明治新政府は戊辰戦争での財政不足を補うことと、産業振興の資金として
「オイラを信用してくれよ」的発想で、太政官札・・・つまり金貨や銀貨ではない
紙幣の発行をしました。
これが慶応4年5月のことです。
ところが、政府が「こっちの方が近代的なんだって!」といくら言ってみた所で、
人々の頭の中も行政の中身もまだ江戸時代から抜け出ていませんから、
「そんなの信用できるかい」です。
発行したのはいいけれど、アッという間に太政官札は下落の一途。
100両の額面も時価40両にしかならないという事態に、早くも6月、政府は
太政官札の時価取引を禁止します。さらに「租税も太政官札で納めChina!」って
布告するんですけど、一向にその信用は上がる気配を見せませんでした。
「 巳(明治2年)正月晦日に出された金札(太政官札)についての廻状
金札については租税その他、諸々の上納金として使うにおいて、正金で100両の
ところを金札120両の相場で扱うことを仰せ付けられた。
世間においては、日々の時価取引をいたすべし。聞くところでは、諸々の買い物
の支払いに太政官札を受け取らない者もあるというが、もっての外のことである。
右のように心得違いの者はきっと沙汰に及ぶであろうから、兼てその旨を府藩県
においてあまねく触れて達するものなり。
正月 行政官 」ついに政府は金札の時価取引を認めざるを得なくなりました。
そうした中、多摩の村々では金札に対してある動きが出てきたようです。
「 巳2月3日金札について田無村名主下田範蔵より廻状
廻状をもって申し上げます。寒さも去りかねていますが、皆さま方も御清福にお勤め
されお喜びいたします。
そこでですが、昨年12月に金札貸し付け方の取り扱いを仰せ付けられ、その時
ご相談したとおり少額の金札が組合村々へ貸し出しとなり、不行届となってしまい
ました。」田無村の名主から廻ってきた廻状ですが、冒頭で前回に触れた金札貸し付けに
触れています。その金札がどう使われたのかは書かれていませんが、「不行届」と
あります。突然のことで、金札の信用も低く有効に使えなかったということでしょうか。
「この春になってご相談の上、さらに金札の貸し付けを願い出て、金札がお下げに
なりますように考えているのですが、皆さまとお打ち合わせをしてからと、これまで
差し控えておりました。
伝え聞くところによると、金札が多く役所にあると云いますので、来る11日に柴井町
の定宿へ御一同が出張し、それぞれ申し合わせの上、拝借をお願い申し上げたく
このことをお知らせ申し上げます。よって右の日に相違なくご出府ください。
なお、委細はその節に詳しく申し上げます。
この廻状は早く順番通り送り、最後の所からご返却ください。以上。
巳2月3日 田無村名主 下田範三
蔵敷村御名主 杢左衛門様 砂川村御名主 源五右衛門様
福生村御名主 重兵衛様 新町村御名主 文右衛門様
友田村御名主 五郎右衛門様 」 さらに金札を借りてはどうだろうか、という提案です。
言い出しの田無村の名主は、昨年末は半兵衛さんでしたが今回は範三(蔵)さんに
なっています。代替わりがあったのでしょうか。
だからこそ、金札の規制がユルくなった今、さらに貸し付けを増やしてもらおうという
計画に出たのかもしれません。
廻状にあるとおり、2月11日に一同は柴井町(港区)の定宿で会合を持ちます。
東大和市史によれば、その宿は津久井屋という宿だそうです。
話し合われた結果、以下の書状を支配所に提出しました。
「 畏れながら書付をもって願い上げ奉ります
御支配所
武州多摩郡
一 金札10000両 田無村
一 同 2000両 蔵敷村
一 同 5000両 砂川村
一 同 7000両 福生村
一 同 1000両 友田村
一 同 1000両 新町村
右は昨年の冬、私どもへ金札をお貸渡しになられ有難く拝借奉りました。村に帰り
金札の貸し付け方をよく相談したところ、元々養蚕、機織り、その他余業をもって
相続いたしております者たちは、銘々身分に相応しくなく過分の金銭の融資になり
ました。
村方ではどのようにも法に則り使用し、少しもみだらに使うことのないようにします。
私どもが引き受け、貸し付け方を決めようと思いますが、これには先日お貸渡しに
なられた金札高では中々足りないのでございます。
そこで前述の通りの金額を、それぞれ御拝借願い奉り、村々の地についた産業に
応じて融資を致したいと思いますので、村のため役立たせますし、かつ生きてゆく
励みにもなるべきことと、畏れながら存じ奉ります。
何とぞ御慈悲をもって右の願いの通り、お貸渡しくだされますよう願い上げ奉り
ます。以上。
明治2年2月12日 田無村名主 下田範三
蔵敷村同 杢左衛門
砂川村同源五右衛門代組頭 七郎右衛門
福生村同半十郎代柴崎村同 次郎兵衛
友田村同 五郎右衛門
新町村同 文右衛門
韮山県
御役所 」前回は2900両の貸し付けでしたが、今回はその約9倍の26000両の貸し付け
願いです。また、デカく出たものです。
これを村々の指導者が責任をもって、村の地場産業の融資に当てようという計画
のようですね。
先日まで「ルーズヴェルト・ゲーム」とか「花咲舞が黙ってない」とかのドラマを見て
いたもので、なんか情景がオーバーラップしてまいります。
金額は大きいですが、政府の産業振興政策とも一致するんじゃないでしょうか。
・・・・ところが。
「右は当月2日に出された下田範三方からの金札拝借について、11日に出府の
上相談したいとのことで廻状をもって連絡し、一同出府。12日に相談の上、前書
の書面を御役所へ差し出したところ、新田開発や大木の伐り出しなどの事業計画
でなければ、会計官へ申し立てるのは難しいとの御役所の見解であった。
拝借の見込みがないので、一同相談の上願い下げてきた。」大規模な事業計画でなければそんな融資はできないよ、と言われてしまいました。
これが政府の見解なのか、政府に気を使った韮山県の見解なのかわかりませんが、
多摩地域での大規模融資はマボロシと消えてしまったようです。
花咲舞の杏ちゃんなら、「お言葉を返すようですが!」と言ってくれたでしょうか?
こうした中でも、太政官札の時価相場はダダ下がりを続けます。
由利公正は金札政策から離れることとなり、代わって肥前の
大隈重信が金札処理
を行うことになるのです。

※トゴ・・・10日で5割の利息の意。ひぃぃ~~ッ!
もう過ぎてしまいましたけど7月8日ってのは、江戸時代の元治元年(1864)では
6月5日にあたるそうです。
この日は、そう。池田屋事件のあった日ですね。
例年だと梅雨が明けるかどうかというビミョーな時期ですが、蒸し暑い夜だったこと
は150年前も同じだったでしょうね。
池田屋での斬り合いの最中に沖田総司が倒れてしまいますが、一説には熱中症
になったのではと云われているようです。
京都の夏、当時の狭い日本家屋の中で興奮状態で斬り合っていたのでしょうから、
なるほど、そうかもしれない!と思ってしまいます。
また、7月8日は、嘉永6年(1853)だと6月3日にあたります。
この日はペリーが浦賀に入港した日。
やっぱり、「うわッ、めっちゃ蒸し暑いやん!蒸気船ってさらに熱いやん!」って思った
でしょうねぇ。
「このボタンは人間の脳ミソをトコロテンにする機械だよ、和登サン」


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蔵敷、砂川、福生、新町、友田、田無の6人の面々、明治元年12月に、韮山県から「金札貸付掛」に任命された名主達です。そのとき、金札と現実流通(相場)の差を認めて金札120両が正金100両と定められているのに、さらに金札の価格は下落して、相場廃止の空気が出ていました。それを十分知っていたはずの名主達が、なんで、26,000両もの貸し付けを願い出たかが、鍵ですね。
本当に本当に不思議な話で、もしかしたら相場師が背後に居たのか、なんてゲスの勘ぐりをしたりします。 野火止用水
「不行届」とは、貸し付け金札を各家に分配したら中途半端な金額になって
産業振興に活かせなかった、という意味か?と想像しました。
小規模事業者には有効利用できない、今度は村全体で大事業を手がけたい、とか?
明治2年2月に品川県が発足し、田無村は韮山県への編入運動を活発に行い
最終的に移管を認められた、と聞きました。
事実なら、金札の件とも何らかの関連がありそうな気がします。
そしてこの後、品川県では新設の社倉制度が発端となって……
大隈重信の名が、凶兆のように思えてなりません。
細かいことですが、柴井町の定宿というのは
これまで史料引用に何度か出てきた「和泉屋」と思ったら、違いました。
発案者の下田範蔵さんは「津久井屋」を定宿にしていたのでしょうか。
ペリー提督、浦賀はシンガポールや琉球より涼しいだろうと期待していたなら、
けっこう蒸すのでガッカリしたかもしれませんね(笑)
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仰る通りですね。ワタクシもこの史料を読んで???と思ってしまいました。
具体的に事業計画のようなものがあったのかどうか。
役所から1回ダメ出しを出されて諦めるあたり、どうも怪しい感じもします。
相場師の存在は、案外あったかもしれませんね。
わざわざ、東京の定宿にまで行って話し合いを持っているあたり、なんとなく
そんな雰囲気も感じられますね。
東屋さん、さすがスルドイですね!
実は金札に関しては、和泉屋も絡んで史料に登場してきます。それは次回以降で
ご紹介したいと思いますが、今回ご紹介した話に使われた宿は違っていたようです。
これは市史に書いてありました。
和泉屋でなく津久井屋を使った・・・という所になにか今回の26000両の
ヒントがあるかもしれません。
蒸気船ってのは乗ったことありませんが、たぶん船内も暑いことでしょうね。
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