先日、こんな本を購入しました。

東京都って幕末期から現在にかけて、関東大震災があったり空襲があったりで、
歴史的な建造物って残ってないんですよね。
だいたいが木造建築ですから火災には弱いし。
神社仏閣なども建て替えられている場合がとても多い。
ということで、史跡と云われる場所に行っても何も残ってないことが多いわけです。
ただ、そんな場所に、「かつてこの場所にこういう物があったんだよ」と記した石碑が
置かれていたりしますでしょ。
歴史ファンは、そーいった石碑を眺めては「おぉッ、ここが、この場所が〇〇が××
した現場なのかッ!!」と妄想に耽るワケですね。コレ、歴史の醍醐味。
石碑は歴史への扉を開く「妄想スイッチ」と言えましょうか。
この本は東京都のあちこちにある、そんな妄想スイッチである石碑を各地域ごとに
紹介したガイドブックです。
石碑に刻まれてある文章やその背景、また関連する同系統の史跡はまとめて紹介
してあったりするので、史跡巡りのお供には便利な一冊だと思います。
さてさて、この本の中に当ブログで先日触れた高札が
「蔵敷高札場
の碑」として紹介されています。

蔵敷村の高札場は名主の内野杢左衛門さんの家の前に置かれました。
前を旧青梅街道が通り、現在高札場の前は西武バスの「蔵敷前」バス停に
なっています。
写真の右側に見えるのが「史跡 蔵敷高札場」と刻まれた記念碑です。
昭和5年(1930)3月に東京府史跡に指定され、昭和30年(1955)1月に碑が
建てられました。
写真を見ていただくと、柵の中に高さ60cmほどの四角い石が見えますが、コレ
が高札を建てるときの基壇です。
この基壇が残っているのが貴重で、故に東京府史跡指定を受けたのでしょうが、
都内では
府中高札場と共に現存する唯二つのもの、だそうです。
というわけで、こちらが府中の高札場。

さすが国府・府中の高札場だけあって立派ですね。
甲州道中府中宿の真ん中にあるワケですから、多くの人の目に留まらなきゃいけな
いんで、デカくて立派なのは当然です。
けど、蔵敷村の高札場も、これはこれで当時の村のリアル感が伝わって、なかなか
イイ感じの佇まいでしょ。
妄想スイッチ・オン!
本書にはもう一つ、高札場跡として東村山市の
「高札場跡の碑」を
紹介しています。
こちらは東村山市恩多(おんた)町にある碑ですが、基壇などはすでになく、昭和11
年(1936)に建てられた角柱碑があります。

高札場が作られた場所は「恩多辻」という五差路です。西は青梅、東と南は江戸、
北は所沢へと向かう道が交わり、かつては地蔵堂があったそうです。

恩多辻を南側から見ます。矢印の下に高札場の碑があります。
現在、高札場跡の前にはスーパーができて交通量の多い場所ですが、江戸時代
当時も人通りの多い場所だったそうです。
なんとなく、雰囲気が伝わりますね。
妄想スイッチを、どうぞ!

道路の向かい側はガストだしね。

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とても面白そうな本ですね。
史跡を探訪する時、当時の状態が失われていても石碑(や標識)があると助かります。
他の用事で出かけた時も、石碑を見つけるとつい観察してしまいます(笑)
時々、石碑と史跡地が一致しないケースもありますね。
自治体が建てたならまだしも、民間の場合は注意を要するかも。
てっきりその場所と思って、後で古い地図などを調べたら違っていた…
という体験は何度もしました。原因はいろいろと考えられます。
◯建てる時によく調査しなかった
◯本来の跡地に建てる余地がなく、やむを得ず多少離れた場所に建てた
◯建った後、何らかの都合で移動されて有耶無耶になった
◯そもそも史実を伝えるためでなく、宣伝等の利益誘導を目的として建てられた
石碑の維持管理についても、責任の所在がはっきりしないケースは考えものです。
その場所が売り地になったり用途が変わったりすれば
建碑とは無関係の個人・法人が地権者になる場合もあるのに、
地権者の善意に期待してお任せしておくだけでいいのかな~と感じられます。
地域・自治体・関係者などと話し合い、ルール化するなりして
末永い保存につなげていただけたらいいですね。
本当にね、歴史好きは、その当時「そこに何があったか」に一番興味を感じるわけですよ。
なのに従来の市町村誌は、案外そういったことに答えてくれず、こっちはじりじりするしか仕様がありません。
紹介されているめちゃ面白そうなこの本にも言えることですが、昔の建物や史跡の所在は郷土研究者の何気ない書き物の中にこそ隠されているようです。
特に高札場の近くには往々として「御用宿」が存在していたようで、そういった意味でも、高札場跡の検証はたまらなく魅力的だと思います。
恩田に関しては存在すら知りませんでしたが、府中は高札場裏の村〇医院が、かつての御用宿・田中屋であり、ここの主人の田中屋(長谷部)万五郎は、武州一帯に勢力を張った岡っ引大親分であったそうです。
仰るとおりですね。
特に「〇〇跡」などや説明板のような類は、実際の場所よりも少し離れた所に
あることが多いような気がします。
石碑とは少し違いますが、庚申塔とか馬頭観音像などの石仏も、たいていは
元あった場所ではなく、お寺の境内に置かれていることが多いですね。
道路拡張等で行き場を失った結果なのでしょうが、せめて「元はどこに置かれて
いたものか」ということが説明板なりで一言添えてあると嬉しいなぁ、と
いつも思う次第です。
東村山市恩多の高札場跡は、地元の方でも興味がなければ気がつかないのでは
ないでしょうか。かく言うワタクシも、高校生の頃この前を何度も通りましたが
全く気がつきませんでした。
府中の高札場、甚左衛門さんの話を事前に聞いていたら、もっとよーく見て
おいたんだけどなぁ(笑)
田中屋万五郎・・・武州一帯の大親分ですか。面白そうな人物ですね!
凄く良いところを紹介して下さって、感激です。この辻に人が集まったのは、高札場であったと同時に地蔵庵(恩多自治会館の場所)があって、目黒・祐天寺の末庵でした。ここを拠点に六十六部の廻国僧が出入りをしたようです。祐天上人自筆の名号が残されていて、相当深い関わりを示します。
この庵は現在の市名で云えば、東村山市、武蔵村山市、東大和市、小平市、西東京市、所沢市、清瀬市の村人達に支えられていました。慶応3年(1867)4月の祐天上人百五十回忌にこの地域の村々が金品を奉納しています。
慶応2年に武州世直し一揆があり、物価高や不穏な状況が続く中での法要でしたが、村人達はソバや麦などを持ち寄っています。恩多の辻は狭山丘陵周辺ばかりでなく清瀬、田無辺りまで広がった地域の人々が集まったようです。この地域の浄土宗と共に地蔵信仰の広まりを強めた拠点であったことが偲ばれます。 野火止用水
詳しい解説、ありがとうございます。
本書によれば、石碑の裏に「地蔵堂所在地 祐天寺弟子僚覚入滅ノ地也」と
刻まれているようです。また隣りにはお地蔵様も祀られていますので、
今でも信仰されているのでしょうね。
野火止用水さんの話を聞いたあとで、この高札場を再び見に行ってみると、
妄想スイッチがまた違う村の様子を見せてくれそうです。
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