新しい高札

前回、新政府は村々に対して高齢者、孝行者、罹災者などに施しをするなど
懐柔策を提示し、さらに東京府民に御酒を振る舞い、戊申戦争の勝利を庶民に
印象づけたことをご紹介しました。
「里正日誌」によれば、東京府民たちは朝廷から下された御酒にとても喜び、
まるで天王祭のような賑やかさだったクリック!)そうです。

ここに至って新政府は、自らの方針をハッキリと民衆に呈示するため、旧来の
高札に新たに墨入れをして書き替えることにしました。

「辰(明治元年)11月6日御高札墨入れ願い
 『太政官高札新掲』
   畏れながら書き付けを以て願い上げ奉ります
武州多摩郡蔵敷村役人惣代の名主、杢左衛門が申し上げ奉ります。
このほど、王政御一新の御布告の趣をありがたくお受けし、御制札の書き替えを
お願い致したく、新板3枚を添えてこのことをお願い申しあげます。
なにとぞ御慈悲を以て墨入れをしてくだされますように、お願い致します。以上。
                    当御支配所 武州多摩郡蔵敷村
                      役人惣代 名主 杢左衛門  
  明治元年辰11月3日 
     韮山県 御役所   」


注目されるのは、高札を建てるのは村民の「お願い」である、という点でしょうか。
その通りに受け取れば、村が早く高札を書き改めて欲しいと願っていることになり
ます。
しかし、「何卒以 御慈悲御墨入被成下置度奉願上候」とは、ちょっと言い過ぎか
なぁ。
そこまで言う?
なんか、言わされてる感をヒジョーに強く感じるのですが・・・。

そもそも高札って、どんなコトが書いてあるのでしょうか?
蔵敷村には旧来4枚の高札がありました。「里正日誌」によれば、その4枚に書かれて
あった内容は次の通りです。
「正徳元年(1711) 火をつけた者について云々
 同年5月 キリシタン宗門について云々
 享保6年(1721)2月 そこここの村々でもし鉄砲を撃つ者がいたら云々
 明和7年(1770)4月 何事によらず云々」


最後の明和のものは具体的に何を指しているのかわかりませんが、全体として言える
のは細かな法令や規則などではなく、守るべき基本的なルールが書かれているという
ことでしょうか。

さて、結果的に新しく墨入れされた高札が3枚、新政府から掲示されました。
その内容は以下の通り。
まず、1枚目から見てみましょう。

「一、人間である以上、五倫の道を正しくすること
   『五倫とは君臣、父子、夫婦、長幼、朋友』
一、老いて妻や夫を亡くした者、親や子供のいない者、病身・障がいのある者を
憐れむべきこと
一、人を殺し、家を焼き、財産を盗むなどの悪行はしないこと
         慶応4年3月   太政官   」


読んでいただければおわかりのように、中身はほとんど道徳ですね。
日付を見ると半年前に太政官から、以上の方針が発表されていたようです。
太政官(だじょうかん)とは、明治新政府初期の最高官庁のことです。明治18年
(1885)に内閣制度が発足するまでありました。
高札を建てるというのは、村がこういった方針を出している政権の下に入りましたと
言ってるようなものなのですね。

2枚目はこんなかんじ。

「 定
どんな事においても、良くない事をしようと大勢で申し合わせて徒党を組み、志を立てて
願い事を企てることを強訴という。また、申し合わせをして居住する村や町を立ち退く
ことを逃散という。これらを堅く禁止とする。
もし、右の類のようなことを見聞きしたら、早々にその筋の役所に申し出ること。
御褒美が下されることである。 
         慶応4年3月   太政官  」


そして3枚目

「一、邪宗門についてはこれまで禁止していた通り、堅く守ること。
 一、キリシタン宗門については、固く差し止める。
         慶応4年3月   太政官  」


集会の禁止、勝手に土地から離れることの禁止、キリスト教の禁止、いずれも徳川時代
に定められたルールそのまま。特に目新しいことが書かれているワケではないようです。
慶応4年3月・・・といえば、江戸やその周囲には彰義隊やら新選組やらがまだ反撃の
機会を伺っていた頃ですから、新政府としても新しいことを決める時間もなかったので
しょう。

重要なのは、書かれている内容よりもむしろ、「新政府が作った高札を村に掲げる」と
いう行為そのものだったのでは、と思います。
狭山丘陵周辺の村々も、新政権がすでに動かないであろうことを実感として感じ取って
いたのかもしれません。

メガ6
・・・とはいってもレプリカですが。
ホンモノはすでに字が読めなくなっているそうです。
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#742 今更何を
 この高札には呆れますね。新政府もそうですが、村が相も変わらず、徒党・強訴、キリシタン禁制の高札を願い出るという図式が噴飯物です。
 でも、この当時、博徒が横行し、盗賊が増え、中には無宿者が含まれるなど、取り締まりを新政府に要請しなくてはならず、11月には蕨宿助郷免除願いを出すなど、頼りにならない元代官と新しい支配体制には、何らかのおべっかも必要だったのかも知れません。
 この時代になると、広域な地方文書整理と背景分析が必要であることを切実に思います。
 野火止用水
#743 野火止用水さま
この高札を見る限り、明治政府が民衆を治める方針が徳川時代と変わっていない
ことがわかります。
村民には政権が替わったことで、生活改善に淡い期待があったかもしれませんが、
助郷が増えるなど新たな負担もあり、その期待感はしぼんでしまったことでしょうね。
仰るように、中央と地方の温度差がもっと解明されるようになると、明治新政府の
実態もより見えてくると思います。
#744 維新だの復古だの
明和7年の高札は、おそらく「強訴・逃散の禁止」令だと思います。
同年発令の、冒頭文言が同じ高札が、各地にあった様子ですから。
つまり、新政府の高札2枚目とまるっきり同じ内容ですね。

キリシタン禁令は、多摩では特に問題なかったでしょうけど、
つい「浦上四番崩れ」を思い出してしまいました。
諸外国から抗議されながら、旧幕時代よりも苛烈な弾圧を信徒に加えておいて、
結局は外交圧力に抗しきれず、明治6年には禁令を撤廃した新政府。
なんだかな~って感じです。
#745 東屋梢風さま
明和7年の高札について、ありがとうございます。
逆に言えば、明治新政府はやはり幕府の基本方針をそのまま踏襲していた、と
いうことになりますね。

ワタクシも高校生のとき、遠藤周作「女の一生・一部キクの場合」を読み、小説
ながら明治政府のキリシタン迫害には驚いたものです。
明治政府は欧化政策を進めながら、一部ではこのように国際化に逆行したことを
続けていたというのも、本当に「なんだかな~」ですねぇ。

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