもよかったのですね。
しかしながら、政策変われば貨幣価値はゼロになってしまいかねない明治初めの混迷期、
確かにすべての種類の貨幣を箪笥貯金していたあきんど、いたでしょうね。
体制が変われば、どれかは紙くず同然となり、逆にどれかは金が金を生む万馬券的存在に
なりえるかもしれない・・・
昭和の混迷期、国は国債や借金を返してれたけれど貨幣価値が1/100にまで下がり
ハイパーインフレで国債も紙屑同然になってしまったと祖父がボヤいていたのを思い出しました。
いっそ、純金をたんす貯金しておけばよかった、と。
なるほど敵もさるもの、相場でひと山当てようという商人たちの魂胆を見通し、うまいこと
断ったとは。で、結果として、どの通貨が一番安全だったのでしょうね。
このところ忙しくコメントの返事が遅れました。スミマセン。
まさに仰るとおりで、江戸時代の農民は(村役人クラスですが)田畑を耕して
いただけではなく、積極的な経済活動をしていたということですね。
でなければ、「下下田」などというランクをつけられた東大和市域の農村に
献金などできようハズがありません。逆に言えば、お上も建て前は別にして
農民の経済活動を黙認し、その経済力に頼っていたということになるでしょう。
政策よりも民衆の活動の方が先を行ってる・・・いつの時代もそんなものかも
しれません。
江戸時代からこの時代にかけての農村が、支配されるだけの農村ではなかったと
いうことが、こういった史料を読むと見えてきますね。
より多くの史料が見つかることを期待したいですね。
ハイパーインフレで国債が紙屑同然になってしまった・・・お祖父さまの歎きは
歴史の貴重な証言ですね・・・。
我々は歴史を遡って、結果を知った上で見ていますから何とでも言えますが、
リアルタイムで生きていた人たちにとっては、この時代はまさにギャンブル性が
強い中で生きている感じだったのかもしれません。
それまでの慣習もありますし、当時の人はやはり純度の高い正金を持っていた
かったのだろうと思います。
まさに純金のタンス預金が一番安全だと。
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